戦艦大和については簡単に前ページにてスライドショーにて紹介しました。
簡潔に大和ミュージアムをご紹介します。
ココに展示している大和は10分の1スケールで全長26.3m、幅3.9mの迫力の雄姿です。
実はまだまだ大和のことは謎が多くあります。
大戦に負けた時、この大和の設計図は殆どが焼かれてしまいました。それは米軍に情報を盗まれない為のものです。
最近一部の設計図が見つかったようですが、この大和は残された一部の設計図と潜水調査した映像を元にできるだけ詳細に再現したようです。
呉駅の目の前には、どでかいスクリューが展示しています。
日本海軍の一大軍事基地として繁栄した「呉」を象徴するかのようである。
現在も海上自衛隊の基地がありまた、今も旧海軍時代の面影を留めている。
屋外には戦後引揚げられた戦艦「陸奥」の主砲などの部品が展示してある。
41センチ主砲はここ呉海軍工廠で開発されたものです。
これは陸奥の梶ですが、大和の物は丸みを帯びておらずもう少し大きいです。
この零戦は個人の方が作成したものです。本にはお亡くなりになったそうですが、大和ができてから遺族の方が展示して欲しいと持ってきたそうです。作成者の念願が叶ったことでしょう。
それでは、こちらが本物の零式艦上戦闘機「六二型」です。
ゼロ戦で有名ですが、世界に二機しか残っていないそうです。
操縦席が覗けました。
レーダー「光学・電測兵器」
大和には世界最大の46センチ主砲を管制するために「九八式方位盤照準装置」と「九八式射撃盤改一」との組み合わせた射撃指揮装置が搭載された。
これにデータを供給するのが世界最大の15メートル三重式測距儀だ。
これが「九八式射撃盤改一」射撃盤です。写真は「長門」のものですが、大和も同型を搭載していました。
主砲の射撃に必要なデータを算出する機械式コンピュータです。
これは、長門の配線室です。
主砲及び副砲の射撃データに関する電気回路が集中している部屋で回路切替やヒューズ等の電気機器が壁一面に設置されています。
すごい射撃システムですね。
日米開戦後、海戦のの主力は、予想をはるかに越える航空機へと移った。
その為、大和の対空兵装は順次増設された。
昭和18年7月下旬
両舷の副砲防御用として、25ミリ三連装機銃各2基搭載された。
昭和19年3月
両舷の副砲を撤去し、12.7cm連装高角砲を3基ずつ搭載。さらに25ミリ三連装機銃12基、同単装機銃26基も装備された。
昭和19年6月下旬
「あ」号作戦後、「捷一号」作戦に出撃するまでの間に25ミリ三連装機銃5基が追加された。
昭和20年1月
レイテ沖海戦後損害箇所の修理と共に25ミリ三連装機銃21基が追加された。
対空兵器はこの状態で沖縄特攻を迎える。
丸一式徹甲弾
人間魚雷「回転」
最初は命を無駄にするのは駄目だと反対されたが、最後の手段で採用された。
ボランティアガイドさんの話を聞く小生とカミさん。
ここには回転の実寸代の図面が書いてある。人間が入るスペースは非常に狭く息苦しそう。
その為、身長制限があったようだ。
ミュージアムの外にはこんなものが・・・
隣接して海上自衛隊基地がある。
護衛艦「いせ」
タンカーですが大和はこれより若干短いくらいです。
大和誕生のドック
大和を含め「長門」「赤城」「扶桑」などの主力戦艦一番艦を建造したドックです。
いつもの如く長くなりました。 失礼!
簡潔に大和ミュージアムをご紹介します。
ココに展示している大和は10分の1スケールで全長26.3m、幅3.9mの迫力の雄姿です。
実はまだまだ大和のことは謎が多くあります。
大戦に負けた時、この大和の設計図は殆どが焼かれてしまいました。それは米軍に情報を盗まれない為のものです。
最近一部の設計図が見つかったようですが、この大和は残された一部の設計図と潜水調査した映像を元にできるだけ詳細に再現したようです。
呉駅の目の前には、どでかいスクリューが展示しています。
日本海軍の一大軍事基地として繁栄した「呉」を象徴するかのようである。
現在も海上自衛隊の基地がありまた、今も旧海軍時代の面影を留めている。
屋外には戦後引揚げられた戦艦「陸奥」の主砲などの部品が展示してある。
41センチ主砲はここ呉海軍工廠で開発されたものです。
これは陸奥の梶ですが、大和の物は丸みを帯びておらずもう少し大きいです。
この零戦は個人の方が作成したものです。本にはお亡くなりになったそうですが、大和ができてから遺族の方が展示して欲しいと持ってきたそうです。作成者の念願が叶ったことでしょう。
それでは、こちらが本物の零式艦上戦闘機「六二型」です。
ゼロ戦で有名ですが、世界に二機しか残っていないそうです。
操縦席が覗けました。
レーダー「光学・電測兵器」
大和には世界最大の46センチ主砲を管制するために「九八式方位盤照準装置」と「九八式射撃盤改一」との組み合わせた射撃指揮装置が搭載された。
これにデータを供給するのが世界最大の15メートル三重式測距儀だ。
これが「九八式射撃盤改一」射撃盤です。写真は「長門」のものですが、大和も同型を搭載していました。
主砲の射撃に必要なデータを算出する機械式コンピュータです。
これは、長門の配線室です。
主砲及び副砲の射撃データに関する電気回路が集中している部屋で回路切替やヒューズ等の電気機器が壁一面に設置されています。
すごい射撃システムですね。
日米開戦後、海戦のの主力は、予想をはるかに越える航空機へと移った。
その為、大和の対空兵装は順次増設された。
昭和18年7月下旬
両舷の副砲防御用として、25ミリ三連装機銃各2基搭載された。
昭和19年3月
両舷の副砲を撤去し、12.7cm連装高角砲を3基ずつ搭載。さらに25ミリ三連装機銃12基、同単装機銃26基も装備された。
昭和19年6月下旬
「あ」号作戦後、「捷一号」作戦に出撃するまでの間に25ミリ三連装機銃5基が追加された。
昭和20年1月
レイテ沖海戦後損害箇所の修理と共に25ミリ三連装機銃21基が追加された。
対空兵器はこの状態で沖縄特攻を迎える。
丸一式徹甲弾
人間魚雷「回転」
最初は命を無駄にするのは駄目だと反対されたが、最後の手段で採用された。
ボランティアガイドさんの話を聞く小生とカミさん。
ここには回転の実寸代の図面が書いてある。人間が入るスペースは非常に狭く息苦しそう。
その為、身長制限があったようだ。
ミュージアムの外にはこんなものが・・・
隣接して海上自衛隊基地がある。
護衛艦「いせ」
タンカーですが大和はこれより若干短いくらいです。
大和誕生のドック
大和を含め「長門」「赤城」「扶桑」などの主力戦艦一番艦を建造したドックです。
いつもの如く長くなりました。 失礼!
と、言いますのも、当時の呉海軍工廠、工廠長、庭田さんが、「4枚羽だった!間違いない」と言いまして、当時の設計主任「牧野さん」が「どっちいだったか覚えていない」となりました。信濃設計の「福田さん」が「3枚だったっと思う信濃はそうだった。おそらく大和もそうに違いない」と断言しましたが。結果、大和沈没の映像を見るまで、論戦の的だったのです。
今、設計の段階での的?ですが、航空機格納庫からカタパルトまでの床がエレベーターかそうでなかったか。実は、模型も、その部分は、言い伝え?による模型なのです。設計図は全て焼却され、残っているのもは大和側面断面の甲鉄の厚さを示すもののみ。実は、祖父のいた、暗号室も、設計段階では一つであるのに、レイテ以降、司令部暗号室を増設しております。(これにも異を唱える方がいらっしゃいます)本当は、祖父が最期、どこにいたかは解らないのが史実なのです。
方位盤射撃。砲塔を動かす水圧ポンプ。
時代から遅れているようで、しかし、その技術は世界の最先端。
写真をみて、改めてそう思います。
ひーさんよろしく、長いコメント。
「散歩道ファンの皆様」ご容赦下さい。
行ってみたいですね (^^♪
大和が 空母だったら
どうなっていたんでしょう~ね
どちらにしても
戦局には関係なかったんでしょうね
まだまだ謎が多い大和ですね。
船首にある菊の紋も当初180cmくらいといわれていたそうですが、実際の沈んだ大和のお陰で実寸がわかりました。
人の記憶には思い込みが邪魔をしてしまいますね。
記事に書くのを忘れましたが、レーダーはアメリカが八木アンテナを駆使して開発をしていたそうですが、日本は全く遅れていたようです。
早くしないと、ドンドン記憶や証拠は消えていってしまいますね。
それは米国の産業技術の大きな力を知っていたからです。
猛反対しましたが、うぬぼれていた日本は強行しました。最初から負けは決まっていました。
無駄な命をなくしたのです。