平和への希い1362 戦後74年
平和主義者の西郷どん 2018.12.21.

日曜日の夜のお楽しみ、大河ドラマ「西郷(せご)どん」が終わってしまった。
西南戦争で、「逆賊」の汚名を着せられて、非業の最期を遂げた西郷隆盛。
欧米帝国主義国家の「植民地主義」に飲み込まれそうだった時代、明治維新で「新しい日本」は船出した
ものの、新政府の足元は内外の諸問題を抱えて、不安定そのもの。
特に、職を失った「武士団」の不満をどのように押えて、「新しい日本つくり」に向かわせるか、も大問題
だった。
明治政府に対する不満武士団が「萩の乱」など各地で暴発し、新政府の屋台骨は揺れていた。
不満武士団は、野に下っていた西郷どんを頼った。
西郷どんは、くすぶる不満武士団を新政府に協力させるための方策について、「陳情」する心算で上京したが、
新政府から、「逆賊」として征討される羽目になり、止む無く、西南戦争となった。
新政府は、西郷どんの命を助けるつもりだったようだが、西郷どんは、「自分の命で不満武士団を諦めさせる」
最後の内戦にし、国内の混乱を納め、大久保利通の「富国強兵」に向かって国民が一丸になることを願った。
この戦いの後、内戦は無くなり、植民地にされないための「富国強兵策」は進み、日清・日露戦争を経て、
帝国主義国家の仲間入りを果たした。
西郷どんの、明治政府のために果たした功績は、明治政府を誕生させたことと、内戦を終結させ、明治政府の
屋台骨を確かなものにしたことでしょう。
東京上野公園の西郷どんは、逆賊の汚名を着せられたにもにもかかわらず人気があり、平和日本の礎を築いた
偉人として尊敬されています。
征韓論にせよ、陳情団にせよ、基本姿勢は、「話し合いで、何とか決着をつけよう」との平和主義者だったから
こそ、多くの人から慕われ、敬われるのだ、と思います。
富国強兵で帝国主義国家となり、軍部が強大化、「話し合いで、何とか決着をつけよう」から逸脱、太平洋戦争
に突入、敗戦で平和憲法を奉ずる平和日本が誕生した。
改めて西郷どんに感謝し、先人達の血と涙で築かれた平和日本を決しておろそかにしてはならない、と思います。
ウォーキング中に出会った花々です。



12月21日、「今日は何の日カレンダー」より
納めの大師◆冬至(二十四節気の一つ。陽光が最も弱く昼間の最も短い日)
▲紀貫之「土佐日記」書き始める(934)▲メイ・フラワー号に乗ったイギリスの清教徒たちがアメリカ大陸の
プリマス・ロックに上陸。アメリカ開拓はじまる(1620)▲伊能忠敬が蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を勘定所
へ提出する。日本初の実地測量地図(1800)▲「赤城の山もこよい限り」国定忠治41歳で刑死(1850)
▲江戸幕府、日露和親条約に調印。国境をエトロフ島とウルップ島に決め、下田、函館、長崎を開港(1854)
▲工部省と宮内庁との間でベルの電話機の実演(1877)▲三井呉服店が三越呉服店と改称、日本最初のデパート、
三越呉服店開業(1904)▲首都高速1号完成(1963)▲結婚、離婚数とも史上最多に (1970)▲1000万円ジャンボ
宝くじ購入に群衆殺到、松本と福岡で死者(1976)▲ベルリンの壁取り壊し作業開始(1989)▲ソ連消滅(1991)
▲高速増殖炉「もんじゅ」廃炉決定(2016)
平和主義者の西郷どん 2018.12.21.

日曜日の夜のお楽しみ、大河ドラマ「西郷(せご)どん」が終わってしまった。
西南戦争で、「逆賊」の汚名を着せられて、非業の最期を遂げた西郷隆盛。
欧米帝国主義国家の「植民地主義」に飲み込まれそうだった時代、明治維新で「新しい日本」は船出した
ものの、新政府の足元は内外の諸問題を抱えて、不安定そのもの。
特に、職を失った「武士団」の不満をどのように押えて、「新しい日本つくり」に向かわせるか、も大問題
だった。
明治政府に対する不満武士団が「萩の乱」など各地で暴発し、新政府の屋台骨は揺れていた。
不満武士団は、野に下っていた西郷どんを頼った。
西郷どんは、くすぶる不満武士団を新政府に協力させるための方策について、「陳情」する心算で上京したが、
新政府から、「逆賊」として征討される羽目になり、止む無く、西南戦争となった。
新政府は、西郷どんの命を助けるつもりだったようだが、西郷どんは、「自分の命で不満武士団を諦めさせる」
最後の内戦にし、国内の混乱を納め、大久保利通の「富国強兵」に向かって国民が一丸になることを願った。
この戦いの後、内戦は無くなり、植民地にされないための「富国強兵策」は進み、日清・日露戦争を経て、
帝国主義国家の仲間入りを果たした。
西郷どんの、明治政府のために果たした功績は、明治政府を誕生させたことと、内戦を終結させ、明治政府の
屋台骨を確かなものにしたことでしょう。
東京上野公園の西郷どんは、逆賊の汚名を着せられたにもにもかかわらず人気があり、平和日本の礎を築いた
偉人として尊敬されています。
征韓論にせよ、陳情団にせよ、基本姿勢は、「話し合いで、何とか決着をつけよう」との平和主義者だったから
こそ、多くの人から慕われ、敬われるのだ、と思います。
富国強兵で帝国主義国家となり、軍部が強大化、「話し合いで、何とか決着をつけよう」から逸脱、太平洋戦争
に突入、敗戦で平和憲法を奉ずる平和日本が誕生した。
改めて西郷どんに感謝し、先人達の血と涙で築かれた平和日本を決しておろそかにしてはならない、と思います。
ウォーキング中に出会った花々です。



12月21日、「今日は何の日カレンダー」より
納めの大師◆冬至(二十四節気の一つ。陽光が最も弱く昼間の最も短い日)
▲紀貫之「土佐日記」書き始める(934)▲メイ・フラワー号に乗ったイギリスの清教徒たちがアメリカ大陸の
プリマス・ロックに上陸。アメリカ開拓はじまる(1620)▲伊能忠敬が蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を勘定所
へ提出する。日本初の実地測量地図(1800)▲「赤城の山もこよい限り」国定忠治41歳で刑死(1850)
▲江戸幕府、日露和親条約に調印。国境をエトロフ島とウルップ島に決め、下田、函館、長崎を開港(1854)
▲工部省と宮内庁との間でベルの電話機の実演(1877)▲三井呉服店が三越呉服店と改称、日本最初のデパート、
三越呉服店開業(1904)▲首都高速1号完成(1963)▲結婚、離婚数とも史上最多に (1970)▲1000万円ジャンボ
宝くじ購入に群衆殺到、松本と福岡で死者(1976)▲ベルリンの壁取り壊し作業開始(1989)▲ソ連消滅(1991)
▲高速増殖炉「もんじゅ」廃炉決定(2016)