◆米山 洋三
私は、今から67年前の昭和25年、東京電気通信学園(普通部電信科)に入学、モールス音響通信の訓練受け26年2月に卒業しました。卒業のときに開かれた通信競技会で、二人組音響通信の部で優勝したためか、配属先は東京中央電報局第1通信部・第2通信課でした。この課は、上野駅とか新宿駅などモールス音響通信の繁忙回線を受け持つセクションでした。
卒業直前の通信技能検定試験では、1分間の送受信能力85字と判定され、モールス音響通信1級の資格を得ました。このため自信をもって現場に着任したのですが、実際の通信では、1分間120字の通信速度が当たり前の技能として要求されました。もたもたしているとすぐ「ヘボカワレ、ヘボカワレ」とやられてしまいます。だから必死になって受信に集中していました。
しかし、そのようなスピードの通信でも、しょせん人手に頼る通信でしたから現在の進歩した技術にくらべれば、雲泥の差があったと言わざるを得ません。今なら小学生でも「〇〇時〇〇分の電車で帰る」と携帯電話でメールを送るでしょう。かつての「チチキトクスグカエレ」等という電報の使命は、40年前電話の自動即時化・完全充足が完了した時点で終わってしまいました。それでもインターネット通信が普及するまで電報は有用だったのですが、今はもう利用は慶弔電報オンリーになってしまいました。
明治初期から昭和30年代まで、国の通信インフラの役割を果たした電報も中継機械化・FAX・加入電信が導入され、技術革新と共にその運営形態も革命的に変わりました。長期にわたり、電信局(電報局)およびすべての郵便局は、電報の受付、配達業務を取り扱っていましたが、今は全廃されてしまいました。電報の利用が減少していた昭和45年頃の電電公社には、電報局職員だけでも、局内勤務者13,000名、電報配達者8、000名もいましたが、今はすべて外部委託となっています。
政治も経済も文化も急速な変貌を遂げ、これを支える通信インフラも発展し、まったくさま替わりしました。家庭、個人の通信手段にしても、一家に1台の固定電話から、一人1台の携帯電話、スマホ時代となりました。テレビにしても出始めは力道山が空手チョップで聴衆を沸かせていました。新橋駅前の野外広場に設置されたテレビには群衆が釘付けになっていました。今はもう光テレビの普及により、自宅で100チャンネルも選択可能となるとか、あらゆるカテゴリのドラマ等も観放題の時代になりつつあり、その進化はすさまじい勢いです。
経済面にしても激しく変貌しつつあります。最近読んだ経済学者の竹中平蔵さんは、近著「世界大変動と日本の復活」(講談社平成28年10月発行)の中で、国家戦略特区・コンセッション等のイノベーションを続けるべきだと言っておられます。著者は、対策もないままアベノミクス批判を繰り返す一部野党やメディアこそが問題だとも言っておられます。私たち老人には、一体どちら側が的をえた主張か、この問題だけでなく、年齢と共に判断に戸惑うことが多くなってきました。
さりとて、これまで経験したことのない新しい時代を生きる老人として、変化・変革を頭から毛嫌いしないで、これに対応する気持ちだけは持ちたいものです。そして、少しでも元気に生きるよう健康に留意し、若い人たちの世話にならず衣食住や身のまわりのことは自分で処理したいと考えながら暮らしている今日この頃です。
◆寄稿者紹介など
・米山 洋三 栃木県 昭和7年生れ
東京電気通信学園 普通部電信科 昭和26年卒
・米山さんは、本寄稿の冒頭にお書きのように、東京学園卒後に東京中央電報局に配属された。その後は電電公社本社に転勤され、全国の電信サービスの総元締め運用局電信課に昭和33年から2度、通算11年間勤務された方です。その時の経験を関東電友会会報(平成24年8月)に「電信課回想」として投稿されています。これを読み、電話で寄稿をお願いしたところ、今回の貴重な経験をメールでお寄せいただきました。
「電信課回想」によれば、当時の電電公社は電信事業の抜本的見直しを行っていた時期で、各種の電信事業合理化施策(中継交換改式、加入電信開始、電報配達区域の再編成、バイク導入など)を矢継ぎ早に推進しており、職場は「テンヤワンヤ」だったようです。昭和45年に発表された、当時2万人の電報要員を民間委託等によりエンドレスに削減するという壮大な計画「電報業務運営の再編成」の作成にも携わられています。モールス音響通信がまだ健在だった頃に現場で優秀な通信技能を発揮された通信士が、その後本社に転勤、今度は自らが、明治初期から通信の主役だった電報の座を電話に明け渡す仕事に携わられたわけです。
その稀有な経験を、ここにご紹介することは、通信経験者の一人として感慨を禁じえません。(増田)
◆年末ご挨拶~ブログ管理人◆
今年は、本寄稿の掲載をもって打ち止めといたします。皆さまのご協力により、年末までぶじブログ継続ができ、また多くの皆さまに訪問いただき感謝しております。皆さまのご健勝・平安を心から祈念し、今後ともよろしくお願い申しあげます。
私は、今から67年前の昭和25年、東京電気通信学園(普通部電信科)に入学、モールス音響通信の訓練受け26年2月に卒業しました。卒業のときに開かれた通信競技会で、二人組音響通信の部で優勝したためか、配属先は東京中央電報局第1通信部・第2通信課でした。この課は、上野駅とか新宿駅などモールス音響通信の繁忙回線を受け持つセクションでした。
卒業直前の通信技能検定試験では、1分間の送受信能力85字と判定され、モールス音響通信1級の資格を得ました。このため自信をもって現場に着任したのですが、実際の通信では、1分間120字の通信速度が当たり前の技能として要求されました。もたもたしているとすぐ「ヘボカワレ、ヘボカワレ」とやられてしまいます。だから必死になって受信に集中していました。
しかし、そのようなスピードの通信でも、しょせん人手に頼る通信でしたから現在の進歩した技術にくらべれば、雲泥の差があったと言わざるを得ません。今なら小学生でも「〇〇時〇〇分の電車で帰る」と携帯電話でメールを送るでしょう。かつての「チチキトクスグカエレ」等という電報の使命は、40年前電話の自動即時化・完全充足が完了した時点で終わってしまいました。それでもインターネット通信が普及するまで電報は有用だったのですが、今はもう利用は慶弔電報オンリーになってしまいました。
明治初期から昭和30年代まで、国の通信インフラの役割を果たした電報も中継機械化・FAX・加入電信が導入され、技術革新と共にその運営形態も革命的に変わりました。長期にわたり、電信局(電報局)およびすべての郵便局は、電報の受付、配達業務を取り扱っていましたが、今は全廃されてしまいました。電報の利用が減少していた昭和45年頃の電電公社には、電報局職員だけでも、局内勤務者13,000名、電報配達者8、000名もいましたが、今はすべて外部委託となっています。
政治も経済も文化も急速な変貌を遂げ、これを支える通信インフラも発展し、まったくさま替わりしました。家庭、個人の通信手段にしても、一家に1台の固定電話から、一人1台の携帯電話、スマホ時代となりました。テレビにしても出始めは力道山が空手チョップで聴衆を沸かせていました。新橋駅前の野外広場に設置されたテレビには群衆が釘付けになっていました。今はもう光テレビの普及により、自宅で100チャンネルも選択可能となるとか、あらゆるカテゴリのドラマ等も観放題の時代になりつつあり、その進化はすさまじい勢いです。
経済面にしても激しく変貌しつつあります。最近読んだ経済学者の竹中平蔵さんは、近著「世界大変動と日本の復活」(講談社平成28年10月発行)の中で、国家戦略特区・コンセッション等のイノベーションを続けるべきだと言っておられます。著者は、対策もないままアベノミクス批判を繰り返す一部野党やメディアこそが問題だとも言っておられます。私たち老人には、一体どちら側が的をえた主張か、この問題だけでなく、年齢と共に判断に戸惑うことが多くなってきました。
さりとて、これまで経験したことのない新しい時代を生きる老人として、変化・変革を頭から毛嫌いしないで、これに対応する気持ちだけは持ちたいものです。そして、少しでも元気に生きるよう健康に留意し、若い人たちの世話にならず衣食住や身のまわりのことは自分で処理したいと考えながら暮らしている今日この頃です。
◆寄稿者紹介など
・米山 洋三 栃木県 昭和7年生れ
東京電気通信学園 普通部電信科 昭和26年卒
・米山さんは、本寄稿の冒頭にお書きのように、東京学園卒後に東京中央電報局に配属された。その後は電電公社本社に転勤され、全国の電信サービスの総元締め運用局電信課に昭和33年から2度、通算11年間勤務された方です。その時の経験を関東電友会会報(平成24年8月)に「電信課回想」として投稿されています。これを読み、電話で寄稿をお願いしたところ、今回の貴重な経験をメールでお寄せいただきました。
「電信課回想」によれば、当時の電電公社は電信事業の抜本的見直しを行っていた時期で、各種の電信事業合理化施策(中継交換改式、加入電信開始、電報配達区域の再編成、バイク導入など)を矢継ぎ早に推進しており、職場は「テンヤワンヤ」だったようです。昭和45年に発表された、当時2万人の電報要員を民間委託等によりエンドレスに削減するという壮大な計画「電報業務運営の再編成」の作成にも携わられています。モールス音響通信がまだ健在だった頃に現場で優秀な通信技能を発揮された通信士が、その後本社に転勤、今度は自らが、明治初期から通信の主役だった電報の座を電話に明け渡す仕事に携わられたわけです。
その稀有な経験を、ここにご紹介することは、通信経験者の一人として感慨を禁じえません。(増田)
◆年末ご挨拶~ブログ管理人◆
今年は、本寄稿の掲載をもって打ち止めといたします。皆さまのご協力により、年末までぶじブログ継続ができ、また多くの皆さまに訪問いただき感謝しております。皆さまのご健勝・平安を心から祈念し、今後ともよろしくお願い申しあげます。
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