尾島町・遊郭と塩釜甚句
私の覚書みたいなものです。
上記の写真は、昭和37年頃の塩釜市場水揚げ岸壁です。写真集 ふるさと昭和時代 塩釜・松島より
瑞鵬殿4この記事の中で、伊達4代藩主綱村が、仙台から遊郭を塩釜に移したとことをチラット書いてます。
その理由は、3代藩主の逼塞にあるのかと考えてました。
綱村公の心情は分かりませんが、他にもいくつか理由があったようです。
綱村公は陸奥国一ノ宮の門前町である塩竈の町が衰退することを恐れ、塩竈は諸役御免、つまり税金が免除されました。
それは、明治維新まで続きますが、その後塩竈は衰退します。
廃藩置県の為、伊達家から手厚く守られた塩竈も援助が無くなるからです。
しかし、塩竈の商人達も優れた商才で乗り切っていくのです。
まずこの写真を見ていただきたい・・・現在の様子ですが、建築の構造を見ると、昔は、遊郭だったのではと思わせる形です。
もっとあるのですが一部です。
以前食事をしたところも、総二階建の古い建物で、恐る恐る聞きました。「ここは、昔何をしていましたか?」するとお上さんらしき人が、「昔は、船宿だったそうですよ」私は間違いないと思いましたね。
さて、何故塩釜に遊郭が多かったのでしょう。
それは港町ということで、船乗りが多く、遊郭が存在する大きな要因であったことでしょう。
伊達藩では石巻と塩竈に許されていました。
仙台城下の若林、南染師町附近にあった遊女屋が、士気を低下させるということから塩竈に移されたそうです。
これは、仙台市常磐町・小田原遊郭(大正時代) 「なつかしの仙台2から」
塩竈で遊郭と言うとこの歌を想起します。
塩釜甚句 仙台ハットセ:ハットセ踊り
(ハハハットセ)
塩釜(ア、ハットセ)街道に白菊植えて(アハットセ)
アリャ便り聞く
千賀の浦風 身にしみじみと(アハットセ)
語りあう夜のアリャ友千鳥 (アハットセ)
さあさ、やっこさと乗り出す船は(アハットセ)
命帆をかけアリャ浪まくら (アハットセ)
塩釜出るときゃ大手ん振りよ(アハットセ)
奏社の宮からアリャ胸勘定 (アハットセ)
※奏社の宮=現在の総社宮・・昔は奏の字を書いていました。
昭和31年 松島ハットセ踊り こけしの看板が懐かしい・・・松島海岸の通りです。
写真集 ふるさと昭和時代 塩釜・松島より
対橋楼 ハットセ踊り
塩竈甚句は、別名仙台ハットセ、またはハットセ踊りとも呼ばれています。
そもそも甚句というのは、七、七、七、五の四句からなり、踊りを伴うものが多いようです。
塩竈甚句の元になるのが「よしこの節」のようです。
「よしこの節」は日本独特のリズムに合わせて、即興で歌い、踊る民謡のことをさします。
茨城県、潮来地方の「潮来節」が起源とされており、江戸に廻船していた船乗によって、全国の港に伝わるようになりました。
例えば、徳島の阿波踊りは本来「阿波よしこの節」と呼ばれていたそうです。
また、「佐渡おけさ」も「よしこの節」であり、「よしこの節」は、日本独特の2拍子のリズムであり、日本の伝統民謡で、歌い、踊られているものの多くが「よしこの節」と言われています。
伊達藩の廻米船の港であった塩竈にも、やはり「よしこの節」は上陸し流行しました。
その理由としては、塩竈には遊郭が多く存在していたことが挙げられます。
やがてそれらは塩竈の伝統民謡の塩竈甚句として定着していったのです。
現在では塩竈甚句は緩やかなテンポ調ですが、本来の姿は、阿波踊りのようにアップテンポでリズミカルな「よしこの節」だったようです。
この、「ハットセ」ですが、陸中(岩手)の宮古、山田、釜石の漁港で歌われた「ハットサササ」が転訛したものだといわれています。
このよしこ節が、遊郭でも流行し、塩釜甚句の歌詞の中にも、当時を思わせる部分が残されていることからも分かります。
黄色い点が国道45号線でオレンジ色が尾島町の消防本部のある通りです。
現在の尾島町の様子
以上お付き合いありがとうございました。
遊女については、寒風沢島を外せません。いずれ取材に行きたいと思います。
PS.2011.10.16追記 塩竈遊女屋と遊女番付
私の覚書みたいなものです。
上記の写真は、昭和37年頃の塩釜市場水揚げ岸壁です。写真集 ふるさと昭和時代 塩釜・松島より
瑞鵬殿4この記事の中で、伊達4代藩主綱村が、仙台から遊郭を塩釜に移したとことをチラット書いてます。
その理由は、3代藩主の逼塞にあるのかと考えてました。
綱村公の心情は分かりませんが、他にもいくつか理由があったようです。
綱村公は陸奥国一ノ宮の門前町である塩竈の町が衰退することを恐れ、塩竈は諸役御免、つまり税金が免除されました。
それは、明治維新まで続きますが、その後塩竈は衰退します。
廃藩置県の為、伊達家から手厚く守られた塩竈も援助が無くなるからです。
しかし、塩竈の商人達も優れた商才で乗り切っていくのです。
まずこの写真を見ていただきたい・・・現在の様子ですが、建築の構造を見ると、昔は、遊郭だったのではと思わせる形です。
もっとあるのですが一部です。
以前食事をしたところも、総二階建の古い建物で、恐る恐る聞きました。「ここは、昔何をしていましたか?」するとお上さんらしき人が、「昔は、船宿だったそうですよ」私は間違いないと思いましたね。
さて、何故塩釜に遊郭が多かったのでしょう。
それは港町ということで、船乗りが多く、遊郭が存在する大きな要因であったことでしょう。
伊達藩では石巻と塩竈に許されていました。
仙台城下の若林、南染師町附近にあった遊女屋が、士気を低下させるということから塩竈に移されたそうです。
これは、仙台市常磐町・小田原遊郭(大正時代) 「なつかしの仙台2から」
塩竈で遊郭と言うとこの歌を想起します。
塩釜甚句 仙台ハットセ:ハットセ踊り
(ハハハットセ)
塩釜(ア、ハットセ)街道に白菊植えて(アハットセ)
アリャ便り聞く
千賀の浦風 身にしみじみと(アハットセ)
語りあう夜のアリャ友千鳥 (アハットセ)
さあさ、やっこさと乗り出す船は(アハットセ)
命帆をかけアリャ浪まくら (アハットセ)
塩釜出るときゃ大手ん振りよ(アハットセ)
奏社の宮からアリャ胸勘定 (アハットセ)
※奏社の宮=現在の総社宮・・昔は奏の字を書いていました。
昭和31年 松島ハットセ踊り こけしの看板が懐かしい・・・松島海岸の通りです。
写真集 ふるさと昭和時代 塩釜・松島より
対橋楼 ハットセ踊り
塩竈甚句は、別名仙台ハットセ、またはハットセ踊りとも呼ばれています。
そもそも甚句というのは、七、七、七、五の四句からなり、踊りを伴うものが多いようです。
塩竈甚句の元になるのが「よしこの節」のようです。
「よしこの節」は日本独特のリズムに合わせて、即興で歌い、踊る民謡のことをさします。
茨城県、潮来地方の「潮来節」が起源とされており、江戸に廻船していた船乗によって、全国の港に伝わるようになりました。
例えば、徳島の阿波踊りは本来「阿波よしこの節」と呼ばれていたそうです。
また、「佐渡おけさ」も「よしこの節」であり、「よしこの節」は、日本独特の2拍子のリズムであり、日本の伝統民謡で、歌い、踊られているものの多くが「よしこの節」と言われています。
伊達藩の廻米船の港であった塩竈にも、やはり「よしこの節」は上陸し流行しました。
その理由としては、塩竈には遊郭が多く存在していたことが挙げられます。
やがてそれらは塩竈の伝統民謡の塩竈甚句として定着していったのです。
現在では塩竈甚句は緩やかなテンポ調ですが、本来の姿は、阿波踊りのようにアップテンポでリズミカルな「よしこの節」だったようです。
この、「ハットセ」ですが、陸中(岩手)の宮古、山田、釜石の漁港で歌われた「ハットサササ」が転訛したものだといわれています。
このよしこ節が、遊郭でも流行し、塩釜甚句の歌詞の中にも、当時を思わせる部分が残されていることからも分かります。
黄色い点が国道45号線でオレンジ色が尾島町の消防本部のある通りです。
現在の尾島町の様子
以上お付き合いありがとうございました。
遊女については、寒風沢島を外せません。いずれ取材に行きたいと思います。
PS.2011.10.16追記 塩竈遊女屋と遊女番付
今に残る建物も、何となくそれっぽい。
紅殻格子の窓が残っておりました。
遊郭の存在が善なのか悪なのか、時代も違っており、なんとも判断が難しいところです。
消防署で思い出しました。
少年消防団(だったかなー)の団長でした。
そのテの役職をやたらと抱えていた中学生でした。
でも、少年消防団って、なんだったのだろ?
写真の
ハットセ踊りのころの賑わいが
今も続いているんですか?
夕べは、明け番で訪問したのですが、疲れてコメ入れずにいました。
港町には欠かせないかも知れませんね。
「火の用心」って回ったのかな?
火災の時は、邪魔だったりしてwww
赤線・・・・微妙ですね。
面白そうではありますが。
赤い窓はトレードマークですね。
昔は、芸妓さん達が踊っていたようですね。
塩竃甚句は、民謡として誰もが歌っていましたね。
たびたびのお見舞いありがとうございました。
またボチボチお邪魔させていただきますネ
気にせず休んで下さいね。
これにも訳があるのだろうと思っておりましたが、亀井さんの資料にも佐浦さんの古地図にもありません。
ですが、ひーさんのご指摘通り、尾島町とそして表参道界隈にはそのような遊郭を連想させる建物は残っております。
案外貴重な建築物かとも思うのですが、保存するまでもなかろうかな?とも・・・。
相撲甚句、ハットセ。
案外昔はよく聞いていたような気がします。
遊覧船で流しておりませんでしたでしょうか。
もう少し調べてみます。20歳のころから気になっていたのが、寒沢です。化粧地蔵等も気になりまた、遊郭のあった島です。いろいろ謂われを聞いていますので、近い内に行きたいと考えています。