モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

広島電信局と原爆(1/3)

2016年08月05日 | 原爆


◆1、被爆前の広島電信局

(1)原爆前の局舎移転
昭和19年初頭ごろから広島にも敵機襲来の公算が大きくなり、通信施設の防衛が、国策として強く要請されるに至った。当時、広島の電信業務は、広島市細工町にあった木造2階建ての広島郵便局2階の電信課で行われていた。

これを堅固な建物に移すよう軍部からの要請があり、袋町の鉄筋コンクリート7階建「富国ビル」の地下室から5階までを使用することにし、通信課を移転することになった。昭和20年5月1日から突貫工事を行い、新局舎での電信業務開始は、6月1日だった。

(2)広島電信局の設置
戦時下における電信の重要性が強まり、逓信省は、広島郵便局の1分課で運営していた電信業務の態勢強化を図ることにし、昭和20年8月1日、郵便局とは独立組織の「広島電信局」を設置した。

(3)広島電信局概要
 1)電信局の組織は、局長以下、受付配達課、通信課、庶務課の3課とし、ほかに6か所の分室(道営通信広島支局内分室<中国新聞社内>、陸軍無線通信所内分室<宇品町陸軍輸送部内>など。)を抱えていた。
 
 また、本局舎罹災に備え、鉄筋コンクリー7階建の八丁掘福屋百貨店の地下1階、2階の一部を電信電話措置局とし、重要な電信電話施設の空襲時対策のため、軍関係回線、重要加入者及び市外回線の新設、移転、接続等が行われた。電信施設としては、この建物に重要回線16回線を収容した。

 2)職員状況は、業員から海外派遣13名、応召者120名を出していたほか、6カ所の分局及び西部軍司令部への通信要員派遣等により、要員事情は極めて逼迫し、自局の自動通信有技者は毎日2名ないし4名を配置し得るに過ぎず、印刷通信、検査要員は無技者を応急訓練して充当する状態にあった。

この逼迫した要員事情救済に、動員学徒として本川小学校高等科男子学童13名(10名は外勤、3名は運信要員に充当)及び安佐郡祇園女学校生徒20名(電話通信、運信、電話託送受付要員に充当)の33名のほか、逓信管理練習所実習生6名の応援を受け、辛うじて電信そ通の確保を図り得るほどだった。

被災直前の現在員数は、受付配達課(44名、)通信課(238名)、庶務課(14名)総数296名(学徒を含む)であった。

(4)業務概要
収容回線は自動2、印刷7、音響二重13、音響単信39、合計61回線で、1日の取扱数は28.000通に及んだ。

このような逼迫した要員事情だったので、宿直服務は午後8時から翌日午前8時まで仮眠の時間は殆どなく、通信のそ通に忙殺されていた。最優先取扱を要する防空通信(警報及び情報)は、平均2,000通に及んだ。防空通信は、警報同時送信装置により各局に同時通信送信されたが、臨時中継によるものが非常に多く、複雑で煩瑣な手続きを要した。このため一般公衆通信のそ通は極めて不良で、モールス現字紙そのままを郵送して來る等の例も少なくなく、遅延3,4日に及ぶ電報も稀ではない状況だった。

従業員は職場ごと義勇戦闘隊を編成して、滅私奉公の誓いの下に日々の仕事にあたっていた。局舎防護については、日々の業務運営の要員配置に困窮していたので、庶務課要員の一部及び夜勤者の中で交通事情で帰宅できない臨時宿泊者が、空襲警報下における対空監視その他の防護活動を担当していた。

◆2、被爆直前の状況

(1)前日の夕刻以降の服務
8月5日(日曜日)午後9時ごろ空襲警報発令に伴い、在局者中より屋上の対空監視要員を出し警戒し、その他全員は電報のそ通にあたった。
空襲警報発令と同時に一部幹部8名は、非常出勤した。当夜の非常出勤者と宿直配備は、次のとおりだった。

非番出勤者=8名(課長3、主幹2、主事3)、
夜勤者=12時帰り5名、局内に臨時宿泊し空襲警報解除まで警備にあたる。
宿直者=15名(主事1名、通信7名(男2、女5)、受配4名(内勤2、外勤2)、検査2名、電話係1名)

(2)当日朝の出勤状況
当日の出勤は平常どおりで、輪番服務者は午前7時及び午前8時出勤、宿直勤務者は午前8時に交代退局となっており、午前8時までの課別出勤者は、合計107名であった。    
通信課 70名(主幹1、主事6、課員44、学徒19)
受配課 27名(内勤9、外勤18)
庶務課 10名(課長1、主事2、課員6、学徒1)

上記のほか、午前8時に交替は終了したが、更衣あるいは休憩室等に在局していた宿泊者9名がいた。なお、学徒引率教官1名も出勤していた。


コメントを投稿