故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

国道487号線

2015-12-29 09:08:18 | 故郷再生
 
真道山から中町を望む。上へ上へと延びている街並みです。  

呉市本通り一丁目で、国道31号線を引き継ぐように、
国道487号線は突然始まるのです。
音戸大橋を渡り、警固屋バイパスを一回りし、
倉橋島の音戸町の半分を横切り早瀬大橋を能美島に渡ります。
能美島に入ったら大柿町、能美町を通り、突然津久茂の瀬戸を対岸の江田島町に入り、
切串で、海に落ちているのです。

江田島と能美島は陸続きです。
合併して江田島市となるまでは、行政は呉圏の江田島町と
広島圏の能美町、大柿町及び沖美町の二つに分かれていました。
どうして、国道が通っているのか、また切串で海に落ちているのか。
きっと、切串から広島へ延びる橋を計画していたこともあるのでしょう。

冒頭の絵で、山へと延びていく集落を描きたかったのです。
人々は、土地を求め山の奥へと進んだのです。
今は、停滞しています。切り開いた耕作地は、山に返りつつあります。
過疎です。放置された耕作地にソーラー発電設備が設置されていました。
採算は取れるはずが、あまりにも高い発電コスト故脅かされています。

沖縄に国道58号線が通っています。
鹿児島と沖縄は、国道58号線で海の上を架空につながっています。
新たな国道は旧国道につながっていなければならないのでしょう。
思い切った行政の判断です。

地域おこしを考える時、いつも思うのはこの「道」のことです。
どこでも、行き詰まりの道が存在します。
人々は、自分の土地を提供してまで道を延長しました。
中には、せっかくの道を閉じてしまう方がいらっしゃいます。
残念なことです。
自分の車を停めたいために、道を塞いでしまう人もいらっしゃいます。

道は、未知につながる手段です。
それを塞ぐ人は、未知について考えないのでしょうか。

道はつながっているが、袋小路ではなく停滞させる広場が必要です。
この広場は、無料の駐車場であり、休息所のことです。
これが英断できない地域は、単なる通過点になってしまうのです。
わずかな駐車料金のために、みすみす旅行客をおもてなしできなくしているのです。
各地に道の駅が作られています。ほとんどが無料です。
人々には休息が必要です。トイレ休憩でも良いではありませんか。
シャッター街には、いっぱい休業の店舗があります。
どれも有料の駐車場に変わります。次の展開を待つ有効な手段です。
どれだけ待てば、次の展開が始まるのでしょう。
駐車場に挟まれた一軒家に住む老人夫婦に何を待っているのでしょう。

人々は、未知につながろうと道を造ったのです。
休んでいただく場所を提供してきたのです。
地域おこしの計画を阻害するのは、知恵無き欲です。

どんな川にも淀みがあります。
護岸工事で直線に仕上げたところから、氾濫するのです。
バッファーがないからです。バッファーは普段は無用です。
しかし、それは人々を安心させ守ることなのです。

地域おこしに必要なのは、嘆くのを止めることです。
未知につながる道を探す努力をすることです。
人が休息できる真道山のように素晴らしい景観を放置しないことです。
もちろん生き抜かなければなりません。

皆が労力を無償で提供したのです。
かつて道を造ったように、道を通って耕作地を広げたように。
その時、誰が反対したでしょう。

国道487号線は未知につながっていたのです。

お日さんは いつも笑って いるような 

2015年12月29日

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真道山

2015-12-28 05:10:54 | 故郷再生
  
かじかむ手をこすり合わせながら書いています。
今週は、いよいよ寒いらしいのです。

それでもルーチンワークを止めるわけにはいかないのです。
米を研ぐ手の冷たいこと。
ことさら母のことを言いたくないのですが、
朝餉を作る手はいかほど凍えたことでしょう。

私の故郷に真道山という山があります。
島の山火事は消すことができません。
それで、消防車が入れるよう、どの山にも舗装された林道が付いています。
この林道を登ることわずか10分で真道山の頂上に到達します。
この頂上からの景色を見るまで、この島に生まれながら60年かかりました。
今までの60年間で見たことがない景色がこの頂上から見られるのです。

360度、島影のパノラマです。
どこまでも島なのです。
江田島と能美島にはさまれた江田島湾は鏡のようです。
湾外は東西南北、形の違う島なのです。
いつまでも飽きることがありません。

この景色を見に来られる方がいないのです。
これほどの景色は、そんなにないでしょう。
江田島の林道は整備されていました。
広島や呉から来られるハイカーの方を見ることがあります。
しかし、この林道は、荒れていました。

こころの風景を絵手紙にしました。
下の3枚です。



音戸の瀬戸を渡り、倉橋島まで来ると能美島は目の前です。


真道山より南側に黒神島が見えます。


 
北側には、津久茂の瀬戸の向こうに遠く広島が見えます。




実際の景色は、この絵に比べものにならないほど見事です。
どうぞ、時間のある方は一度見てください。
広島から、呉方面に行き音戸大橋と早瀬大橋を渡ると能美島です。
能美島の中央に真道山はあります。車で1時間~1.5時間です。

君と僕 お手てつないで ひーふーみ

2015年12月28日

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故郷とは

2015-11-03 18:41:21 | 故郷再生


遠い記憶に、江田島湾が自衛艦でいっぱいになったことがありました。



街(広島)に出る交通の便は、船しかありませんでした。
決して楽な暮らしではありませんでした。
我が家だけではありませんでした。

50数年前台風が近づいたある日、次から次に自衛艦が江田島湾に避難してきました。
潜水艦を見たのもその時が初めてでした。
4Km四方の江田島湾が自衛艦とその他の船で埋まりました。

狭い津久茂水道を1隻ずつ入ってきました。
風はまだ強くありませんでした。
飽きずに何時間も入ってくる船を見ていました。

この島は、世界に通じていると感じました。
なんとなく誇らしく思ったものでした。

私は、故郷(島暮らし)が嫌でたまりませんでした。
唯一の自慢は世界に通ずる海でした。
古くは和寇が外海で活躍し、呉の造船所が世界市場の船を建造し、
江田島の術科学校が世界に通ずる人材を送りだしてきました。
そのイメージが、世界に通ずる海と思わせたのでしょう。

故郷でやりたかったことが一つありました。
島の段々畑を利用した複合的な農業でした。
山の上で酪農をするのです。
中段の畑で果樹園を作り、果樹園の草は牛に食わせるのです。
麓で有機野菜を栽培するのです。
牛の排泄物は、果樹園と野菜畑で有効活用するのです。
だんだん畑には、日陰がありません。日照条件だけは良いのです。

モノレールを上下に走らせ、餌や肥料を上に上げ、作物を下に降ろすのです。
そんな夢を漠然と描き、工学部の機械科を受験しました。
父に、4男の私に農業を継がせてほしいと頼みました。
父は、大学に百姓をさせるためにやるんではない。
農業は苦労するばかりで、駄目だと怒られました。
私は、1千万円稼げる農業があるんだと夢のような話は父にはしませんでした。

故郷で農業をやる夢は、断念しました。

法事や同窓会で帰った時に見聞きする故郷は、歯が抜けるように次々と廃屋になっていました。
昨年、何とか再生の道はないものかと夢のようなことを考えたことがありました。
故郷に帰らなくても夢は持てると思いました。

短編小説「さなさん」を書いたのもそんなことがきっかけでした。
再生プログラムを考えたのもそうです。
(2014年12月31日投稿、「能美町のこと」参照してください)
長い年月生きてきて、その土地のハンデキャップが他の地域にない特徴になることを学びました。
人を、工場を誘致するのではなく、自分が住みたくなるような場所にすることなのです。
不便を特徴にし、素晴らしいものを保存するのです。
それには、世代を越えて人が住みたい場所でなくてはならないのです。
それが、故郷再生の道の第一歩だと思います。

工場作りで、機械やプラントの営業で、日本全国を回りました。
60歳を過ぎて、真道山から見た江田島湾はどこにもない素晴らしい景色だと感じました。
私は、この素晴らしさを知らぬまま人生を終わるところでした。
どこで暮らしても、不便や不満はあります。
便利な都会では、隣の人と話すこともないまま、孤独な死を迎えることもあります。

私にとって、「故郷とは」は、
生まれたところであり、住んでいるところであり、生活のための糧を得るところです。
故郷を思う気持ちは、住みやすい誇りが持てる場所を作り優しい時代を作ることに、少しずつ変化してきました。
病気にならない限り働きたいし、引き継いだ技術や文化を次の世代に渡したいのです。

夏の日に つるが日よけで 秋に芋 

2015年11月3日

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関心と感心

2014-12-31 06:38:19 | 故郷再生

広島は、少し車で走ると海に出たり、山に入ります。
広島、呉、竹原、西条そして江田島まとめて広島です。
とりわけ、島は原風景です。私の心の風景です。
どの島に行っても懐かしいと感じます。
多少の違いがあるけど、生活は同じだなと感じます。
生活道路は海沿いです。暗くなれば、怖い海です。
晴れて風がなければ優しい海です。
瀬戸内に沈む夕日はどこまでも美しい。
私は、この風景を捨てるように東京に出ました。
決して振り返ることをしなかった。
私の古里への思いは、暗くて湿っていました。
そこから、気持ちの上で出られなかったのです。
蓋をしようとしていました。
間違っていました。
故郷は、私の気持ちに関係なく懐が深くて優しかったのです。

(つづく)
私も疲れていました。
今になってそのように感じます。
半袖シャツを長袖に着替えました。
遠ざかる島の灯りを見て思いました。
昔から、友人や家族が住んでいる故郷でしたが、長い間、足が向きませんでした。
今は、広島を近くに感じます。
広島のことをもっと知りたいと思っています。
昨日、訪ねた蒲刈、大崎島の風景を、今夕見た沖美の夕暮れの風景を美しいと感じました。
今までは、故郷なのか、旅で立ち寄った場所なのか時々迷うことがありました。
今は、間違いなく故郷です。もう遠い古里ではありません。

あなたに会ってから広島に対する感じ方が変わってきました。
時代と共に、開発された変化に対して感じるものではありません。

心の風景が変わりました。
今までも見えていたけど、積極的に見ようと、それは何か知ろうとしていませんでした。
あなたが、私の疑問に答えてくれます。
私は改めて感動します。

ありがとう。
私は、故郷の素晴らしさを見失ったまま、横浜で暮らしたかもしれなかった。

宇品発己斐行きは、今の時間なくて、宇品二丁目で乗り換えました。

2013年9月24日 (手記より)

<<現在の感想>>
人の見方は、その時の心情で大きく変わるものです。
関心を持つようになると、感心するものです。
どのように興味を持つかは、人それぞれです。
朽ちかけた看板に郷愁を感じる方もおられるでしょう。
不便に共感を持たれる方もいるでしょう。
私の原風景の広島は、自分の中で大きく変化しました。
大それたことを考えることはありません。
ただ、興味を持つことです。
それだけで、風景は変わるものです。

2014年12月31日
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能美町のこと

2014-12-31 05:45:24 | 故郷再生

能美町に帰る時に感じたことを書きます。

道路が広く、便利になっています。
船もフェリーと高速艇の二機種にしている。
共に良い考えですね。

経済的に呉圏の旧安芸郡と、広島圏の旧佐伯郡が一緒になって江田島市が出来ています。
仮に、高田-小用-金輪島-呉道路か三高-似島-広島のいずれかに橋が架かると、
江田島市は一挙に変わるでしょうね。
広島のベッドタウンではなく、リゾートにするのです。
あらゆる文化施設も誘致するのです。
江田島湾を埋立て、ソフトウェア工場の専用地域を作りデータサーバーの基地とするのです。
また野菜や花を作るのです。エネルギーは太陽光と潮位発電が可能でしょう。
国際的な科学大学を誘致すれば、世界中から知能が集まるでしょう。
広島とも結ばれるのが良いでしょう。
平和、安全なデータバンクとリゾートが売りです。
呉市、倉橋、江田島市と広島市を環状線で結ぶのです。
呉、広島及び九州、中国、近畿地方のソフトウェアの発信基地にするのです。

島は不便で、閉鎖的だと思っていました。

自分は何も役に立てないと思っていました。
瀬戸内海はなにより安全です。温暖です。
水や電力を大量に使う工場は不向きです。
インフラに莫大な金と時間がかかります。

しかし構想を練るのは自由です。
小説で自然に調和した未来都市は好きに創れます。
ひょっとしたら、不可能と思っていた、故郷への恩返しが出来るかなと思ったりしました。

2013年10月23日(手記から)

<<現在の感想>>
法事で能美町に帰ることがあります。
生まれ故郷は、いつも温暖で優しい風景です。
残念ながら、段々畑が山に帰ってしまいました。
老人が亡くなられると、歯が抜けおちるように廃屋になっていきます。

開発のために削られた醜い山肌は、元の緑に戻っていました。
過疎も悪くはない。と思いました。
人には色々な事情があります。地域には、それぞれ特色があります。
昨今の、駅前開発は都市の個性を無視した同じような風景になっています。
便利ばかりが良いことではありません。無理な開発は、自然災害に弱いのです。

ドーナツ化現象が駅前のシャッター街を生み出し、
ドーナツを支えるためにインフラ整備はしたものの、
ドーナツに住む人々が高齢化し、地方経済は破綻しています。
そして今度はコンパクトシティーが唱えられ、
ドーナツで拡大化した郊外から都市に移住が始まっています。
東京の千代田区のような現象です。

友人の建築家が、政府主導ではない民間の知恵の結集が
現在の東京を更に発展させていると言いました。
地方の鉄道は、広軌と狭軌でグループ化されて、お互いに繋がりました。
地方と地方がつながっています。東京はある意味通過点にもなっています。
何がなんでも東京ではなくなっているのです。
アメーバのごとく発展と収斂(しゅうれん)を繰り返す大都市東京は、
地方創生のモデルとも言えるのではないでしょうか。

過疎は、単なる通過点です。
その土地の個性を生かした発展こそ未来につながる創生と考えます。

2014年12月31日
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