モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

終戦戦後の大分電報と私(その1)

2016年10月22日 | 寄稿


◆寄稿 高野 明

1.逓信講習所卒業から赴任まで

昭和20年3月戦局は日ごとに急迫、米機動部隊による戦艦機の空襲が激化するなか、あわただしくも悲壮なおもいで熊本逓信講習所(高等科)の卒業式は行われた。広瀬所長、松岡教官等の激励と慈愛あふれるお言葉をいただき、同窓生各人の武運を誓い合ってそれぞれの任地へ旅立って行った。

大分県南出身の私と岡崎、仲野君の3人は豊肥線経由で故郷に帰るため大分駅へ向かった。大分駅が近付くにつれ異様な雰囲気が車内に漂いはじめる。乗客同士の話は、昨日戦艦機の空襲を受けた生々しい恐怖の話である。夕やみせまる頃大分駅到着。駅員の案内では、今夜は幸崎以遠の列車は運行しないとのこと。

3人で協議した結果、出身局が佐賀関であった仲野君が幸崎まで行こうと言うので従うことにし、日豊線に乗った。汽車は空襲を警戒、全てのブラインドは下ろされ、消灯し車内は真暗闇、車外も見えず語る人もなく、ただ黙々と座るのみ。不安のなかに終点幸崎駅へ到着した。

車外に出て異様な光景に驚く。直撃弾を受けたのであろうか、駅舎は跡形もなく、ホームはじめ駅舎の周辺は随分破壊され、爆撃のものすごさを目前にする。幸崎郵便局を3名で訪ね事情を説明し一夜の宿をお願いする。局長はまだ在勤中であったが、暫くして局長宅へということで、局員に案内され局長宅に行く。物資欠乏の折、我々のために夕食を準備してくださったのである。思いがけないご馳走に感謝しながらいただく。局長のお名前は稲生さんで、既に故人となられた方である。50数年も経過したあの日のことは、今なお忘れられない。改めて感謝し、謹んでご冥福をお祈りします。

その晩は、局員に連れられ郵便局にもどり、灯火管制下の暗い宿直室で安心感と疲労のためすぐ眠りについたことは言うまでもない。ところが深夜局員の起こす声で目を覚ます。
門司からの鹿児島夜行便が通るので、今から逓送に行くから同行するようにとのこと。急ぎ駅へ行き夜行列車に乗車した。昨日熊本を出発し、二日目にして故郷佐伯の地を踏むことができたのであった。

わが家に帰ってからも話は戦局が重大な局面に来ていること、航空隊の飛行場がある佐伯は攻撃目標とされ毎日艦載機が来襲、機銃掃射をするので日中は農作業もおもうようにできないとのこと。従って列車もいつ不通になるかわからないので一日も早く大分局へ赴任するように父母にすすめられる。夜が明けると艦載機が来襲するとのことで帰宅翌日の夜明け前、さしむき必要な物のみ持ち、佐伯駅始発列車で無事大分局へ赴任することができた。課長は木村さん、局長室へ案内され、藤井重寿局長から辞令をいただく。着任早々から終戦まで空襲の明け暮れの生活が続くのである。

2.逼迫する職場

戦争の激化に伴い先輩方は次々と召集され、銃後を守る職員もまた毎日が戦場であった。昼夜をわかたぬ空襲、24時間体制の通信作業、特に空襲警報の伝送、優秀な職員不在となったあとの穴埋め、疎通対策等、当時の課長・主査のご苦労は大変であったと思う。
赴任当初は空襲警報が発令されると責任者はロッカーで囲んだ場所に一時避難して警報の伝達にあたっていたが、空襲が本格化するにつれ、生命の安全上、電車通りの防空壕へ避難するようになった。今から考えるとほんの気休め的な措置であり、よくもあんなことを考えたものだとぞっとする。

急迫する戦局は容赦なく職場にも深い影を落としてくる。次々と召集され職場を去る者、ついには後輩の人達も召集されるようになった。郷里では、一度除隊された兄も数カ月しないうちに二度目の召集を受けている。徴兵検査で甲種合格現役証書を交付されている私も明日はわが身と思っていた。召集令状は何故こないのかと疑問に思っているうちについに終戦を迎えた。

3.本土決戦と地下通信壕堀り

米機の空襲は大都市から地方都市へと拡大する一方、沖縄線も敗戦が色濃くなり、次は九州上陸本土決戦のうわさがささやかれるようになった。その頃、大分郵便局でも重要回線を地下壕へ移転、本土決戦に備えることとなった。正確な場所は定かでないが、私の記憶では大分逓信講習所近くの裏山だったと思う。現場責任者は若手主事の日野さんだった。電信科の若者が毎日何名ずつか割当を受け作業に行った。当時を考えると多分韓国出身の労働者だったであろうか、地下壕の奥深く薄暗いカンテラを頼りに黙々と掘り進み、出た土砂を我々がトロッコに積込み壕の外へ運搬した。作業は肉体労働で腹は空き、かなりきつかったが精神的には空襲の心配はなく安住の地であった。しかし、その地下壕も完成しないまま終戦となった。誰の発案であのような事業が計画されたのか。終戦とともに忘れ去られ、その後訪れる人も語る人もなく、歴史の上からも消え去ろとしている。

◆寄稿者紹介
・出典 九州逓友同窓会誌「相親」1999年11・12月号
・寄稿者 高野 明 大分県
 大分逓信講習所普通電信科 昭17年卒 大正15年生れ 
・寄稿者高野さんの連絡先は、大分の友人中川氏が、大分電報の先輩に照会するなどしていただき判明した。筆者ご本人は、お生れが大正なので電話でお話しができるか危惧したのですが、驚いたことに実にかくしゃくお元気そうなお話しぶりでした。本寄稿文を書かれた当時のことなどを懐かしげにお話され、ブログ掲載を心よくご承諾いただいた。


1 コメント

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Unknown (nakao)
2016-10-30 18:26:32
懐かしくブログを読ませていただいています。
次が楽しみです。

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