私の祖父の名は、鶴一です。
鶴一は、長男で双子の弟の名が亀一でした。
ハワイに移民した亀一の子孫(孫)が訪ねてきました。
顔は、日本人でしたが仕草はアメリカ人でした。
数年前、一緒に鎌倉を回りました。
甥が結婚式をハワイであげることになり、父である兄は亀一家族に会おうとしました。
出身地である広島の役場に行きましたが、戸籍からは亀一爺さんが何処にいるのかわかりませんでした。
ハワイの浄土真宗の寺の過去帳に、鶴一爺さんのことが載っていることがわかりました。
それを頼りに捜したところ、子孫に会うことができたそうです。
兄は、子孫から苦労話を聞いてきました。
私と同じ名字の鶴一はアメリカ人になれなくて、子どもの代でアメリカ人になれたと聞きました。
北海道に広島市と言う名前の土地があります。
広島に生まれた次男三男が移民したのでした。
ブラジルにも多くの広島出身者がいました。
ドイツに行った時、気軽に入れるファーストフードの店として、
よく利用したのがケパブを売っているトルコ人の店でした。
英語が通じませんでした。
片言の英語で、ここはドイツなんだからドイツ語で話せと言われました。
トルコ人がドイツ語で話せと言うには、
過去いろいろあったんだなと推測しながら可笑しかったのを覚えています。
私の村には、韓国からの移民の方がいました。
私は、韓国人の友達がいました。
サッカー部で一緒でした。
家にもよく遊びに来ていました。
数年前の同窓会で、再会しました。
私のうちで、銀シャリを食べたのが嬉しくて何杯もお替わりをしたと言っていました。
私達が中学生の時、彼が運転する漁船でいかだに渡りアジつりをしました。
魚箱いっぱいのアジを持って帰れとくれたのを覚えています。
彼の甥は学業優秀でしたが、先生の資格をもらえなかったと妻から聞きました。
韓国籍が理由らしい。
この地には、フィリピンから来られた奥様が数人おられます。
スイスの村には、ポーランドから来られたお嫁さんがおられました。
ドイツでは、子守(ベビーシッター)をしながらドイツ語学校に通うジョージア出身の
若い女性がいました。ドイツには、多くの韓国人の看護婦さんがおられました。
米沢(30万石)には、会津(120万石)から移封された侍の開拓民がいました。
侍たちを浪人にさせないで食わせるために多くの荒れ地を開墾したのでした。
パキスタンの子どもたちは英語が堪能でした。石油産出国に出稼ぎをするためでした。
日本は、人口が減っています。移民を受け入れるにはまだまだ閉鎖的なようです。
拡大を続けた田畑は、耕作放棄地となり元の荒れ地に帰っています。
都会では、医療を受けられないで孤独死をする老人が増えています。
貧困のため、教育を受けられない子供が増えています。
なんだか釈然としない世の中です。
今日のテーマは「移民」でした。
何かを言いたいけど、今は黙るしかありません。
私は、日本の文化を良いところを外国に報せ、
国際交流ができるようになれば良いと考えています。
草の根的なファンができれば、役所も動くでしょう。
いいえ、実際は動いています。
面倒なようでも私たちの国のあり方を考えなければならないでしょう。
爪に灯を ともし続けて さらになお
2016年11月7日
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