モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

終戦前後の大分電報と私(その2)

2016年11月02日 | 寄稿
◆高野 明

・空襲対策と電信課トキハ移転

米軍の宣伝ビラによれば「日本よい国桜の国4月5月は灰の国・・・・・」このような文句であったと思う。空襲は無差別というか大都市を焼土とした後は地方都市も攻撃目標とされるようになり、大分市も何時やられるか戦々恐々とした毎日であった。そのような背景の中で急遽トキハデパートへ移転することとなった。大分市内で鉄筋コンクリート造りの建物はトキハ、市役所、日銀、勧銀等指折り数えるしかなかった。

昭和20年7月16日月曜日、曇、のち午後雨であったと記憶している。朝から蒸し暑い日であった。「今日は雲が厚いので空襲はなかろう」等冗談を飛ばし合いながら郵便局の2階の電信課からトキハまで軽い物品は人手で、大きい物品は大八車で電車通りを往復した。午後3時頃であったと思う。激しくはないが雨となった。通信機器の大半は運搬を終り、机、式紙、毛布等付随的な物品のみが残ったので作業は中止、休憩室で待機していたが雨が止まないので、当日の作業は打切られた。私は日勤であったので夕方通用門を出たが、それが大分郵便局舎との最後の日となたのである。

・大分大空襲と大分電報焼け残れり

7月16日の夜は蒸し暑く寝苦しい夜であった。下宿の2階で同宿の学生と蚊帳の中で雑談をしていると空襲警報発令、直後にB29の爆音、それも何時もとは違い低空の様子。直感的に学生に「起きろ今夜はやられる」と言うや否や土砂降りの大雨が降るようにザーと何かが落下してきた。爆弾ではなく焼夷弾攻撃だ。市内いたる所に火の手が次々に上がり、同時に照明弾も落とされ真昼のようだ。下宿の周辺にも落下、火の手が上がる。幸にもわが下宿には落下しなかったので近所に住む兵隊、学生等と力を合わせ濡れ筵、火打棒等で近辺に落下した焼夷弾を消火、延焼を食い止めることができた。

敵機も去り下宿の安全も確認できたので職場が気になり、まだ燃えている市内を職場へ急ぐ。鉄筋の電話分局はポツンと焼け残っている。奮闘したのであろう人影は見えないが消火ホースが玄関前に放置されている。昨日までの職場、郵便局は跡形もなく焼失している。大分銀行本店は赤レンガの外郭のみをとどめている。昨日引越したトキハは猛火の中に雄然と残っている。昨日引越しをしてなかったら郵便局もろとも通信機器をはじめ何一つ残さず消失していてしまったであろう。危機一髪、不幸中の幸いであった。
大空襲以後、市街地を焼失した大分市は、航空隊、航空蔽等軍設備に対する空襲が繰り返されたが、その中の一発が受付の窓ガラスを破り室内で炸裂、職員が消火したのが最後であり、やがて終戦を迎えたのである。

・終戦当日の大分電報
8月15日朝からよく晴れた暑い日であった。「正午重大放送があるので大分銀行裏庭へ集合するように」と周知を受けた。職場では「いよいよ最後の突撃だ。頑張るように発破をかける放送だろう」と元気のよい意見。「新型爆弾が次々に落ちるし、ソ連も参戦した。これ以上戦っても駄目だ。おそらく戦争を止める放送だろう。早めに飯を喰っとらんと放送を聞いたら飯がのどを通らんぞ」という弱気な意見等々。そういえば昨日、今まで見たことのない百機を超えたであろうB29の大編隊が北上して行った。今日は珍しく一度も警報が発令されず、不気味なくらいに異常である。何か起こったのであろうか。

いよいよ正午、大分銀行の裏庭へ集合。ガアーガアーという雑音の合間から玉音放送を聞き取ることができた。放送が終わると同時に誰の口からともなく「戦争に負けた」「戦争が終わった」と力なく重い足どりで職場に引き上げた。放送後、電車通りも人影はなく職場の中も放心したように重苦しい空気が漂い、長く暑い1日であった。

・終戦日余話、最後の特攻隊
重苦しい空気が漂う市内。街のあちらこちらでささやかれる会話、航空隊で何か異常事態が発生しているらしい。「責任者が自決したらしい」「沖縄へ突込んだらしい」。しかし確たることは不明のままであった。その後の文献、史実等によれば次のことが判明しているので参考までに要点のみを述べます。

昭和20年8月15日午後4時30分、玉音放送が流れた後、大分航空隊から宇垣中将を先頭に11機22名が沖縄に向けて飛び立ったのである。大分県人は津久見市出身の中津留大尉ただ1人である。宇垣中将を除けば弱冠19歳から24歳のほぼ私と同年配の方々である。

玉音放送が流れた後、なぜ出撃したのか。いろいろ思いを馳せるとき涙が流れる。心からご冥福をお祈りする。大洲総合運動公園の一角に「神風特別攻撃隊発進之地」の碑が静かに建っている。

・終戦と至急官報大量発信
終戦直後の某日、航空隊の当番兵が窓口に見え、風呂敷包みをおもむろに開き電報発信を依頼した。模造紙にガリ板ずりの同文電報である。内容は航空隊勤務の兵がそれぞれの郷里に帰ったので帰隊をうながす命令電報であったと思う。北は樺太から南は台湾まで、朝鮮、満州宛もあり、これをすべて至急官報で発信して欲しいとの申し出。樺太、満州等にはソ連軍が侵入し通信の途がない。その他の地域でも到着する見込みのない所もある旨説明したが、とにかく隊を出た者にはすべて発信することとなっているので是非引き受けてくれと要請された。「発信人危険負担」の扱いですべてを受付けた。

正確な通数の記憶はないが一括発信でこのように大量の至急官報を取扱ったのは最初で最後であった。通信担当で受付の出来る者が動員され手分けして短時間で受付作業を終了した。その後、あの電報が何処でどうなったか、何通受取人の手に届いたか、終戦直後の混乱時のため不明である。(つづく)




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