割石の伝説
順番交えました。割石の伝説を先にします。
先日の古碑群を見てから、七北田川の堤防を歩き探しました。
この辺を新田遺跡といいます。 読み方は「にいだ」です。
まずは、この石に纏わる伝説をご紹介します。
昔、新田では大雨が降ったり、長雨が降ったりしますと、川が氾濫し堤防が切れ、農作物はもちろん、時には人畜にも被害を及ぼすこともありました。
だから、どんなに雨が降っても切れない堤防をつくりたいというのが村人たちのせつなる願いでした。
今年こそ切れない堤防をつくろうと肝入(きもいり=区長のような役)の家に集まり相談を重ねましたがこれぞという思案が浮かびません。
みんなは話し合いに疲れ口をつぐんでしまいました。
息苦しい時間が過ぎてゆきます。
そのとき一人の老人が誰にいうとなく、子供のころ、新田のように水害で困っていた村で堤防をつくるとき人柱を立てて築堤工事をしたことを古老から聞いたことがあった。 とつぶやくようにボソボソした声で話しました。みんなは一瞬ギョッとして顔を見合わせました。
しかし、それが最後に残された手段だということになりました。
村の男たちが総出で工事がはじまりました。
それと同時に夜ふけにここを通る人を人柱にするため交代で待ち伏せしていました。
幾晩か過ぎた或る夜のことです。
恐ろしい企てが待っているとも知らず通りかかった女の人が犠牲となり人柱にされてしまいました。
やがて、さしもの大工事もやっと完成しました。ところが、しばらくすると、堤防に幽霊がでるという噂がたちました。
その幽霊は女の姿で、白い着物で髪をふり乱し、意味がよく分からないことをブツブツいって、通行する人にうらめしそうに訴えるのだそうです。
きっと、人柱にされた女が成仏できず幽霊となってさまよい出てくるのだろうということになり夜は勿論、日中でもこわがってそこを通る人がなくなりました。
この噂を聞いた或る武勇すぐれた武士がそれなら俺が退治してやろうと或る小雨のそぼ降る晩に傘もささずただ一人ででかけました。
人柱にしたところに近づいてゆきますと、ボーと人玉が燃え幽霊がたたづんでいるのが見えてきました。 なおも近づき間合いを計って腰にさした大刀を抜きうちざま真向唐竹割に切りつけました。 すると、カチンという金属的な音と同時に火花が飛び、人玉も幽霊の姿も消えてしまいました。
幽霊はそれからあらわれなかったということです。
また、幽霊を切りつけたところには、側面を断ち割ったような一基の石碑があったそうです。
これが、新田の「割石」の碑にまつわるお話しです。
ストーリーとしては中途半端ではありますが、伝説なので語り継がれながら端折られてしまった部分もあることでしょう。
それでは、割れてしまった石を見てみましょう。
雑草で見えなくなっていますが、どちらにも南無阿弥陀仏の文字が見えます。
この石に刻まれた年号は、元応元年(1319)です。
左の大きな石には八月二十七日と刻まれています。
右の小さい方は、追刻したと思われます。貞享二年(1685)八月二十四日と刻まれています。
割れた面には・・・・
一念弥陀仏と彫られていました。
近くには、馬頭観音もありましたよ。
道路に戻ろうとしましたが、堀がありどうしたらいいかと考えていましたら、川に石が置かれて足場パイプの手摺がありましたよ。
こんなの初めて・・・・
順番交えました。割石の伝説を先にします。
先日の古碑群を見てから、七北田川の堤防を歩き探しました。
この辺を新田遺跡といいます。 読み方は「にいだ」です。
まずは、この石に纏わる伝説をご紹介します。
昔、新田では大雨が降ったり、長雨が降ったりしますと、川が氾濫し堤防が切れ、農作物はもちろん、時には人畜にも被害を及ぼすこともありました。
だから、どんなに雨が降っても切れない堤防をつくりたいというのが村人たちのせつなる願いでした。
今年こそ切れない堤防をつくろうと肝入(きもいり=区長のような役)の家に集まり相談を重ねましたがこれぞという思案が浮かびません。
みんなは話し合いに疲れ口をつぐんでしまいました。
息苦しい時間が過ぎてゆきます。
そのとき一人の老人が誰にいうとなく、子供のころ、新田のように水害で困っていた村で堤防をつくるとき人柱を立てて築堤工事をしたことを古老から聞いたことがあった。 とつぶやくようにボソボソした声で話しました。みんなは一瞬ギョッとして顔を見合わせました。
しかし、それが最後に残された手段だということになりました。
村の男たちが総出で工事がはじまりました。
それと同時に夜ふけにここを通る人を人柱にするため交代で待ち伏せしていました。
幾晩か過ぎた或る夜のことです。
恐ろしい企てが待っているとも知らず通りかかった女の人が犠牲となり人柱にされてしまいました。
やがて、さしもの大工事もやっと完成しました。ところが、しばらくすると、堤防に幽霊がでるという噂がたちました。
その幽霊は女の姿で、白い着物で髪をふり乱し、意味がよく分からないことをブツブツいって、通行する人にうらめしそうに訴えるのだそうです。
きっと、人柱にされた女が成仏できず幽霊となってさまよい出てくるのだろうということになり夜は勿論、日中でもこわがってそこを通る人がなくなりました。
この噂を聞いた或る武勇すぐれた武士がそれなら俺が退治してやろうと或る小雨のそぼ降る晩に傘もささずただ一人ででかけました。
人柱にしたところに近づいてゆきますと、ボーと人玉が燃え幽霊がたたづんでいるのが見えてきました。 なおも近づき間合いを計って腰にさした大刀を抜きうちざま真向唐竹割に切りつけました。 すると、カチンという金属的な音と同時に火花が飛び、人玉も幽霊の姿も消えてしまいました。
幽霊はそれからあらわれなかったということです。
また、幽霊を切りつけたところには、側面を断ち割ったような一基の石碑があったそうです。
これが、新田の「割石」の碑にまつわるお話しです。
ストーリーとしては中途半端ではありますが、伝説なので語り継がれながら端折られてしまった部分もあることでしょう。
それでは、割れてしまった石を見てみましょう。
雑草で見えなくなっていますが、どちらにも南無阿弥陀仏の文字が見えます。
この石に刻まれた年号は、元応元年(1319)です。
左の大きな石には八月二十七日と刻まれています。
右の小さい方は、追刻したと思われます。貞享二年(1685)八月二十四日と刻まれています。
割れた面には・・・・
一念弥陀仏と彫られていました。
近くには、馬頭観音もありましたよ。
道路に戻ろうとしましたが、堀がありどうしたらいいかと考えていましたら、川に石が置かれて足場パイプの手摺がありましたよ。
こんなの初めて・・・・
「こげな大雨なのに何っしゃ」
とブレーキ。
と人はいなかったとか。
幽霊とか全く信じていなかった父もこのときばかりは「不思議なこともあるんだなや」と一言。
酔漢が遺跡の跡を探したとき、「新田遺跡」という表示がやはりありませんでした。
今は住宅地が増えているようですが、当時(昭和50年代)は何もなかった頃です。
史跡は多賀城教育委員会の歴史散歩に参加したときに知ったのですが、その意味までは分からなかった当時の酔漢です。
多賀城。やはり多くの伝説がまだまだ眠っているのですね。
話が大袈裟だとしても、伝説になる何らかの出来事があったはずです。
念仏橋もその一つでしょう。
それは昔、記事にしています。
あと数ヶ所伝説がありますので追々発表します。
こういう伝説
物悲しいですね
松戸市に八柱という地名があるけれど
俄然興味が湧いて来たぁ ♪
生け贄と同じ発想ですね。
近くの二柱神社縁結びだとか・・・その内行きたいと考えてますが柱がやけに多いのもありますね。
神様の数か?と思いましたがそうで内かも知れませんね。
由緒が気になります。
うーんとかわいそう…
通りすがって 人柱にされ わけわかんないって
ユーレイになったら お侍に切られって
あんまりなよーな…
ひーさんが言うように、中途半端感がある言い伝えだから…かな。
にしても きれいに割られてますよね 石!
通りすがりはいけませんね。
以前広瀬川が氾濫してやはり女性が人柱になった記事を書いていますが、その時は自分から名乗りでています。
かなり違ったイメージになりますね。
このような迷信の様な話を信じたのでしょうね。
可哀想です。