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定義道・・・定義如来と平家落人伝説 3
貞能は従臣と共に東奥に逃れ、人里離れた奥深い渓谷に身を潜め居を構えられたのです。
其の地こそ(旧)宮城県宮城郡宮城町大倉、現在の仙台市青葉区大倉の地です。
貞能はそれでも世を憚り、名を「定義」(さだよし)と改めました。
これが「定義」の誕生ですね。
定義如来(じょうぎにょらい)と呼ぶのもこれが起こりですね。
宮城では訛って「じょうげ」とも呼びます。
貞能は改名後も朝夕尊像を礼拝し※安徳天皇の大菩提と主君重盛公及び平氏一族の冥福を熱心に祈り続けていたのです。
貞能(定義)は死期にのぞみ従臣達にたくしたことは、「我が死後は、墳墓の上にお堂を建て如来の御尊像を安置し後世に伝えるように」と申され建久九年(1198)七月七日御齢六十歳を以ってお隠れになったのです。
※第81代 安徳天皇
【生没】1178年11月12日~1185年3月24日(8歳)
【在位】1180年 2月21日~1185年3月24日(6年)
【諡】言仁(ときひと)
【父】高倉天皇 【母】平徳子(平清盛の娘)
【陵】阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)山口県下関阿弥陀寺町
安徳は3歳で即位した、その翌年、後白河法皇の第2子・似仁(ももひと)が源頼政とともに打倒平氏の軍を起こすが失敗。
後に源義仲(木曽義仲)、源頼朝などの各地の源氏が挙兵し、平氏は倶利伽羅峠(くりからとうげ)の決戦で惨敗した。
1183年に義仲が入京、平家一門は幼帝・安徳と三種の神器を奉じて都落ちした。
それから2年後の1185年、壇ノ浦で平家一門は海の藻屑と消えた。
安徳の祖母である平時子に抱かれて入水しわずか8年の生涯を閉じたのです。
定義阿弥陀如来とは・・・(中国伝来の霊像)
御本尊である阿弥陀如来は中国より伝来の御霊像であり大唐の世に法照禅師と申される知徳兼備の高僧がおり、禅師は一日霊感を得て(大暦四年四月五日)文殊菩薩の浄土と仰がれる五台山中(現在の山内省)竹林寺に登り菩薩様を拝した時、菩薩様は親しく禅師の御前に顕れ給い、「西方極楽の阿弥陀如来こそは、救われたいと念願して如来のみ名を称える人は、誰でも貴賤貧富の分け隔てなく、罪深く迷い苦しみに悩みながら生活を続けている凡夫衆生(ぼんぷしゅうじょう)を生身そのままに且つ後生永劫にお救い下さる唯一の御仏である」と南無阿弥陀仏の妙行を直にお授けになり、加えて阿弥陀如来画像のご宝軸を賜りました。
以来、禅師は世にあって文殊菩薩様より面授のみ教えを熱心に広め、後、育王山欣山寺に隠遁(いんとん)するに及んで、御霊像は長く同寺の宝物として広く人々の信仰うを集めていました。
※隠遁=世事をのがれて隠れること
平重盛公は早くから仏教に深く帰依され、公は争いが始終絶えない乱世の平和に立ち還ることを願い欣山寺に祈願のため黄金若干を寄付された折、時の住僧仏照徳光禅師は伝来の御霊像を公のもとに贈られたのです。
公は歓喜して日夜に礼拝し、天皇、国家のご安泰と平氏一族を始め我が身の後生を祈りました。
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我が家にある阿弥陀如来の御霊像! 勿論複製品です。 娘が持っている数珠です。
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数珠の大玉をアップにして覗くと如来像が見えます。
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つづく
ホームページに纏めています。
定義如来1
定義如来2
貞能は従臣と共に東奥に逃れ、人里離れた奥深い渓谷に身を潜め居を構えられたのです。
其の地こそ(旧)宮城県宮城郡宮城町大倉、現在の仙台市青葉区大倉の地です。
貞能はそれでも世を憚り、名を「定義」(さだよし)と改めました。
これが「定義」の誕生ですね。
定義如来(じょうぎにょらい)と呼ぶのもこれが起こりですね。
宮城では訛って「じょうげ」とも呼びます。
貞能は改名後も朝夕尊像を礼拝し※安徳天皇の大菩提と主君重盛公及び平氏一族の冥福を熱心に祈り続けていたのです。
貞能(定義)は死期にのぞみ従臣達にたくしたことは、「我が死後は、墳墓の上にお堂を建て如来の御尊像を安置し後世に伝えるように」と申され建久九年(1198)七月七日御齢六十歳を以ってお隠れになったのです。
※第81代 安徳天皇
【生没】1178年11月12日~1185年3月24日(8歳)
【在位】1180年 2月21日~1185年3月24日(6年)
【諡】言仁(ときひと)
【父】高倉天皇 【母】平徳子(平清盛の娘)
【陵】阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)山口県下関阿弥陀寺町
安徳は3歳で即位した、その翌年、後白河法皇の第2子・似仁(ももひと)が源頼政とともに打倒平氏の軍を起こすが失敗。
後に源義仲(木曽義仲)、源頼朝などの各地の源氏が挙兵し、平氏は倶利伽羅峠(くりからとうげ)の決戦で惨敗した。
1183年に義仲が入京、平家一門は幼帝・安徳と三種の神器を奉じて都落ちした。
それから2年後の1185年、壇ノ浦で平家一門は海の藻屑と消えた。
安徳の祖母である平時子に抱かれて入水しわずか8年の生涯を閉じたのです。
定義阿弥陀如来とは・・・(中国伝来の霊像)
御本尊である阿弥陀如来は中国より伝来の御霊像であり大唐の世に法照禅師と申される知徳兼備の高僧がおり、禅師は一日霊感を得て(大暦四年四月五日)文殊菩薩の浄土と仰がれる五台山中(現在の山内省)竹林寺に登り菩薩様を拝した時、菩薩様は親しく禅師の御前に顕れ給い、「西方極楽の阿弥陀如来こそは、救われたいと念願して如来のみ名を称える人は、誰でも貴賤貧富の分け隔てなく、罪深く迷い苦しみに悩みながら生活を続けている凡夫衆生(ぼんぷしゅうじょう)を生身そのままに且つ後生永劫にお救い下さる唯一の御仏である」と南無阿弥陀仏の妙行を直にお授けになり、加えて阿弥陀如来画像のご宝軸を賜りました。
以来、禅師は世にあって文殊菩薩様より面授のみ教えを熱心に広め、後、育王山欣山寺に隠遁(いんとん)するに及んで、御霊像は長く同寺の宝物として広く人々の信仰うを集めていました。
※隠遁=世事をのがれて隠れること
平重盛公は早くから仏教に深く帰依され、公は争いが始終絶えない乱世の平和に立ち還ることを願い欣山寺に祈願のため黄金若干を寄付された折、時の住僧仏照徳光禅師は伝来の御霊像を公のもとに贈られたのです。
公は歓喜して日夜に礼拝し、天皇、国家のご安泰と平氏一族を始め我が身の後生を祈りました。
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我が家にある阿弥陀如来の御霊像! 勿論複製品です。 娘が持っている数珠です。
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数珠の大玉をアップにして覗くと如来像が見えます。
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つづく
ホームページに纏めています。
定義如来1
定義如来2
むかしは
なかなか~還暦を越せなかったんですね
病で死ぬものも多かったでしょうね。
よもやその地が、政令指定都市となるなんて。
合併で仙台市域は広くなりすぎたような気がします。
平家の菩提を弔うと言えば、京都の大原の里を思い出します。
まあ、向こうは乙女ちっくな里になっておりますが・・・
多賀城は断って正解な感じ・・・
名取・岩沼もそう思っているのかなぁ?
京都、これからは違った目で見てみよう。
とても興味深く読ませて頂きました。
続篇は明日、ゆっくり読ませて頂きます。
お嬢様のお数珠の中の如来像とても素敵です
ウチは個人用の数珠がないんですぅ
共用 (汗
一番は気持ちですかね。