旧塩釜港駅
日本鉄道は明治19年、東北線の建設のために塩竃の開港場(通称けえこば)の先に船で運ばれた建設資材の荷揚場を造成します。
鉄道完成後に塩竃線として開港場に塩釜駅が作られました。
それが、この写真です。(昭和57年頃)
その後修学旅行などの臨時列車の発着時に利用されるようになり、この駅舎は当時の子供達の脳裏に強く残っているのでしょう。
私が中学の時は、新駅(東北本線:塩釜駅)から東京に向かいました。
その時の映像がこれです。
見てると名前が出てきます。 顔が見えなくても、分かるものですね。
さて、以前あった貨物線の後を撮ってきました。
以前はこの奥から分かれてました。
廃線跡・・・草が鬱蒼と茂っています。東北本線からこちらへ枝分かれしています。
多賀城市留ヶ谷・・・黄色い点が線路の跡です。
上の高架は現在の仙石線です。 南側には、西塩竃駅です。
それでは、昭和45年当時の稲荷下踏切の写真です。
仙塩道路が出来てこの踏切りは交通渋滞の原因となり昭和初期から問題になっていた。
歩道橋(跨線橋)が踏切上に設置されたが戦時中に撤去されました。
鉄は回収されたのですかね。 昭和45年頃
現在の稲荷下踏切りです。 高架を走っているのが仙石線です。
ぐずらさんからいただいた航空写真(1947年頃)
旧塩竃駅と稲荷下の写真の資料は、この本から利用しました。
㈱図書刊行会 著者:小川澄夫
今日は限界なので、皆様のところには明日お邪魔します。
「おみょうぬず~」
日本鉄道は明治19年、東北線の建設のために塩竃の開港場(通称けえこば)の先に船で運ばれた建設資材の荷揚場を造成します。
鉄道完成後に塩竃線として開港場に塩釜駅が作られました。
それが、この写真です。(昭和57年頃)
その後修学旅行などの臨時列車の発着時に利用されるようになり、この駅舎は当時の子供達の脳裏に強く残っているのでしょう。
私が中学の時は、新駅(東北本線:塩釜駅)から東京に向かいました。
その時の映像がこれです。
見てると名前が出てきます。 顔が見えなくても、分かるものですね。
さて、以前あった貨物線の後を撮ってきました。
以前はこの奥から分かれてました。
廃線跡・・・草が鬱蒼と茂っています。東北本線からこちらへ枝分かれしています。
多賀城市留ヶ谷・・・黄色い点が線路の跡です。
上の高架は現在の仙石線です。 南側には、西塩竃駅です。
それでは、昭和45年当時の稲荷下踏切の写真です。
仙塩道路が出来てこの踏切りは交通渋滞の原因となり昭和初期から問題になっていた。
歩道橋(跨線橋)が踏切上に設置されたが戦時中に撤去されました。
鉄は回収されたのですかね。 昭和45年頃
現在の稲荷下踏切りです。 高架を走っているのが仙石線です。
ぐずらさんからいただいた航空写真(1947年頃)
旧塩竃駅と稲荷下の写真の資料は、この本から利用しました。
㈱図書刊行会 著者:小川澄夫
今日は限界なので、皆様のところには明日お邪魔します。
「おみょうぬず~」
仙石線利用者なので、塩釜駅ってピンとこないなぁ
運転中、道に迷って偶然たどり着いたことはある
旧駅舎、昭和57年にまだあったんですねえ
私もここから修学旅行の組ですよ
稲荷下踏み切りの写真もなつかしい~
開かずの踏み切りとして有名でしたね
稲荷下踏み切りは現在のグランドパレスホテルの向かい側でしたよ
あ~そういえば、ひーさんの写真にある東園寺前の高架線下、昔はどんな踏み切りだったのか記憶にありません。
子供だったから行動範囲以外にはめったに行かなかったんでしょうね。
昔の観光桟橋もなつかしかったです
線路脇の草っぱら、通称ヒカリって呼ばれてましたね。
世の中、常に変化していくもののようですね。
一部道も広くなり交互通行が可になりましたが、なかなか地形や住宅の関係で難しいですね。
稲荷下の現在の写真は今日撮ってきます。
間違ってたようですね。
東園寺では伊達綱村のなんかやってるようで、看板がチラット・・
佐浦通りはいずれ・・・
まぁ、いつもですがね。
其々の時代があって、その風景はドンドン変わり忘れられていくのでしょう。
絵師達が残した鳥瞰図が当時の記録になりますね。
いずれ、アップします。
ってナニ? また明日~ かな?^^
ついでに言うなら、「港駅発行」で港駅の鋏が入った切符が欲しかったです。
母方に国鉄OBの親戚がありまして、夏休みというと親子で泊めてもらいに行ってました。
その伯母の家に連絡するために、港駅に行ったことを覚えています。
まだまだ一般家庭に電話が普及しておらず、国鉄職員の家には鉄道電話が引いてある・・・
そんな時代でした。
塩釜駅も大分変わりましたね。
ひーさんの詳しい説明を見ると
黄色の点線で示しているので、
よく分かりますね。
正しくは、「御明日」おみょうにち!
「また、明日!」ですね。
丁寧な言葉でしょ。