モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

<<精根つきて>> 田頭嘉雄氏の体験記

2016年08月01日 | 原爆
<<精根つきて>>
田頭嘉雄氏の体験記
6日の当日、私はいつものような服装で定刻10分前に出勤した。出勤後直ちに前夜の宿直の宮本広三技手から、昨夜の警報の取扱状況について報告を受けた。係長席で直立して対談していた。
珍しい静けさであった。軽い気持ちで宮本技手に「B29は今日は空襲には来ないだろう、君は早く帰ってユックリ休養しなさい」と冗談も交えて話し合っていた時、私の位置の西南方の上空で、丁度広島城天守閣のあたりでピカリと光った。光線の色は黄色で稲光のような型だったので、何の光だろうと思った。だがとにかく焼けつくような熱い火で顔が焼けるように感じ、次の瞬間頭が゙ボーとなって目の光が昏んで来たようだった。
間もなく大きな物音がしたようであった。そして同時に強い風に会ったようにでもあった。とにかく危険を感じたので、自席の下へもぐり込んで退避したようである。それからあとのことは一応記憶にない、
どのくらい時間差があったか、次に気がついた時には、自席より相当離れた他人の机のそばの硝子の破片の散乱した床の上に、身体をふせたまま倒れていた。左手をついて立とうしたが、胸が痛くて立てそうにないので、右手をついてたちあがろうとしたが、、右手は肩から自由がきかなかった。おかしいと思いつつも、床に両手をついてたちあがろうとしたが、どうしても両腕がきかないので右肩を見たら、」右肩から胸にかけ赤く染まっていた。赤インキをかぶったのかもしれないと思った。倒れたまま左手で右肩を撫でてみた。とこが硝子の破片が手に触った。そこで初めて空襲を受けたのではあるまいかということに気づいた。恐ろしくなり当たりを見廻すと、室内の机、,椅子などが、ところどころ山のように推積され、窓硝子はこっぱみじんに吹き飛んでいるし、人のうめき声はするし、スカートや上衣の衣切れが散乱していたので、益々恐ろしくなった来たので、倒れたたままで大声を張りあげて、救いを求めたように記憶しているが、そのうち精根つきたのか意識不明になったらしい。
後日、係員の鈴木玉次郎純の話によると、同時刻、隣室の放送監督室で勤務していて、被爆で戸棚の下敷きになったが、救いを求める私の声で、戸棚を押しのけて私の救助に取りかかった。階下に降りて同僚の乃美君と担架を持ってきたものの、私は仮死の状態で、体中硝子の破片が立っており、全身血染めの私を、担架に乗せるか迷ったらしい。ところが担架に乗せることができず、両足の靴を脱がせ、血のついてない足先を2人が片足づつ引きづって、南階段から下まで引っ張り下ろしたそうである。

私の記憶がハッキリしているのは、2人が玄関前の道路に私を寝かせ、「医者を連れてくる」と立ち去ったとき、通りかかった軍服を着た人が私を見て、「君はけい動脈を切っている。ここで寝ていたのでは死んでしまう」と病院から古い布団を運んできて、それを靴でけ破って中身の綿を取り出し、血止めをしてくれた。そして、「君は出血は多いが、傷は浅く命く、命に別状はない。ここにいては、火が回ってくるかもしれないから立ってここを逃げろ」と言ってくれた。1里ほどのところに自宅があると言うと、風が北から吹いているから、それを利用して自宅に帰るようにすすめてくれた。

頭の傷が痛みだして、目まいがし、足がふらついてきたが、ここで死んでは駄目だと思い、火に追われるようして、わが家に向かった。途中で材木の下敷きになった3歳くらいの男の児がいて、助けようとしたが、頭の傷の痛みで力が入らずどうすることも出来なかなった。
長寿園の堤防に出て、長い太田川の鉄橋を渡り、全身の疲労がはげしく何度か倒れそうになりながら、相当時間がかかってようやく家にたどりついた。そして子供が無事だと聞いた時、気がゆるんだのだろうか、その場に倒れ、叉々意識を失ってしまった。(広島駅前電報局長、当時逓信局業務部無線係長)

◆後記
本体験記の出典は、{広島原爆誌(中国電気通信局昭和30.8.6)」(P225)によった。

原爆という人類の悲劇に、同じ職場、同じ時刻に遭遇し、生きながらえ、当時同じ職場の一角で、話中の2人がその体験記を残されていることは、奇跡とか言いようがない。

二つの手記の作成時期を、手記内容、発表年から推定すると、広田氏のは昭和50年以降、今回の田頭氏のものは昭和30年以前、と推定される。互いがそれぞれの体験記を読んで、その体験記を書いたとは思えない。

体験記の内容を読み比べると、被爆による事務室の破壊の様子、その後の逓信局庁舎からの脱出の様子等はほぼ一致している。被爆直前の2人が交わした会話、そのときの様子については、両者に違いがある。
被爆時の相手方の負傷については係長は書いてないが、宮本氏は「係長の負傷は頭の先にケガをしただけ」とある。ところが、係長も、この体験記のように重症を負ったと書いてている。
職場復帰時期について、宮本氏は両人の復帰時期を書いているが、田頭氏は言及していない、という違いがある。

これらの相違点にかかわらず、それぞれの体験記の価値は限りなく尊く、確かなものに思える。なにより、対談中の両人が、同じ瞬間に、全く同位置で原爆に遭遇し、重症を負い、その後の後遺症、原爆症に悩まされながら人生を立派に全うされたに違いないと追悼する。




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