モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

電信の思い出・東京中央電報局(2)(その4)

2016年05月25日 | 寄稿
◆寄稿 赤羽 弘道

東京央電報局(2)

昭和32年(1957)、業務部監査課長に任命され、東京中電で2回目の勤務をした。

東京中電は職員数2,000名を擁する日本最大の電報局で、局・次長の下に7部と庶務、会計等の6つの直轄課があった。業務部は、電報業務運行に関する企画管理部門で、監査、訓練等4課が置かれていた。

私が勤務した監査課の主な仕事は、電報の品質管理、つまり電報の誤字や不達の事故を調査してその防止を図ることだった。監査室にはモールス通信や電話通信をモニターするための設備があり、当時としては珍しく東京通信工業(現、ソニー)の録音機を5台も購入していた。

主要局間の基幹通信は印刷通信(テレタイプ)で行われていて、6単位符号が使われていた。監査担当者はこの6単位符号の孔の開いたテープを読んで電報原書と照合し、誤字の有無を調査していた。神経の疲れる仕事であった。

当時は戦後の混乱がまだ跡を引き、電報の誤字や不達によるお客様からの苦情が絶えなかったので、こうした申告事故を調査する係りも置かれていた。また、主任3人が1組となり宿直をして、前日1日間の全局の業務運行状況(取扱数、要員配置数、事故の有無)を、夜のうちにとりまとめ、これを翌日の朝一番に、監査課長が局長と次長に報告していた。

監査課では毎月通信各課の誤字の状況を取りまとめ、成績の良い課については局長表彰を行っていた。誤字率は1万字あたり3字とか5字とかいう数字であったが、各課の成績は月によって変動していた。この変動は調査文字数(標本数)の少ないことから起きる偶然的な変動もあり、一般的な品質管理の考え方を取り入れて判定することにした。このため数ヵ月をかけ、課員に統計学の標準偏差や品質管理の学習をさせ、準備期間を経て、表彰判定基準を改定し、算出された誤字率の合理的な評価を一歩前進させた。

着任して間もないころ、圭文館書店社長が来局し、電報の苦情申告の参考書の出版計画を持ち込んできた。
本社電信課の勧めもあったので、引き受けることにし、東京中電の苦情だけでなく、大阪中央電報局、電報電話相談所、全国の郵便局の事例なども加え一冊の本にまとめた。

題名は「苦情対応のこつ」とし、第1章で「事故恐るべし」として、いくつかの事故事例を掲げた。次はその一例である。

①結婚の日取りが決まった新婦に、その母親が「和服があるが、洋装とするか和服とするか、そちらの好きなようにせよ」と電報を打った。ところが、和服のワがフ間違えられ「不服ある」として配達された。驚いた娘は慌てて母親のところへ駆けつけ、委細が判明。
②「チチキタスグコイ」が「チチキトクスグコイ」と誤り、受取人は驚いて駆けつけたという話。
③就職の内定通知が不達となり、面接が受けられず、不採用となってしまったという深刻な事故。

これらはほんの一例であるが、電文の誤りに関する苦情が一番多く、不達や遅延に関するするものがこれに次いでいた。経済的な損害を与えたときは、電報料金の返還と料金の5倍以内の金額の賠償が電信法に規定されていた。この程度の金額では到底話にならないが、そこをなんとか了解して頂くには、誠意を尽くして対応する以外に方法がない。責任者が対応に当たることが大切で、私も何度となくお詫びに出かけた。

監査課長になって数ヵ月が経つと、お互いに気心が知れ、レクの行事もいろいろあって、職場は楽しいものになっていった。しかし、昭和33年、突然、本社電信課へ転勤することとなった。1年半足らずの短い勤務であったが充実した期間であった。 

◆寄稿者紹介
 電信の思い出(その1)参照。



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