モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

津久見局と電報のあれこれ(その1)

2017年01月14日 | 寄稿


◆高野 明

・津久見局赴任
昭和22年2月、春にはまだ早く冷雨にけぶる港町、津久見郵便局に赴任した。買出し客、近隣市町村からの通勤者等で満ち溢れる国鉄の日豊線津久見駅のホームに降り立った。昇降階段をひしきめき押し合い改札口を出て駅前広場に立ち、目的方向を見定め、市街中心部目ざし、街の様子を見ながら歩く。珍しく新築中の2階建ての大きな木造建築の建物が目を引く。後でわかったが、終戦直後物資の少ない折、九州では早期に着工した郵便局とのことである。

その前の通りを少し歩くと古ぼけた郵便局があり、モールス音響の音が聞こえてくる。入口の公衆溜まりに入ると裸電球が照らす薄暗い室内が見え、見るからに陰気。電報係は室内の片隅にあり、受付係に来局の旨を告げ、庶務課の局長室に案内される。局長は小倉さんという方であった。局内を一巡し挨拶。どの部屋も荒れはて廃屋一歩手前、雨漏りもするとのこと。早期着工の新局舎のことがうなずける。
かくして終戦直後から経済復興期へかけての津久見市での生活が始まった。

・タイプライター確保
終戦後の回復も徐々に始まり、通信の利用も増加の傾向にあった。津久見局への着信電報のほとんどは津久見市内へ配達する電報で、中継局はわずか数局だった。従って、配達電報の受信作業は、手書きで炭酸紙を使っての複写受信であり、大変な作業だった。※それに市内にある小野田セメント宛の電報は至急電報、照合電報の長文電報が多かった。
そこで、着任後第一に手がけたのは、この配達電報の受信作業の苦労を軽減するために、タイプライターを確保することだった。幸い前任地の大分電報の上司、先輩同僚には知人が多かったので、局状を話し、相談をしたところ、中古品だったが、タイプライター1台を保管転換してくれた。
※中継用の受信電報の作成は1部でよく、複写で2部(配達用と控え)作成を要する配達電報のほうが手間がかかった。
  

思えば大分大空襲の前日までにほとんどの物品をトキハデパートの仮局舎へ移転を済ませてしていたため難を逃れ、大分電報のその後の運用に支障がなかったことは、既に述べたとおりである。

その後1台のタイプライターでは故障等で支障が生ずることもあり、更に1台の増配備を上部機関に要望した。物資の少ないころだったが、この要望が認められ新品が配備されたときは係員一同で喜んだ。

昭和25年(1950)朝鮮戦争の勃発とともに市の生産品であるセメントの需要が急激に増え、船舶、殊に外航船の出入が多くなった。内欧電報に加えて船舶発着の国際無線電報の扱いも増加してきた。このため、更に1台のタイプライターの配備を上申したところ、予想以上の早さで新品のタイプライターが到着した。
タイプライターの操作訓練は、自局で行った。既修者もおり、若さと熱意で全員習得してくれ助かった。タイプライターの保守は大分電報局保守担当、石田さんが積極的に取り組み指導に当たってくれ、円滑な通信が出来たことを今も感謝している。

・9時間時差で大荒れ
朝鮮戦争が始まると海運業は慌ただしさを増してきた。立地条件のよい津久見港からは、セメント、石炭製品の積み出しが盛況をきわめた。内航船だけでなく外航船の出入りも日を追って多くなり、内国欧文電報のみでなく外国船舶の国際無線電報も取り扱うようになった。外航船入国の際は事前に門司または大阪から船舶会社、商社関係のベテラン社員が出張して来て、円滑な取り扱いをしていて、電報に関するトラブルはなかった。

ところが予期せぬ事態が発生した。郵便局の貯金保険窓口が開いて間もなく、お客で混雑している公衆溜まりの玄関戸を力まかせに押し開けてお客が入ってきた。
「コリャーわがどん(お前達)は何をしとるんか。俺んとこの会社をつぶす気か。」
と大声を上げながら一番奥の電報受付をめがけてやって来た。そして、電報受付のカウンターを力まかせに叩き、
「この責任は誰がとるんだ。局長はいるか。」
その形相のすさまじさ。A社の御曹司である。心底から怒っており、ただごとではないと直感する。顔面蒼白、まさに怒髪天をつくとはこのような形相か。受付係はその勢いに圧倒され、急ぎ私の席にやってきて、言葉には出さぬが、顔は私の対応を一刻も早くと言っている。

すぐ受付席に行き座った私は、彼のことはある程度聞き知っていたので、話を聞いた。彼の言い分は、「今頃電報が来ても荷役作業等間に合うわけがない。滞船料その他損害の賠償をすれば会社は潰れてしまう。責任は誰がとるのか。」要約すればそのようなことを強調している。

ころ合いを見て、先ず電報を見せてもらった。力まかせに握り、しわくちゃの電報の船舶受付時刻と当局受信時刻から時差を計算すると約20分そこそこの経過時間である。地元の海運会社は国際電報についての知識は皆無である。前に述べたように、外国船舶入港の際は、関係会社の専門職員が出張して来てすべての手続きをしていた。今回はどのような経緯かわからないが、地元海運会社が直接取引をすることになったようで、国際電報の知識がないのも無理はない。

怒りに燃えている彼に努めて平静に説明をした。
(1)この船は外国船である。従って電報の受付時間は、グリニッチ表標準時間を使用している。日本との時差は9時間である。(2)電報受付時間を日本時間にすると、当局までの経過時間は20分である。外国船からの電報は、大分無線局経由で当局着信となっており、決して遅延はしていない。(3)この時差9時間を勘案して、作業を進めるとよいのでは・・・

この説明に対し、彼は、
「き弁ではないな。お前の説明が本当なら時間は十分あり、作業にも支障はない。よくわかった。」
と冷静さを取り戻し、しわくちゃの電報を大事そうに持って、かたずをのんで見守っていた公衆溜まりのお客のなかを引き上げていった。

その後、荷役作業は順調に行ったのであろう。関係部門への出航の連絡電報の発信があったようだ。このようなことがあって、外国船舶及び日本外航路の出入がますます多くなり、それに伴い関係する官庁である税関、検閲所、出入国管理事務所や船舶関連企業の進出が目立ってきた。大分県南東部に位置する豊後水道に面する港町、津久見市の最盛期の幕開である。(つづく)
  
◆寄稿者紹介
・出典 九州逓友同窓会誌「相親」2001年9・10月号
・寄稿者 高野 明 大分県
 大分逓信講習所普通電信科 昭17年卒 大正15年生れ


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