四天王寺
千四百年の時を超えて・・・・・
今から千四百年有余年前の推古元年(593)10月、推古天皇の摂政皇太子であった聖徳太子は、日本仏法最初の大寺である四天王寺を創建され、外交・内政両面の拠点とされました。
外交では、それまでの隋国への朝貢外交を改め、推古15年(607)に国書を送り対等外交を確立し、日本国の尊厳を見事に示されました。
内政では、「冠位十二階」を制定し優れた人材を登用して平等社会を実現されました。
また『十七條憲法』を作成して日本で初めて国家の法制を整えると共に人としてのあり方を示され、『三経義疏』を著しては、国民の持つべき理念を教示し、かくて日本の将来の進むべき方向を見事に確立されました。
今日のこの重大な時期を迎え、今こそ聖徳太子のご精神に学ぶべき時が到着しているのではないでしょうか。 四天王寺では皆様に共に聖徳太子の偉業を讃仰してまいりたいと存じます。
御朱印に挟まれていた説明書から・・・
千四百年の時を超えて・・・・・
今から千四百年有余年前の推古元年(593)10月、推古天皇の摂政皇太子であった聖徳太子は、日本仏法最初の大寺である四天王寺を創建され、外交・内政両面の拠点とされました。
外交では、それまでの隋国への朝貢外交を改め、推古15年(607)に国書を送り対等外交を確立し、日本国の尊厳を見事に示されました。
内政では、「冠位十二階」を制定し優れた人材を登用して平等社会を実現されました。
また『十七條憲法』を作成して日本で初めて国家の法制を整えると共に人としてのあり方を示され、『三経義疏』を著しては、国民の持つべき理念を教示し、かくて日本の将来の進むべき方向を見事に確立されました。
今日のこの重大な時期を迎え、今こそ聖徳太子のご精神に学ぶべき時が到着しているのではないでしょうか。 四天王寺では皆様に共に聖徳太子の偉業を讃仰してまいりたいと存じます。
御朱印に挟まれていた説明書から・・・
りひとさんが、色々書いてくれたので勉強になりましたよ。
以前から、歴代天皇「完全版」とう本があったのですが、何か調べる時に便利だと思い本棚に入れたありました。
やっと開くチャンスが来ました。
推古(33代)を見てみると、父親は29代の欽明でした。
45歳の子?裏側では、蘇我氏と物部の争いが見えてきますね。 推古は蘇我氏が擁立し、遣隋使の派遣や小野妹子も出てきます。 前の代の崇峻の時に穴穂部さんが蘇我軍に討たれていますね。
数ページながめていると、34代舒明が崩御すると継承争いを回避するために、皇后が天皇になります。それが35代皇極天皇で実は、37代の斉明天皇は同一人物です。36代孝徳は弟なのですが10年後に崩御してしまい再び37代天皇になったようです。
今まで寝かせて置いた本ですが、読んでみると面白いです。
古墳時代には石舞台はあったようなので、これを調べただけでも長い歴史書が出来るでしょうね。
やっぱり、タイムマシンが欲しい。
私行けなかった場所というかその当時、日本で有名な三大舞台があるって知らなかったんんですよ。住吉でも見逃してます、確か。問題は雅楽の前に舞楽やってなかったか?気になってます。四天王寺も元からそこだったんでしたっけ?当時かなりハマっていたんで再度調べてみますね。石ですね、清水寺は木ですけど、神が降臨したのは石のが早いようですよ、蓮の上よりも。なんかその辺りも含めて目的と場所と用途なども時代ごとに変化しそうですね。
けど推古天皇ってなんか特殊ですよね?東京では浅草が推古からの歴史あるようでかなり古い場所として認識されてるみたい。推古の時ってどうも転換期のようですよ、女帝ですね。ちゃんと前後の変化をみないといけない時期のように思いますよ。あと昔卑弥呼系の講演会で色々昔の日本と中国の付き合い方でお話聞いた時に思ったのが、帯方楽浪経由での中国との付き合いも仲良かったように思ったんですよね。それも向こうの方が日本にリスペクトあったようにも思い、また逆に日本もいざという時にはヘルプを求めていたような?倭王武の頃だったかなぁ?日本のか向こうの〜碑文とか石に記載されていたような?子供の歴史の勉強とちょうど重なりコレコレって思ったんですよ。もうだいぶ子供の勉強は進んでしまっただろうけどまた最初の古代から学び始める子に合わせていまどきの教科書とも照合してみます、昔の常識と今の研究って違いますからびっくりだけど新鮮ですね。
ただ推古さんの時はどうも違うんですよね、遣隋使の頃は向こうから学んできてるようだと思ってましたけど対等求めてるんですね。そのあとの時代では道真さんは遣唐使はやめてるし。なんかその外交方式の変化にも興味ありますね。ちょうど現世の外交ともリンクして飴とムチの強弱の変化も気になりますよ。推古さんの後また各一族での大変な御時世になっていくのも考えるとちょい怖いですよ。
アジアの中の日本の歴史も研究してくれている方もいるので日本での今迄の常識と同じなのか?気になります。聖徳太子は厩戸皇子で天皇になっていないのも。
721年には孔王部(あなほべ)さんは下総の葛飾郡には戸籍上50戸1000人ほとんどの名字みたいですから奈良と東京も気になりますよ。神奈川の防人も大阪経由でもあるので大阪もとても大事ですし。聖徳太子の時代から120年であなほべの音で考えると接点ありそうに思うので今でいうと30年で一世代で考えると4世代、当時は結婚も早いし寿命短いと思うと6世代くらいで1000人に増えるかな?方向は反対方向も含めて食物が豊かな時代なら増えるかな。当時の情勢気になり出しましたよ。
あと大寺の最初かどうか?そこも私寺や廃寺跡の伽藍や礎石での規模も含めて気になりますね。
そう思うと大阪の奈良時代のもっと詳しい歴史が見えてくると少なくても関東は繋がってくるでしょうね。聖徳太子の後の時代は東北は繋がるので大阪と福島がが繋がるのが一番面白くなりますよね。
お地蔵さんもいたんですね、四天王寺は元三の所以外見れていないし、そのあと二回近くまで行って体力限界で断念でしたのでちゃんと四天王寺の勉強してみますね。地蔵エリアがお寺の外にあるのでかなり広い敷地だったんではないかな?とは思いますね。
なんか調べるきっかけになりそうです。
確かに東北人は、その通り。良く言えば真面目なんですかね。
大阪は、京都より古いですね。まぁ都が奈良にあった事もありますが、古墳の集合も見事です。
後程、古墳をアップしますが、上から見ないと、ただの丘です。
現在では東北人には「がさつ」な感じで、とっつきにくい場所ですが.....
天王寺駅も随分とご無沙汰ですが、いつも工事中のイメージがありました。
JR、私鉄、地下鉄、路面電車と、周辺の鉄道写真の撮影に、息子たちに引っ張りまわされました。
今では息子たちは、それぞれ勝手に天王寺駅まで出かけてます。