モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

諫早大水害と長崎無線(JOS)回想 (2/2)

2018年10月12日 | 寄稿・モールス無線通信

◆諫早大水害と長崎無線(JOS)回想(2/2)

渡部 雅秀

3.アマチュア無線の活躍

あとで知りましたが、日本アマチュア無線連盟の長崎クラブの機関紙によると、長崎県下の電信電話回線はずたずたに切断され、長崎、諫早、大村、島原などは蚊帳の外に追いやられていた、と記載されていました。以下はその機関紙の記事抜粋です。

25日当夜、午後 11 時半頃 NHK 長崎放送局から、クラブ会員のM氏に、非常通信の依頼があった。早速「OSO(非常通信)熊本または福岡」と呼びかけ、受信に移った途端に停電となり、通信不能になってしまいました。

NHK に通報したところ、300Wの発動発電機を持参してきましたが、調子が悪く26 日午前 1 時 15 分頃、停電が解消したので、非常通報を 送信できるようになりました。相手局は佐世保、福岡、小倉などのアマチュア局でした。

各地の NHK や新聞社は、長崎 への電電公社の市外回線が不通となったので、長崎のアマチュア局が出てくるのを待っていたそうで す。午前 1 時半頃から、長崎市内の他のアマチュア局が 5~6 局電波を出してきて、長崎から各地への連絡に努めました。

午後4時頃には、島原のアマチュア局がバッテリとDC-DC コンバータを使用して新聞社からの新聞原稿、九州電力、検察庁、日通、島鉄バスなどからの通報を送信してきました。長崎市内のほかのアマチュア局も、諌早税務署、長崎税務署管内の職員・家族の安否について、福岡国税局との情報連絡にあたっていました。

26 日夜 11 時頃には、長崎~諫早間の市外回線が一部復旧し、非常通報の依頼も減少してきたので、各アマチュア局も、非常通信を止め、休息をとりました。

翌 27 日には、新聞社の専用線もぽつぽつ復旧しだしましたが、島原方面の市外公衆回線は相変わらず不通のため、島原のアマチュア局は引き続き活躍していました。

27 日夕方までに、諌早電報電話局の市外回線は 3 回線が復旧したものの、通話輻輳のため数時間待ちの状態でした。

長崎県災害対策本部から、通信の円滑化と各機関との意思疎通を図るため、長崎クラブ 会長の H 氏に出動要請があり、長崎クラブとして、諫早に移動局を持ち出すことになりま した。

同日夜半、災害対策本部の車で、クラブのメンバー8 名が長崎を出発、翌 28 日午前 6 時 頃には、諌早市の災害対策本部があった諌早小学校内にて設営完了、NHK から借用した非常電源で、長崎と連絡が取れるようになりました。

また、長崎に残ったメンバーは同日早 朝、県庁 5 階にアマチュア局を開設、体制を整えました。 昼頃、諫早の無線機の発動発電機が故障して、運用が出来なくなった時、長崎の別のアマチュア局が移動局を持って応援に駆け付け、運用を続けました。

陸上自衛隊の通信班がすぐ傍で無線機を運用しているため、妨害が発生したので、お互い通信時間を決めて運用しました。

諌早では、飲料水に困り、長崎から持参した水を分け合い、炊き出しのおにぎりを戴き ながら、頑張りました。

こうして諌早は 29 日午後 2 時、島原は 30 日夕方、非常通信が解除されるまで、災害対策本部関係の非常通報の疎通に当たりました。


後日、長崎クラブに対し、諫早市野田市長と九州地方非常通信協議会会長から感謝状をいただいた、とのことです。 アマチュア無線は趣味ばかりではなく、非常災害時には、被災地に身軽に出動し、すべてボランティアで情報連絡に参加しており、東日本大震災の際も、現地で活躍したことが報道されていました。

4.市街の様子と無線局員の被害

水害の犠牲者の遺体は、各地のお寺に寝かされていて、遺族の確認を待っていました。
消防団員が町なかの側溝から遺体を掘り出している現場に遭遇したり、火葬場が満杯で処理できないため、空き地で材木を積み重ね、灯油をかけて焼却している姿も見ました。 水害後、巷には色々なうわさが流れました。(以下略)

本ブログ1/2の「1.赴任早々の大水害」で心配していた行方不明の寮生達については、幸いなことにパチンコ店にいた者は、足元から水が上がって来たので急いで逃げ出し、また、飲み屋でよろしくやっていた者はママと一緒にしかるべき場所に 避難して無事でした。

結局、このときの災害で無線局員は1人の犠牲者もなく済みましたが、中には死の恐怖を経験した先輩もいました。新婚早々のS氏で、その経験は「長崎無線 91年のあゆみ」に詳しい手記として残されています。その概略を以下に紹介します。

当日、氏は午前10時から午後6時の勤務を終え、坂を下って市街地の借上げ社宅に帰宅。9時頃、猛烈な雨が心配となり近くを流れる本明川の水位を見に行った。まだ水位は、岸まで余裕があったので安心した。自宅に帰り床について間もなく、異常を感じ飛び起きると、畳の隙間から水が噴き出し、アッという間に畳はぶかぶかと浮き、家具が倒れ、瞬く間に 2 階まで水が上がってきた。真っ暗闇に走る稲妻を頼りに外をみると隣近所の家がユックリと動き出し、屋根に逃げたり家の柱にしがみついたまま流されていく人たちが見えた。S氏夫妻も、屋根伝いに脱出、家と家の間は雨戸を架けて移り、最後は、より高い商店の屋根に必死で避難し夜を明かした。濁流に消える声を聞きながら「最早これまで。」と覚悟していたのに夜明けとともにホッとし涙したことを覚えています。

5.大水害の原因とその後

諌早大水害の原因を、国土交通省九州地方整備局長崎河川国道事務所では、次のように分析しています。
1 本明川が被害を受けやすい地形であること
2 今回の雨が想定を超える大きさの雨だったこと
3 その雨に対して、本明川の川幅が足りず、川から水があふれ出たこと

また、多くの犠牲者を出した要因として、
1 夕方に一旦雨足が弱まり市民に油断が生じたこと
2 停電で避難勧告や指示など災害情報が伝わらなかったこと、などと分析しています。

水害後本明川は、全国で 1 番短い 1 級河川に指定され、国の直轄管理となっており、川幅は以前の 40mから 60mに広げられて、現在でも河川改修工事が行われています。

この時の死者・行方不明者 630 人、負傷者 1,547 人、罹災者2万人と、実に当時の諌早市総人口の30パーセントに及びました。被害総額は 93 億円だったそうです。

水害後、諫早市と諫早商工会議所などにより、大水害の犠牲者の冥福を祈り、防災の誓いを新たにするため、毎年、大水害のあった7月25日には、諫早公園前の本明川河川敷一帯で慰霊祭が開かれています。本明川の裏山橋から諫早橋間の 1.8 キロ区間で午後8時から9時までの1時間に繰り広げられる暗く静寂な川面に揺れる神秘的な23,000個の万灯と夜空に広がる 2,000 発の花火の光と音のコントラスト。全国的にもとても珍しい幻想的なお祭りとなっています。

諌早眼鏡橋は日本の石の眼鏡橋として初めて国の重要文化財に指定され、昭和 35 年、諌早公園に移設されて、観光名所の一つになっています。<おわり> 


(参考文献)

1 諌早市役所ホームページ
2 国土交通省九州地方整備局長崎河川事務所ホームページ
3 長崎無線91年のあゆみ 日本電信電話株式会社 長崎無線電報サービスセンタ
4 日本アマチュア無線連盟長崎クラブ機関紙 30 年誌
5 諌早電報電話局 昭和 32 年 8 月 8 日 諌庶第 599 号 「7.25 水害の概要と、 その復旧経過」(復刻版 元諌早電報電k話局社員、川口寿男氏作成)


◆寄稿者紹介等(略)、1/2の記載を参照ください。     

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