多賀城市内では現在のところ確認できる最古の供養碑であり仏教関係の資料としても貴重な文化財であることから、市指定文化財になっております。
「弘安の碑」は仙台市内でも根白石付近で看板を見掛けます。きっと他にもあるのだろうとお思います。
さて、この碑は、明治時代に高崎井戸尻地区で発見され、鬼子母神堂に安置されていましたが、堂が破棄されたため平成12年に現在の化度寺境内に移されました。
この化度寺は多賀城でもっとも古い寺で、もともとは、高崎廃寺の付属寺院として建立された天台宗の寺院で高崎廃寺跡近くに開かれていました。
曹洞宗として新たに開基されたのは1465年のことで、高崎彦三郎盛忠が、大林寺の第三世雪橋大積(せっきょうだいしゃく)和尚の勧めに従い、今の場所に築いたといわれています。
何度か火災に見舞われ、歴代の住職が残した文献や仏像が全て焼失してしまい改宗の理由は分かりません。
現在の住職はある理由からこの寺に住職として呼ばれたのですが、その話はプライベートな部分もあるのでここでは控えさせて頂きます。
決して悪い話では無く、尊敬出きる行動と苦労されたお話です。
近年、教えていただいたのですが、個人的な話にもなりますので・・・・
住職は実は私が中学の時の先生なんです。
話を外してしまいました。お寺の話は後ほど・・・
碑面には、上部中央に釈迦如来、左端に鬼子母神を表す種子(梵字)が刻まれています。
下部は刻線で区画されており(つまり枠があり)その中心に法華経の修行者を守護する十羅殺女(じゅうらせつにょ)と三十番神(さんじゅうばんしん)、建立した弘安七年(1284年)の年号が記されています。
ここにも梵字が出て来ましたね。
釈迦如来を表すバクと鬼子母神を表すウーンです。
梵字ですが、自分も詳しくないので調べてみました。
簡単に言えばサンスクリット語(梵語)を表記するための文字を梵字と言うのですね。
歴史的に日本では悉曇文字(しったんもじ)のことを指すようです。
日本には仏教伝来と共に漢訳された経典と共に伝来したが難解なため文字を仏法の神聖な文字として崇めたようです。
天平期には遣唐使や唐僧が悉曇梵語に堪能で平安時期になると最澄、空海らが悉曇梵語の経典を大量に唐から持ち帰ります。
それは真言として一般の人々の間にも広まったそうです。
つまり、日本においてはただの文字ではなく霊的な神聖文字として信じられるようになったということですね。
梵字は一字一字が諸仏諸尊を表しており、一文字で複数の仏を表しています。
市指定の文化財なら、風化をしないようにお堂に入れて欲しいですね。
戻りますが、この碑は多賀城廃寺の西南500メートルのところに頭部のみ出して埋もれているのを安産 ・養育の神である 鬼子母神の本尊として 地元の人が祀ったものと言われています 。
多賀城市HPから
「弘安の碑」は仙台市内でも根白石付近で看板を見掛けます。きっと他にもあるのだろうとお思います。
さて、この碑は、明治時代に高崎井戸尻地区で発見され、鬼子母神堂に安置されていましたが、堂が破棄されたため平成12年に現在の化度寺境内に移されました。
この化度寺は多賀城でもっとも古い寺で、もともとは、高崎廃寺の付属寺院として建立された天台宗の寺院で高崎廃寺跡近くに開かれていました。
曹洞宗として新たに開基されたのは1465年のことで、高崎彦三郎盛忠が、大林寺の第三世雪橋大積(せっきょうだいしゃく)和尚の勧めに従い、今の場所に築いたといわれています。
何度か火災に見舞われ、歴代の住職が残した文献や仏像が全て焼失してしまい改宗の理由は分かりません。
現在の住職はある理由からこの寺に住職として呼ばれたのですが、その話はプライベートな部分もあるのでここでは控えさせて頂きます。
決して悪い話では無く、尊敬出きる行動と苦労されたお話です。
近年、教えていただいたのですが、個人的な話にもなりますので・・・・
住職は実は私が中学の時の先生なんです。
話を外してしまいました。お寺の話は後ほど・・・
碑面には、上部中央に釈迦如来、左端に鬼子母神を表す種子(梵字)が刻まれています。
下部は刻線で区画されており(つまり枠があり)その中心に法華経の修行者を守護する十羅殺女(じゅうらせつにょ)と三十番神(さんじゅうばんしん)、建立した弘安七年(1284年)の年号が記されています。
ここにも梵字が出て来ましたね。
釈迦如来を表すバクと鬼子母神を表すウーンです。
梵字ですが、自分も詳しくないので調べてみました。
簡単に言えばサンスクリット語(梵語)を表記するための文字を梵字と言うのですね。
歴史的に日本では悉曇文字(しったんもじ)のことを指すようです。
日本には仏教伝来と共に漢訳された経典と共に伝来したが難解なため文字を仏法の神聖な文字として崇めたようです。
天平期には遣唐使や唐僧が悉曇梵語に堪能で平安時期になると最澄、空海らが悉曇梵語の経典を大量に唐から持ち帰ります。
それは真言として一般の人々の間にも広まったそうです。
つまり、日本においてはただの文字ではなく霊的な神聖文字として信じられるようになったということですね。
梵字は一字一字が諸仏諸尊を表しており、一文字で複数の仏を表しています。
市指定の文化財なら、風化をしないようにお堂に入れて欲しいですね。
戻りますが、この碑は多賀城廃寺の西南500メートルのところに頭部のみ出して埋もれているのを安産 ・養育の神である 鬼子母神の本尊として 地元の人が祀ったものと言われています 。
多賀城市HPから
そして
こういう梵字が使われてるのには
なにか理由があるんでしょう~か
どのような由来の碑なのでしょうか。
「弘安」というと、
条件反射で「弘安の役」を連想してしまいますが。
蒙古襲来と関係ありなのでしょうか。
それとも何か別の出来事を校正に伝えるための・・・
東仙台の近くに、蒙古塚というのがあったような気もします。
私的には別ではないかと思いますが、供養の碑であることは共通していますね 。
説は色々あってもおかしくないのです、それはやはり 蒙古の碑の碑文が解読されていないからですね。
弘安の役で生き延びた蒙古軍もしくは高麗軍の生き残りが 、陸奥に逃げて亡くなった、または殺害され供養碑を建てた、もしくは蒙古襲来の時、戦いに行って 亡くなった日本人の戦死者を供養した??
可能性は低いですがね。
一度蒙古の碑を観察してきます。