2011年2月10日(木)、この春、大学時代の同級生であるK教授が静岡大学を退官する。私にとって最初で最後の彼の講義を聴くために静岡に行ってきた。
今から40年ほど前、大学改革を叫んで、当時の大学教授たちを徹底的に弾糾し、つるしあげてきた我々の仲間の中で、彼はリーダー的存在であった。当時同じ研究室で彼と私が大学院生で他に4年生と3年生合わせて6~7人の小集団だった。その頃彼は東大の博士課程に進学することがほぼ決まっており、私は大学に残って助手になる予定であった。しかし、当時の大学紛争とは一線を画しつつも、大学改革、特に教官たちへの社会的責任の追及を中心とした大学教官側と我々学生の間の対立は、かなり激しい闘争に発展していった。私はその闘争が始まるまでは、大学院の単位はほとんど取っていたが、彼は己の持論から、授業は受けず単位は一切取っていなかった。しかし、東大の大学院に進学するためには、どうしても修士課程の終了証書が不可欠である。修士論文は提出しても大学院の科目の単位がなければ認められない。そこで彼はどういう行動に出たか?「これは、お前らには直接関係ない話だから、俺一人でやる」と言って一人で教授会に殴り込みをかけに行った。そこで、最終的にどういう取引があったのかは私も一切知らない。ただ推測すると、一日も早く彼に大学を出て行ってもらいたいと考えた教授会は、彼を東大に送り出す方が得策と考え、実際は取ってもいない単位を、取ったことにして単位を乱発した。
それで結局彼はめでたく?東大に追い出され、4年生も卒業論文未提出のままでも卒業が認められた。私は、もちろん弾糾した相手側である教授のもとで助手になる選択肢はなく、彼らに修士論文を提出する気もなかった。ましてドサクサに紛れて修士の資格だけ授与されるのも嫌だったので、自らの意思で大学院を退学する道を選んだ。
その後、彼は東大の大学院を出た後、そのまま助手として東大に残った。しかし、彼を認めてくれていた指導教官が退官した後は、当然のごとく他の教授連中との折り合いが悪く、結局「助教授」のポストをつけて静岡大学に追い出された。
私の方は、大学院を中退した時すでに女房も子供もいたので、とにかく働いて生活費を稼がなくてはならなかった。知り合いの会社にもぐり込んでしばらく働かせてもらった後、当時の闘争メンバーだった大学の後輩を呼び寄せて会社をつくった。それからすでに38年が経過した。
そして彼もいよいよ静岡大学を定年退官となる。卒業後もずっと親友として付き合ってきたが、彼の大学教授としての授業の様子は見たことがない。それに、40年前の当時の教授連中に突き付けた問いかけを、自ら教授になってみてどう総括し、学生たちにそれを伝えていくのか?という質問を学生の前でぶつけるために静岡に出かけた。
最終講義が終わって懇親会に移った席で、彼はすべてをわかっていたかのように最初の質問者に私を指名した。その場で、たぶん静岡大学の関係者には初耳だったであろう40年前の話を少しして、その質問をぶっつけた。その答えは決して誰もが理解できるようなわかりやすい話ではなかったが、彼も私も未だにあの闘争に凝縮された短い時間を、良く言えば心の大きな糧として位置付けていること(悪く言えば心の傷として未だに引きずっていること)、そして日常的に己の緊張感を持続するための帰るべき「よりどころ」としていることが分かった。
今までお互いがあえて触れなかったことだが、若い研究者や学生のいる前で、その確認ができたことは却って良かった。わざわざ新潟から新幹線に乗り継いで静岡まで最終講義を聴きに来た甲斐はあった。
〈最終講義はそれほど変わったものではなく、これまでの研究の概要や、残る人たちへのメッセージなどが中心であった。〉
〈最終講義が終わって花束の贈呈を受けるK教授〉
〈彼が教授になってから一度訪ねたことがあるが、記憶にはない。高台の大学の講義室からの眺め。静岡では寒い日だったらしいが、真冬とは思えないくらい暖かい。〉