たむたむの独り言

写真を中心にした情報です。

胎内市本町地区照明イベント

2011-02-28 16:22:41 | Weblog

2月27日(日)、昨日と今日の2日間、新潟県胎内市の本町商店街において、ライトアップのイベントが行われた。 当社が企画を手伝っていたので見に行ってきた。 あいにくの雨となり見物客は少なかったが、一元さんお断りの料亭があったり、所々に老舗の店舗がありして、古いまち並みが残っている落ち着いた商店街だった。 この旧道はほとんど通ることがないので、来たのははじめてである。 水銀灯にフィルムを巻いてブルーの光にして照度を落とし、沿道にLEDの照明柱と各店舗の店頭に灯篭を立ててあった。 残念ながら灯篭の明かりがやや暗く、今一つライトアップの小道具としては目立たなかった。 あとで聞いたら予算と準備期間が少なかったということであった。納得!

昨日は寒波が戻った松代の雪の上で2時間以上も立っていたのと、今日は雨の中歩き回ったのとで、どうやら風邪を引いたみたいだ。 頭痛がして咳が出始めた。 やば~い!

〈拠点となる熊野若宮神社〉

〈一元さんお断りの料亭。今日はここで芸妓の踊りを見るツアーが企画されているとのこと。〉

〈水路脇に立つ蔵〉

〈今日は日曜日で商店街はほとんど店が休みの上に雨降りとあって、人も車もあまり通らない。〉

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雪アートプロジェクト「光の花畑」

2011-02-28 07:24:05 | Weblog

2011年2月26日(土)、先日、県の元観光課OBたちと、元立教大のM教授を囲んでの懇親会の席で、事務局を担当していた県広報広聴課の女性課長補佐でNPO法人越後妻有里山協働機構の理事でもあるTさんから、「越後妻有大地の芸術祭2011冬の雪アートプロジェクト」のチケットを買わされた。 その中の「光の花畑」は今日一回限りのイベントである。 天童温泉を朝9時過ぎに車で出発し、昼過ぎに新潟駅で降ろしてもらい、新幹線と上越線とほくほく線を乗り継いで3時半頃会場のある松代に到着した。

今日は天気が良く、5時を過ぎてもなかなか暗くならない。結局雪に埋められた発光ダイオードの光が美しく輝き出したのは6時半近くになってからだった。 昨日までの暖かさから一転して今日はめちゃくちゃ寒い! いい場所を確保するために結局2時間も雪の上で待つことになった。

しかし、寒さを我慢したかいあって、6時半近くになって雪原に美しい光の花畑が浮かび上がってきた。 この作品は高橋太という作家のプロデユースとのことであったが、この発光ダイオードの「光の種」を植えるという作業に一般の見物客も参加できるという企画であり、出来栄えもなかなか見ごたえがあった。

ただ、三脚なしの手持ち撮影だったので、どうしても手ぶれが出てしまって残念だった。

〈光の花畑となる会場、人はこの輪の上を歩くことができる。〉

〈ようやく暗くなってきた光の花畑。ちょうどほくほく線の特急列車が通過していった。〉

〈発光ダイオードの光が雪でぼんやり浮かび上がる「柔らかさ」がなかなか良かった。〉

〈帰りにあまり寒かったのでレストランでコーヒーを飲んだが、室内は雪のライトアッるが見えるように照明は落としてあった。〉

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天童温泉で「源流の森OB会」

2011-02-27 21:45:59 | Weblog

2011年2月25日(金)、今日は天童温泉で山形県の県民の森の一つである「源流の森OB会」が5年ぶりに開催された。源流の森http://www2.jan.ne.jp/~genryu/の企画が始まったのが平成2年で、整備が完了してオープンしたのが平成9年である。この間にこの計画や整備にかかわってきた山形県の技術職員と企画・設計・運営等にかかわってきた会社の技術者が、完成後数年おきに「源流の森OB会」と称して集まって1泊2日の同窓会を行っている。

県の職員は2~3年で転勤してしまうため、それぞれかかわった時期によって担当した内容は違っている。しかし、私は企画段階から調査・設計まで足掛け7年間ずっとかかわらせていただいた。したがって、メンバーの中では最も長期間であったため、全ての担当者と何らかの形で一緒に仕事をさせてもらった。当時の当社の担当者も2名参加したが、彼らは既に当社を卒業して一人は設計事務所の代表として、もう一人は市の歴史博物館の学芸員として活躍している。

県の職員だった人達のうち、既に多くの人たちが定年退職をしている。源流の森の企画段階で、この事業を県の中心的事業として始動させたO氏は、現在県の林業のトップの課長である。しかし、ちょうどこの3月で定年退職となる。そこでその卒業祝いも兼ねて開催されたわけだ。

なつかしい面々が久しぶりに顔をあわせ、話しが弾んで時間の経つのを忘れさせた。

〈久しぶりのOB会は、思い出話が弾んであっという間の天童温泉での一夜てあった。〉

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ほんとうに春だ!

2011-02-24 19:09:15 | Weblog

2011年2月23日(水)、今日は朝から夕方まで1日缶詰となって、「建築士事務所の開設者研修会」に出席した。これを受けないと建築士事務所の登録更新ができないからだ。

夕方からは、我々のNPOの理事長であるN氏が「渋沢栄一賞」を受賞したお祝い会があった。昼の部の会場は「新潟ユニゾンプラザ」、夜の部は「ホテル日航新潟」である。いずれも信濃川右岸にあるが、距離はかなり離れている。しかし、時間が1時間以上あったのと、あまりに天気が良く暖かかったので、右岸の水辺を歩くことにした。

ちょうど夕日が沈むころに万代島のホテルに着けばよいので、写真を撮りながらのんびり信濃川沿いを下流に向かって歩いた。万代シティあたりに来た時に、女子高生のグループがちょうど記念写真を撮ろうとしているところに通りかかった。その中の一人が、私に「このカメラで撮ってもらえませんか?」とコンパクトデジカメを持ってきた。そこで彼女たちを撮ってあげたついでに、私のカメラでも撮らせてくれないか?と言うと、彼女たちは快くモデルを引き受けてくれた。

ホテルに着くとちょうど夕日が沈む時間となったので、朱鷺メッセのテラスに出て夕日を撮る。ちょうどパーティ開始の15分前に会場に着いた。

お祝い会は、経済界だけでなく、文化人、学者、役人など250人ほどが集まり盛大に行われた。叙勲を含めて色々な賞をもらっているが、今日のお祝い会の参加者が最も幅広いジャンルの人たちが集まったようだ。2次会にも11時過ぎまで付き合わされ、飲めない下戸にとっては結構つらいものがあった。

〈春だあ~!という感じの女子高生たち〉

〈萬代橋と信濃川ウオーターシャトル〉

〈柳都大橋から萬代橋〉

〈朱鷺メッセのテラスから見たNEXT21の向こうに沈む夕日〉

〈渋沢栄一賞受賞のお祝い会で花束を受け取るN氏ご夫妻〉

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ようやく春の気配

2011-02-21 18:37:23 | Weblog

2011221日(月)、2月にしては珍しく晴れの日が2日続いている。しかもほとんど無風で暖かい。先週まで日陰に残っていた雪も完全になくなった。日差しはもう春である。

役員会で信濃川ウオーターシャトルの事務所に行ったついでに、眼下の萬代橋を撮った。こんなに天気が良いのに、歩いている人はほとんどいない。行き交う船もなく、信濃川のウオーターフロントは人がいないため賑わいのない殺風景な風景になってしまっている。いくら快晴でも北国の2月では川辺に出てみようという発想にはなかなかなれないのもやむを得ないか…。

帰りに、海岸道路を通って関分公園の展望台に登ってみた。先程車の中で聞いた新潟市の気温は5度台であったが、体感温度は10度近くあるように感じた。晴れて風がないとこんなにも暖かく感ずるのかと、季節風が吹き荒れ、低く垂れこめた暗い雲と横殴りの雪が続く北国の冬を、さすがに少しうらめしく思った。

あと何回くらい冬に逆戻りする日があるのだろうか?このまま春になるとは思われない。本格的な春はまだ1ケ月先くらいだろうか?

 

〈天気が良いのに歩く人はほとんどいない萬代橋。〉

〈いつもは白波が立つ関屋分水河口付近も今日は穏やか。〉

〈関分公園の展望台から、海岸防風林越しに市街地を望む。〉

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ネコと一緒の寝て曜日

2011-02-14 18:31:10 | Weblog

2011年2月13日(日)、仕事は持って帰ってきたが、今日は一日何もしない寝て曜日と決めた。いつもは昼間は寝ているはずのネコが、珍しくご主人が家にいるので落ち着かない。時々遊んでもらおうとしてチョッカイを出しに来る。そばまで来るので捕まえようとすると、脱兎のごとく走って逃げる。追っかけてこいと誘っているのだろうが、とても追いつくようなスピードではない。一日中、思い出したように同じことを繰り返している。もう15歳くらいなので、人間の年齢にすれば70歳以上だと思うのだがすこぶる元気である。人間の食べるものは一切食べさせていないのがいいのかもしれないが、キャットフードの缶詰は高いものしか食べない。外へも紐をつけて散歩させる以外は出さないので、病気をうつされることもない。まだ階段を駆け上がったり降りたりしているので、当分は長生きしそうだ。

毎朝、出勤時には玄関まで見送りに来るが、帰宅時には最近は寒いのか、あまり迎えに出て来なくなった。特に芸をするわけではないが、面白いのは握手をするように指を出すと、ツメは立てないで手全体でギュと握り返してくる。また、普通は膝の上に乗ってきたり、布団の中に入ってきたりしたがるものだが、我が家のネコはなぜかそういうことを嫌う。ただ例外的に85歳になる私の母親の膝だけには乗るのである。一日中一緒にいるからなのだろうか?ネコにも個性があって面白い。

〈15歳くらいになっているはずだが、まだまだ元気な我が家のネコ。 〉

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友人の最終講義を聴きに静岡へ

2011-02-12 08:27:42 | Weblog

2011年2月10日(木)、この春、大学時代の同級生であるK教授が静岡大学を退官する。私にとって最初で最後の彼の講義を聴くために静岡に行ってきた。

今から40年ほど前、大学改革を叫んで、当時の大学教授たちを徹底的に弾糾し、つるしあげてきた我々の仲間の中で、彼はリーダー的存在であった。当時同じ研究室で彼と私が大学院生で他に4年生と3年生合わせて6~7人の小集団だった。その頃彼は東大の博士課程に進学することがほぼ決まっており、私は大学に残って助手になる予定であった。しかし、当時の大学紛争とは一線を画しつつも、大学改革、特に教官たちへの社会的責任の追及を中心とした大学教官側と我々学生の間の対立は、かなり激しい闘争に発展していった。私はその闘争が始まるまでは、大学院の単位はほとんど取っていたが、彼は己の持論から、授業は受けず単位は一切取っていなかった。しかし、東大の大学院に進学するためには、どうしても修士課程の終了証書が不可欠である。修士論文は提出しても大学院の科目の単位がなければ認められない。そこで彼はどういう行動に出たか?「これは、お前らには直接関係ない話だから、俺一人でやる」と言って一人で教授会に殴り込みをかけに行った。そこで、最終的にどういう取引があったのかは私も一切知らない。ただ推測すると、一日も早く彼に大学を出て行ってもらいたいと考えた教授会は、彼を東大に送り出す方が得策と考え、実際は取ってもいない単位を、取ったことにして単位を乱発した。

それで結局彼はめでたく?東大に追い出され、4年生も卒業論文未提出のままでも卒業が認められた。私は、もちろん弾糾した相手側である教授のもとで助手になる選択肢はなく、彼らに修士論文を提出する気もなかった。ましてドサクサに紛れて修士の資格だけ授与されるのも嫌だったので、自らの意思で大学院を退学する道を選んだ。

その後、彼は東大の大学院を出た後、そのまま助手として東大に残った。しかし、彼を認めてくれていた指導教官が退官した後は、当然のごとく他の教授連中との折り合いが悪く、結局「助教授」のポストをつけて静岡大学に追い出された。

私の方は、大学院を中退した時すでに女房も子供もいたので、とにかく働いて生活費を稼がなくてはならなかった。知り合いの会社にもぐり込んでしばらく働かせてもらった後、当時の闘争メンバーだった大学の後輩を呼び寄せて会社をつくった。それからすでに38年が経過した。

そして彼もいよいよ静岡大学を定年退官となる。卒業後もずっと親友として付き合ってきたが、彼の大学教授としての授業の様子は見たことがない。それに、40年前の当時の教授連中に突き付けた問いかけを、自ら教授になってみてどう総括し、学生たちにそれを伝えていくのか?という質問を学生の前でぶつけるために静岡に出かけた。

最終講義が終わって懇親会に移った席で、彼はすべてをわかっていたかのように最初の質問者に私を指名した。その場で、たぶん静岡大学の関係者には初耳だったであろう40年前の話を少しして、その質問をぶっつけた。その答えは決して誰もが理解できるようなわかりやすい話ではなかったが、彼も私も未だにあの闘争に凝縮された短い時間を、良く言えば心の大きな糧として位置付けていること(悪く言えば心の傷として未だに引きずっていること)、そして日常的に己の緊張感を持続するための帰るべき「よりどころ」としていることが分かった。

今までお互いがあえて触れなかったことだが、若い研究者や学生のいる前で、その確認ができたことは却って良かった。わざわざ新潟から新幹線に乗り継いで静岡まで最終講義を聴きに来た甲斐はあった。

 

 

 

〈最終講義はそれほど変わったものではなく、これまでの研究の概要や、残る人たちへのメッセージなどが中心であった。〉

 

〈最終講義が終わって花束の贈呈を受けるK教授〉

 

 

〈彼が教授になってから一度訪ねたことがあるが、記憶にはない。高台の大学の講義室からの眺め。静岡では寒い日だったらしいが、真冬とは思えないくらい暖かい。〉

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はじめて来た場所

2011-02-09 07:01:17 | Weblog

2011年2月8日(火)、打ち合わせのために新潟市中央区竜が島にある新潟木材会館を訪れた。約束の時間より早く着いたので、近くの中央埠頭に行ってみた。以前は新潟港湾事務所にはたびたび来たことがあったが、出入りは自由であった。しかし、今は、その手前でバリケードが設けられ、「関係者以外立ち入り禁止」の立て札が出ている。北朝鮮から貨客船「万景峰号」が入港していた頃、反対運動のデモなどが頻繁にあったため、それ以来、埠頭への一般人の立ち入りが制限されたのだろう。万景峰号が来なくなった今も、そのままにされている。バリケードを無視して万景峰号が接岸する中央埠頭まで出てみると、そこには国際旅客ターミナルの建物があった。確かに国際港なので国際旅客ターミナルがあって当たり前だが、万景峰号以外に定期国際航路はないはずなので、今は全く人の気配がない。

それにしてもこの新潟港は国際港らしい雰囲気もなく、「関係者以外立ち入り禁止」の立て札などなくても、関係者以外だれも近寄りはしない。私も40年以上新潟市に住んでいるが、今日はじめて来た場所である。市民にとって行きたい場所にはなっていないのである。日本の開港5港でありながら、横浜や神戸、函館などとは雲泥の差である。

その大きな理由の一つが、港を見下ろす地形になっていないことである。普通の目線では、目的を持ってそこへ行かない限り、港を認識できない。したがって用事がなければ新潟市に住んでいても港のある風景を見ることはほとんどない。しかし、港が見える高台があれば、用事がなくても日常的に港を見る機会があり、その景観に対して、いやがおうでも意識せざるを得なくなる。だから新潟港は市民からあまり意識されることもなく、したがって景観的な配慮が全くされないまま、今日まで来てしまったのではないだろうか?「港町でありながら、港をまちづくりに生かしきれない新潟市」に関する私の分析である。

〈万景峰号が接岸する中央埠頭、佐渡汽船ターミナルのすぐ前だが、ここへ来るには大廻りしなければならない。〉

〈この角度から街の方を見たのははじめてである。〉

〈脇には海上保安庁の巡視船「えちご」が停泊している。〉

〈東埠頭方向には北海道航路の新日本海フェリーの煙突が見える。〉

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「ばかうけ展望室」での還暦の結婚お祝いパーティ

2011-02-06 11:26:25 | Weblog

2011月2月5日(土)、今年還暦を迎える社員T君の結婚お祝いパーティが、朱鷺メッセ31階の「ばかうけ展望室」の半分を借り切って行われた。いつこの展望室に名前がついたのか知らなかったが、(株)栗山米菓が命名権を取得して一昨年「Befco(ベフコ) ばかうけ展望室」となったらしい。

 T君の奥さんになる人も元社員で、二人とも初婚である。以前から一緒に暮らしていたのは衆知の事実だったが、先月正式に籍を入れたと報告があったので、お祝い会をすることになったわけだ。ただ、まわりで企画しても、きっと本人たちは断るだろうと思っていた。しかし、彼らは予想に反してその企画を受け入れ、今日のパーティが開催された。

 家族や親戚が参加する披露宴ではないので、ほとんど自分たちが楽しめる企画になっていて、半分はジャズとフォークのコンサートであった。会社のOBたちも多く集まり、懐かしい思いのする楽しいパーティとなった。

〈「ばかうけ展望室」からの信濃川と新潟市の夜景〉

〈本人たちはそっちのけで、余興中心のパーティ。プロの応援も受けてジャズコンサート。〉

〈いつものように会社のSigmaバンドも演奏〉

〈最後は恒例のW君のエールで2人を激励!〉

〈久しぶりの人達も入れて記念写真〉

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