1959年4月から5月にかけて開催された「大阪国際フェスティバル」のために、イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882-1971)が4月5日(日曜日)に来日し、一ヶ月滞在しました。夫人と、弟子で指揮者のロバート・クラフト(Robert Lawson Craft, 1923-2015)が同行しました。
↑ 杉浦康平氏(1932年生まれ)によるポスター(1030×728mm)。60年も前なのに古さを感じさせません
NHK交響楽団を率いて「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「花火」、「夜鳴きうぐいす」をフェスティバル・ホールで演奏した5月1日(金)は補助席を出しても足りなくてオーケストラ・ピットにまで席を作ったほどだったそうです(このときの「火の鳥」がYouTubeで見れます)。
その演奏会に関する、聴衆、評論家、オーケストラ、そしてストラヴィンスキー自身の感想をまとめてみました。
1.【一般の聴衆代表:岡部伊都子氏(1923-2008、随筆家)~「芸術新潮」昭和34年6月号】
「現存する最大の作曲家、そして音楽に関心をもつものは避けて通ることのできない近代音楽の魂であるストラヴィンスキーが、自分で自作の指揮をするのだから興奮しないではいられない。
5月1日、ストラヴィンスキー指揮のNHK交響楽団をきくために集まった人々の顔は、一種とくべつな熱烈さと純粋性にあふれていた。(中略)東京の文士や作曲家の姿も散見する。みんな、ストラヴィンスキーを自分の中に抱いている人々だ。
七十七歳になっているというストラヴィンスキーは、老人らしくたよたよとして舞台にあらわれる。正面にむかって九十度の深いおじぎをする。日本人でもめったにしなくなった深いおじぎである。そして無雑作に指揮をはじめる。(中略)面白いことは全楽器が大奮闘しているフォルティッシモのときには、彼は指揮を中止してハンカチで額の汗をふいている。そして音がしずまると、ガゼン彼の腕は激しく動き鋭いあいずを示す。(中略)NHK交響楽団も火のような清らかさで神経をハリつめた壮大な演奏をしていた。(中略)チェレスタに黛敏郎、タンバリンに指揮者岩城宏之が加わり、同じストラヴィンスキーの舞台にたつ喜びを味わっていたらしい。二度、三度アンコールにこたえて舞台の中央に戻ったストラヴィンスキーは、そのたびに客席に三度、あの深いおじぎをくりかえし、後のオーケストラ奏者に礼をする。(中略)前かがみになり、心臓の下に手をあてて、あらわれては消える老作曲家の姿に、涙のにじむのをとどめることはできなかった。」
→自分がもしその場にいたらやっぱり生ストラヴィンスキーを見ただけでジーンとなったと思います。YouTube動画では黛氏と岩城氏がなんとなく確認できました。
2.【評論家代表:吉田秀和氏~「音楽芸術」昭和34年7月号】
「このあいだ、イゴール・ストラヴィンスキーが日本にきて、自作の指揮をしていったのをきいて、この指揮をする作曲家のすがたがどこで接してみても、あまりにも、同じなのに、強い印象をうけた。(中略)とにかく、公衆との共感に、土地柄での差というものが、あるのだろうぐらいに、かねがね、思っていた。
それが、ストラヴィンスキーでは、ちがっていた。そういえば、大変失礼な言い草だが、当代一流をもって目されているフィラデルフィア・オーケストラやハンブルクの西北ドイツ放送局のオーケストラを相手にした時も、N響を相手にした時も、彼のわたしの前にえがいてみせた音楽は、本質的に同じものだった。東京の公衆と、ニューヨーク乃至はローマ、ハンブルクの公衆とは、そのうえ、大変ちがうものなのに。
一体、音楽家―演奏家にしても作曲家にしても―のなかには、「自分の公衆」というものを、特に、強く必要とするものと、それほどでもないものと、まあ、わけてみれば、二通りの区別があるのだろうか。
それは、また、単に、音楽会にあつまった時の人間の集団という意味での、「公衆」ばかりでなく、もっとひろく、深く、芸術家として、自分の芸術を育て維持し、発展させてゆくために、特に強く、自分にあった精神的自然的風土を必要とするものと、それほどでもないものと、二通りあるという風に考えられるのではなかろうか。」
→良く言ってるんでしょうか?まあ、悪く言ってるんでしょうね。「作曲家の指揮はつまらない」っていうのが常識らしいですが。。
3.【NHK交響楽団代表:オーボエ奏者の川本守人氏~佐野之彦著『N響80年全記録』(文芸春秋)171ページより】
「自分の作った曲に対する思いがこちらにひしひしと伝わってくる。『火の鳥』の練習中にセカンドヴァイオリンの譜面を直すんですからね。作ってから何年も経っているのに、これでもかと、納得するまでよくしていきたいという気持ちを感じました。偉大な作曲家というのはこういうものかと。あの姿勢には本当に感動させられました」
→ かなり気合の入った練習をしたんですね!
4.【ストラヴィンスキーのNHK交響楽団に対する感想~「音楽芸術」同月号】
「ここのオーケストラと仕事をしてみて、ぼくは、楽員たちが、テンポの感覚(センス)をもっていないことを、確信するようになった。御存知のように、テンポはリズムとは別のものだ。ところで、ぼくは、「雅楽」をきくと、そのテンポはすばらしい。だが、ぼくはその音楽は理解できない。楽員たちは、これと似たようなことを、やってるわけだ。ぼくの「火の鳥」で、ぼくはテンポに関するぼくの考えを、彼等に理解してもらうことが、とうとうできなかった。その他の点では、このオーケストラは非常に満足だった。彼等はすばらしく協力してくれた。だが、テンポは、あのひとたちは、どうしても、わかってくれなかった。」
→ガチョ~ン
大阪でN響を指揮するストラヴィンスキー
(追記) ストラヴィンスキーのテンポに関する考えがどういうものか分からなかったのですが、『芸術新潮』昭和32年9月号の「ストラヴィンスキー・34の質問に答える」という記事のなかにそれらしきものがありました。
質問者 シェーンベルクは、良い演奏をするテンポは一つしかないと提唱していますが、これに賛成なさいますか?(シェーンベルクは、テンポの不確かな曲の実例として、ハイドンの《皇帝クワルテット》からとったオーストリア国歌を挙げている)
ストラヴィンスキー 私は、どんな音楽作品も、必然的にただ一つのテンポを持っているべきだと考えています。テンポがいろいろになるというのも、もとを正せば、演奏家が自分の演奏する作品にあまり親しんでないからか、または、それを解釈するのに個人的な興味を感じているからなので、ハイドンの有名な旋律の場合だって、テンポに何らか不確実さがあるとすれば、その誤りは、それを演奏する無数の人たちの驚くほかない振る舞いのうちにある。
→ テンポがただ一つと考えているからこそ、ストラヴィンスキーの指揮姿が吉田秀和氏にはいつでもどこでも同じように映ったんだな、と合点がいきました。ちなみに小林利之著『ステレオ名曲に聴く』(東京創元社)の165ページにも『...カラヤンの解釈を「全然まちがっている」と断言したのが、じつは作曲家ストラヴィンスキーです。彼の持論は「音楽は解釈されるべきものでない」というのですから、当然でしょう』という記述があります。
しかしながら、当時のN響が、テンポはただ一つという大して難しくもなさそうなことを何故理解できなかったのか依然として疑問が残ります。
もしかしたら日本人は日本古来の音楽の伝統にDNAレベルで支配されており、自分でも気がつかないうちに本能的に部分部分のテンポを変えてしまっているとか? (例: 酔っぱらいのカラオケおやじ)
(追記)
篠崎史紀氏エッセイ『ルフトパウゼ』にテンポ問題に対するひとつの答えがありました!
(2014年8月23日の記事にポスター画像を追加しました)