白虎隊像
慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦い後、会津藩では軍制をフランス式に変え、戦力を重視し、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊の年齢別による組織をつくりました。
白虎隊の隊士達は、16から17歳の少年達で編成されていました。
朱雀隊を主力として第1線に配置し、それに続く青龍隊に国境を護らせ、玄武隊、白虎隊、幼少隊は、その予備軍でした。
つまり白虎隊は戦闘に出る予定はなく、主に城中の警護にあたっていました。
しかし、戊辰戦争が始まり、戦場が会津に移ることで、藩主松平容保は、白虎隊に出陣命令を下したのです。
二番隊は戸ノ口原で決定的打撃を受けて、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。
このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行した。
白虎隊が逃れてきた洞門
白虎隊がこの穴の中を通って逃れてきました。江戸時代の天保年間に会津平野のかんがい用水として使用していたものです。
この中をくぐって戸ノ口原から逃げてきました。かなりの水量ですから大変だったことが分かります。
ここから城を覗いたわけだが、肉眼ではかなり厳しい。
拡大してみました。 ラジオのアンテナの下にお城の形が見えます。
では、城から飯盛山を見てみましょう。
一命を取り留めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡した。
一般に白虎隊は若松城周辺の火災(もしくは城周辺から上がる湯気)を目にし落城したと誤認して悲観したとされている。(私たちもそのように教わりました)
一方、飯沼が生前に伝え残した史料によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも飯盛山で自刃を決行したという。
その後、飯沼は逓信省に入り電信技士として維新後を生き抜き、1931年に77歳で没した。
飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。
ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に、日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。
貞吉のお墓
十九士のお墓はこちらです。
白虎隊の構成
●士中一番隊から二番隊 各50名前後
●寄合一番隊から二番隊 各50名前後
●足軽一番隊から二番隊 各50名前後
会津藩の武士階級は、大きく分けて上士(士中)・中士(寄合)・下士(足軽)がありました。
白虎隊で自刃したのは、上級武士(上士)の子供達である士中二番隊の隊員たちでした。
日新館への入学は上士の子弟が対象でした。
■朱雀隊(すざくたい)
18歳から35歳
■青龍隊(せいりゅうたい)
36歳から49歳
■武隊(げんぶたい)
50歳以上
その他にも
■幼少組 : 白虎隊に年齢が満たない十四、十五歳の者
■隠居組 : 五十歳以上にして、玄武隊に加わっていない者
■砲兵隊
■遊撃隊 : 朱雀・青龍の年輩を以て組織
■別選組 : 藩士の次男以下が中心。
■精鋭部隊:弓馬槍刀の全ての免許取得または少なくとも二芸に抜群の技量を持つ者40名から成る。
飯盛山への参道は、まっすぐ階段を上る方が多いのですが、本来は脇から緩やかな坂を上って先ほどの洞門から見るのが一番です。
参道を行くと神社があります。その先が洞門で、そこから上に登ると「さざえ堂があります。」
日本では大変珍しい木造建築物栄螺堂(さざえどう)(旧正宗寺三匝堂)です。
上りと下りで同じ道を通らず抜けられるという仕組みで、国の重要文化財に指定されています。
入ったことがありますが、階段登って行くとそのまま下りになる仕組みですね。
重文なのに歩かせていいのですかね?
降伏後の若松城ですが、かなり傷んでいますね。
鉄門(くろがねもん)
白虎隊のお墓の前には、狛犬が護衛していました。
今日は、八重の桜で白虎隊の登場のようです。急いでUPしました。
以前の鶴ヶ城の記事 赤瓦の鶴ヶ城
今、八重の桜を見終わって、またしても悔し涙と悲しみに襲われていたところです. .. 。
私も、子供のころには、「お城が燃えている!」と思って白虎隊は自刃したと習いましたが、現在は違う解釈が事実に近いようですね。
先日、旧滝沢街道を歩く5時間半のコースに参加して、当時の石畳の道を歩いてきました。
感慨深かったですね。
飯盛山もコースに入っていました。
洞門は「俺達は、あそこで水泳の練習をしたんだ!」っていうのが、私の父の口癖です。笑
八重の桜は予約していたと思うのですが、していなかったら土曜にでも見ようと思います。
記事を更新していませんでしたが、日々の記事は
http://hayaben.at.webry.info/に切り替えました。
こちらには、歴史などを中心に活字の多い記事にしようかと思います。
白虎隊自刃の話は、以前何かで見解が変わって来ていると知りました。前回の八重の桜でも、一人の少年が「いや、あれは城では無く、町が燃えているのだ!」とセリフがありました。
私はすぐ気づきましたよ。
早く昨日の放送分をみたいものです。