本当はカテゴリーを「白黒の想い出」にしようと思いましたが、鉄道にしました。
Googleでチョット調べて見ましたが、本塩釜駅の旧駅舎は、見当たりません。
そこで、鉄道のファンの為にも、カテゴリーを鉄道にしました。
本塩釜駅のある仙石線、旧宮城電鉄は、昭和19年(1944年)5月1日に国有鉄道になります。
しかし、 昭和56年(1981年)11月1日に 高架及び複線化で現在地に移転することになったのです。
幼い頃、何かと言えば母に連れられ塩竃に行ってたような気がします・・・・
以前、タイムスリップ/宮城県塩竃市内の記事の写真の今野薬局さんが写ってますが、その並びに玩具屋さんがありました。
その前を通ると僕は駄々を捏ね、座り込みを決していたようです。
その為、母は玩具屋さんの前を避け、向い側の通りを違うものに気を引き付けながら歩いたそうです。
その通りの裏に闇市があります。
それは、日を改めて覗くことにします。
本塩釜駅に戻ります。
当時の駅舎は、現在の壱番館の所にあり、海からの入り江と言うか?
川が鹽竃神社の表参道まで続いています。地元丹治さんのコメントを引用させていただくと新河岸川(古くは祓川)と呼ばれ、参拝客の清めの川であったそうです。
しかし、僕が小さい頃は、もうドブ川状態でした。
写真にも、ちょっと写ってますが、隣には食堂があります。
こうして見てみると、大きく感じていた駅舎は意外と小さかったのだと知らせれます。
あの入り口には、つぼ焼き芋を売ってる人がいました。
壺の中に針金で芋をつるし、焼いていたのです。
あの光景が白黒の映像で甦ってきます。
写真はぐずらさんのご尽力で提供いただきました。
ありがとうございます。(昭和50年初期の写真のようです)
Googleでチョット調べて見ましたが、本塩釜駅の旧駅舎は、見当たりません。
そこで、鉄道のファンの為にも、カテゴリーを鉄道にしました。
本塩釜駅のある仙石線、旧宮城電鉄は、昭和19年(1944年)5月1日に国有鉄道になります。
しかし、 昭和56年(1981年)11月1日に 高架及び複線化で現在地に移転することになったのです。
幼い頃、何かと言えば母に連れられ塩竃に行ってたような気がします・・・・
以前、タイムスリップ/宮城県塩竃市内の記事の写真の今野薬局さんが写ってますが、その並びに玩具屋さんがありました。
その前を通ると僕は駄々を捏ね、座り込みを決していたようです。
その為、母は玩具屋さんの前を避け、向い側の通りを違うものに気を引き付けながら歩いたそうです。
その通りの裏に闇市があります。
それは、日を改めて覗くことにします。
本塩釜駅に戻ります。
当時の駅舎は、現在の壱番館の所にあり、海からの入り江と言うか?
川が鹽竃神社の表参道まで続いています。地元丹治さんのコメントを引用させていただくと新河岸川(古くは祓川)と呼ばれ、参拝客の清めの川であったそうです。
しかし、僕が小さい頃は、もうドブ川状態でした。
写真にも、ちょっと写ってますが、隣には食堂があります。
こうして見てみると、大きく感じていた駅舎は意外と小さかったのだと知らせれます。
あの入り口には、つぼ焼き芋を売ってる人がいました。
壺の中に針金で芋をつるし、焼いていたのです。
あの光景が白黒の映像で甦ってきます。
写真はぐずらさんのご尽力で提供いただきました。
ありがとうございます。(昭和50年初期の写真のようです)
でもあまり無理をしないように…
まだまだ寒いですからね~
私も微熱が続きだらだらしてました
お互い気をつけましょうね!
寒い寒い風が強いし冷たい…
なんで真冬より寒いわけ?
やんだぐなります。
もう、御仕事ですか?大丈夫ですか?
今日は風も強く真冬に逆戻りとか
お気をつけ下さいね。
昔の本塩釜駅(塩竃神社のある駅ですよね?)
小さくて可愛い駅だったのですね。
子供の頃もうすでにどぶ川って・・
綺麗な川に戻したいですねぇ~
こちらもどぶ川あるよ
人間のエゴでどぶ川になったんだよね
食欲もありません。参った!
参りました。
川の上には道路が出来ました。
だいじょうぶですか?
本当~無理されませんように
それにしても~
よく写真入手できましたね
当時の本塩釜駅、左の「やきそば」の看板のあるところは
駅の向こうのR45に架かってた歩道橋から続く
川の上に張り出した渡り通路で駅舎の陰になってる辺りに
狭くて汚い一杯呑み屋があり何度か入ったことがあります。
写真には写ってないけど、右側には兄弟屋靴店があって
その二階が食堂になってましたね。
今日は、休憩の度寝てました。
ヨカッタ
ところで、この駅舎は昭和56年以降のものですね?
つぼ焼き芋ですか、それは初耳。
石焼き芋とどちらが美味しいんでしょう?
同じかなあ?
本塩竈駅は、友人の親父さんがいて、自分の記憶の中ではホームが印象的ですね。
一杯飲み屋ありましたね。
よく覚えてますね。
やっとこの時間になって熱が下がって来ました。
しかし、ご飯が食べれなかったので、明日病院にいきます
この駅舎は昭和56年以前の物です。
無くなると懐かしさ倍増です。
芋が熱でホクホク美味しいのは、どちらも同じてすね。
それにしても写真の階段は、子供の頃にはもっと大きかった記憶があるのですがね。
三小の1年生の頃、生まれて初めて一人で電車に乗りました。
本塩釜までは歩いて行き、帰りは仙石線で下馬まで戻りました。
小遣いの範囲では、片道しか乗車できませんでした。
あの頃の本塩釜駅舎も三小校舎も、全て消えてしまいました。
昭和50年2月8日。午前6時45分。雪の降る朝。
ここから全てが始まったのでした!
北側にはホームも伸びていた気はするのですが?
成人してもあったはずなのに、大人になってからは、車を使ってたから駅の印象が薄れているのですね。
この日に何が始まりましたか。
この日が転校初日でした。小学六年生。卒業まであとわずかの転校でした。
ですから、卒業アルバムは塩竈。文集は仙台でございました。
ですが、この出来事がございませんと、丹治さんとは出会えませんでした。
かつぎやのおばちゃんと一緒の通学でした。
線路を折り曲げて、ホームの柱が立てられておりました。
それと、駅ホーム内にあった立ち蕎麦屋は、案外旨かったのでした。
佐々木食堂が写っておりますが、その左、「かんだ」の蕎麦は過去ブログで語っておりますし、電話ボックス横で営業してました、つぼ焼き芋も忘れられません。
本人は辛いところもあったのでは・・・
かんだの蕎麦? 仙台には「神田のそば」がありますが、関係ないのですかね?
線路の柱・・・自分も思い出しました。
あれは、アメリカの払い下げだったのですか~
凄く記憶にあります。
ホームの記憶が強くあります。確かにこれ線路じゃ無いの?
と思ったことがありましたよ。
線路も越えて駅舎の横の吹き曝しのコンコースに下りてきてて
「やきそば」看板のところまで川に張り出したアーケド状の通路になってました。
その通路から駅に入る出入り口もありましたよ。
歩道橋覚えてます。
しかし、断片的でね~・・・はっきりしなくてモヤモヤしてますよ。
いくらか良くなりましたか?
ゆっくりご静養くださいませ。
仙石線の本塩釜駅には、立ち食いソバ屋がありました。
仙石線の駅で立ち食いソバ屋があったのは、仙台と我が本塩釜だけ。
陸前原ノ町にも石巻にもありませんでした。
石巻駅にもあるにはあったけど、あれは電車の駅でなくて汽車の駅だったと思います。
駅舎左手の食堂も壺焼き芋も覚えてます。
右手二階の食堂も覚えてますが、一階は靴屋さんだったんですね(ぐずらさん、有難うございます)。
建替える前の野蒜駅も元の本塩釜の駅舎と同じような感じだったようなきがするのですが・・・
いい感じです。
友人の親父さんが本塩釜駅に勤務してまして、もう亡くなられましたが、写真があるかどうか聞いて見ようかと考えています。
実は、国鉄を受けろとその親父さんから薦められましたが見事に落ちてしまいました。
西塩釜方面から本塩釜へ下っていた高架線。
スカスカの線路面ゆえ下からのぞくと車両の底が良く見えました。
あのスカスカ線路を再現して作ってあります。
模型の我が家に模型の家族までおりまして・・・
もちろん車両は茶色の旧型電車です。
本塩釜駅舎の写真見れるなんて、思ってもいませんでした。
塩竃のメインなのに、かなりこじんまりしてますね。
こんな小さかったんだ・・・
駅前も、こどもの頃は「広場」と思っていたけれど、きっと小さいスペースだったんだろうなぁ。
おぼろげながら覚えて居るので、時々この駅の夢を見ていました。
あと思い出すのは、電車が本塩釜を出て踏切を通るとほどなく「あおき金物」の建物をかすめるように、スレスレに走ってったっけなぁ。
など。
とにかく、遠く大阪に居ながらにして、懐かしい故郷の写真をいつでも眺められるこちらは、私にとって、大事な「お気に入り」です。
ひーさん、お体お大事に♪
これからも楽しませてください。
こちらに訪れるみなさまもどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
旭町とか市役所の方に抜ける道がガードをくぐって行く道ですね。
そこまで再現しようと努力しましたか~
今日本塩釜駅付近をウロウロしてきました。
喜んでいただいて、何よりです。
青木金物・・・そうですね~
懐かしい光景が浮かんできます。
もう今野屋も空き地になってしまいましたしね。
今日は、闇市に行ってきました。
闇市の古い写真はありませんが、現在の風景です。
近い内にUPします。
見でけさいんね。