モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

原爆予告を聞いた(2/2)

2016年07月23日 | 原爆
◆原爆予告を聞いた(2/2)

広島 宮本 広三 氏

玄関前の広場は、負傷者でいっぱいだった。
「痛い、痛い」と
叫ぶ者もいる。うめき声をあげている者もある。目が飛び出て下にたれている人、焼けどと爆風で全身の皮膚がボロぎれのように垂れ下がった人、オバケのように両手を上げた人~手を降ろすと、焼けどで赤身が飛び出たところがこすれて、痛いからである。歩ける者は道路へ出て逃げだしていく。

あちこちから火の手があがった。逓信局も2階の窓から炎が上がっていた。炎は2階の窓から3階の窓へ吸い込まれ、3階から舌を出した炎が4階に吸い込まれていく。

倒れている私に、目のつぶれた人がつまずいて、私の上に倒れる。私は頭の左半分だけでなく、背中じゅうにガラスのかけらが針ネズミのようにたっているので、背中の上に倒れられると、その痛みで気がつく。目のつぶれた人は、倒れたはずみに、私の背中のガラスの針がどこかに突き刺さったらしく、
「痛い!」
と悲鳴を上げる。

戦場でいろいろ経験もしたが、今度こそ最後だと思った。声が出なくなり、力も尽きてきた。

どれだけ時間がたったか分からない。
玄関前広場の動けないひん死の負傷者の群れに中から、私を見つけてくれたのが南条技師だった。彼は無線工事局の人で、席は逓信局の建物の2階東北部にあった。無線機の設計や工事の指導をしてもらったりしている人である。どこでみつけたものか、部下とタタミを持ってきて、私を寝かせようとするが、背中一面のガラスで痛くて、タタミにあがれない。耳は聞こえるこいつのに声が出ない。技師は、
「こんなあ(こいつは)酒好きじゃけん、この世のなごりに酒を飲ましてやるかあ」
と言って、ヤカンに入れた酒を持ってきた。
その酒を飲むと、のどを通るとき火がついたようだったのを覚えているが、すぐ吐いた。

黒い雨がスコールのように降ってきた。飛行機の爆音が聞こえた。技師たちは、私をかついで逃げようとしたが、全身にささったガラスが痛くて苦しむので、タタミのままかついで,隣の逓信病院地下のレントゲン室に運びこんでくれた。3台あるレントゲンの間に降ろして、
「ここなら大丈夫だ。元気をだせ」
と言って、技師たちは炎の町へ出ていった。

その翌日か、そのまた翌日か、覚えているのは、工事雇で顔見知りの人が、背中のガラスを草でも抜くように引き抜いて、
「こんなにある」
と見せてくれたこと、布きれのようなもので血を拭いてくれたこと、逓信病院の産婦人科の先生だという医師が、油薬を塗ってくれたことだ。

逓信病院には、自力で歩けない人が次々と運びこまれ、どんどん死んでいく。
何日たったのか、逓信病院の廊下まで、大急ぎで修理した寝台が並べられ、そこに寝かされていたとき、看護婦が私の毛布に名札をぬいつけてくれる。それを見て、
「これでお終いなんだなあ」
と思うほど、体力も気力もなくなっていた。

ところが、その名札を母方の祖父が見つけてくれた。祖父は、広島駅から東へ2つ目の駅がある海田町に住んでいて、母を連れて私を探しにきた。母は比治山の自宅で被爆し、家は壊れ、頭に負傷したが、海田まで逃げていたのだった。

1週間くらい後には、逓信局の1階食堂にタタミを敷いて作った臨時患者収容所へ移り、包帯交換などの手当てを受け、母も一緒に治療をしてもらった。

なんとか歩けるようになったのは、1ヵ月くらいしてからだった。重傷者が多いのに、いつまでも世話になるわけにもいかず、広島と海田の間の船越町に家を見つけ、移ることになった。

母がゾウリを拾ってきた。鼻緒が切れていた。母は着物のすそを惜しげもなく破って、私の足にゾウリをしばりつけてくれた。そのとき、母親は有り難いなあという気持ちと、自分は生きているんだなあ、という気持がわきあがった。

うめき声、悲鳴、叫ぼうとして声の出ない痛み、麻酔のきかないままどこかを切断される「ギェーッ」という娘さんの叫び~そんな所からやっと逃れ出たが、慢性下痢が半年以上も続いた。

10月ごろからは、背中の痛みやだるさはあるものの、それを押して出勤しなければならなかった。係長は広島市の北の長束の自宅に逃げて、職場の者が連絡に行くまで出勤しなかった。出勤するようになっても、あの日のことは、どちらからも口にできなかった。
人づてに聞いたところでは、
「あのとき、宮本が大声でわめくので、首をすくめたとたん、被爆した」
と言っていたそうだが、座っていたため頭の先にケガをしただけのようだった。

残念なことに、恩人である南条技師(注)は、市内で死体で見つかったということだ。自分はケガが軽いからと、そのまま救助活動にあたって犠牲となった人も多い。
勤めだしても、歯ぐきから出血したり、目まいなどの急性症状がでたり、髪の毛が一本もなくなるほど抜けて丸坊主になったり、これでは結婚相手になってくれる者もないと、がっかりした。

原爆の後遺症は、私の一生の重荷となった。体のだるさ、背中の痛み、ガラスのかけらが運動神経を傷つけたために不自由な手、重なる症状も他人からは怠けているようにしか見えない。

大阪に勤務中、とかく治療のため休み勝ちになるので、公傷認定を申請すると、
「今日、その傷を認めるものはない」
と却下された。

広島に帰って、たびたびガラスの摘出手術を受けたが、あるとき、左肩にガラスのかけらがのぞいていたから、切ってほしいと言うと、
「厚生省の認定を得ないと切れない」
と言う。認定通知が来たときは、ガラスのほうで待ちくたびれ、どこかに逃げてしまっていたこともあった。

国家公務員災害補償法によって、公傷と認定されたのは、あの日から30年たった昭和50年(1975)の夏である。

私は生きた。

あの「ボイス・オブ・アメリカ」のことを話すと、
「あんたが2日ほど広島市民をつれて逃げておれば、大恩人として銅像が建ったのに」
と冷やかす人もいる。
あのこら、ひとことでもデマ放送の内容を言えば、逃げる前に警察か憲兵隊にひっぱられてたよ」
と私は言う。だが、
「あんただけでも逃げておれば」
と言われると、ちょっと考え込んでしまう。
仮病でも使って、ほんとに2日ほど広島を離れていたら、人並みの健康な人生があったかもしれない。
しかし、私は力ない声で答えるほかはない。
「あの頃は、誰だって、私と同じ道すじをだどったと思いますよ」


【付記~(1/2)を参照ください。】
※「南条技手」と書いているが、姓の読みが同じ楠城敏美広島無線工事局長の誤記と思われる。
広島被爆誌(昭和30.8.6中国電気通信局)によれば、広島無線工事局の局員14名の名簿があり、その中で死亡者は楠城局長(40歳)1人で、「無線工事室の事務室で被爆し、無傷であったが、局員とともに泉邸に向け避難した際、猛火にあおられ水中に飛び込んだまま行方不明となった。その後局員が手分けして捜査の結果、市役所死亡者名簿により水死されたことが判明した。」場所は、常盤橋下手の川だったと思われる。




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