◆赤羽 弘道
・学徒出陣
満20歳のときの昭和18年(1943)12月1日、学徒兵として金沢の東部第54部隊(第52師団通信隊)に入隊した(柱)。兵舎は、金沢城址の中にあった。第54師団はトラック島の守備を任務とし、通信隊は司令部と行をともにし、昭和19年1月にトラック島に上陸した。この時期、入隊の同日付けで師団通信隊の補充隊に転属となった私は、金沢で通信訓練を受けていた。
(注)昭和17年4月入学した逓信官吏練習所(訓練期間2年)を繰上げ卒業して学徒出陣した。
入隊した54部隊は、1つの兵舎に約250人が入っていた。学徒兵として入営した長野・石川・富山3県の初年兵は約70名。東京帝大を始め各大学、高等学校、専門学校の出身者だった。逓信官吏練習所関係者は私を含め8名だった。
入隊のとき着ていた物一切を脱いで、着ふるした軍服を支給され着替えた。着替えた衣類は小包にして生家へ送り返した。その後シャツやズボンなどのほか水筒、軍帽、披甲(防毒マスク)など軍隊生活に必要なものが支給された。外国語が嫌われ、シャツは襦袢〈じゅばん)、ズボンは袴下(こした)など、すべて和式の名称であった。
入隊の翌日から野獣の調教のような初年兵訓練が始まった。軍隊は人を殺し合う戦闘集団である。そのためには、強靭な肉体と剛毅不屈な精神力が必要とされた。そこには人格というものは必要でなく、むしろそれを蹂躙することから訓練は始まった。命令には絶対服従、厳正な規律と敬礼、機敏な動作、時間厳守、整理整頓、これらが軍隊生活の重要な規範であった。
起床ラッパで起こされ、直ちに営庭で点呼が始まった。終ると駆け戻り、寝台の整頓・洗面・朝食、8時から午後5時までの訓練が始まる。午後9時の点呼まで、夕食、入浴、洗濯、銃の手入れ、自習などをして就寝、10時の消灯ラッパで消灯となる。
夜の点呼のときには、明治天皇の勅諭(2,500字を越える長文)を1人1人名指しで暗唱の程度を試された。覚えていない者はこっぴどく叱られた。
各人に小銃が支給された。歩兵の持つ銃より30センチほど短い九九式短小銃で、騎兵銃ともいわれ、騎兵隊、通信隊、砲兵隊、輜重隊等が携行していた。点呼後、班長は銃の手入れ状況を検査し、手入れが悪いとビンタを取られ、不動の姿勢で「捧げ銃」を30分以上もさせられた。夜の点呼は憂鬱で、しつけ教育と称して、週番士官が去ったあとも班長から長々と注意があり、ビンタ、肘立て伏せ、捧げ銃を長時間やらされた。ビンタは私的制裁として禁止されていたが、表向きのことで、殴られないものはいなかった。
・通信訓練
通信の訓練は、通信兵操典と通信教範に基づきて行われた。
陸軍には典範令という言葉があり、作戦要務令、軍隊内務令、陸軍礼式令の3つがそれぞれの分野の基本原則を定めていた。そして作戦要務令の下に各兵科ごとに操典(通信兵操典・歩兵操典等)なるものが定められて、その下に教範(通信教範・射撃教範・馬術教範等)があった。
[通信兵操典 綱領]
第11 通信兵の本領は戦役の全期にわたり指揮統帥の脈絡を形成し、戦闘力統合の骨格となりもって全軍戦捷の途を拓くにあり。ゆえに通信兵は常に相互の意志を疎通し、特有の技術に成熟し周密にして機敏、耐忍にして沈着、進んで任務を遂行し全軍の犠牲たるべき気迫を堅持しもってその本領を完うせざるべからず。通信兵は常に兵器及び材料を尊重し、整備節用に勉め馬を愛護しまた特に防諜に留意すべし。(原文はカタカナ)
師団通信隊は、師団司令部と配下の連隊本部との通信連絡に当たる。通信には有線と無線があり、無線は2号甲無線機を使い、ブザー音のモールス通信を行っていた。この無線通信の訓練は、まずモールス符号の暗記から始まった。陸軍では合調音という方法で暗記をさせていた。これは、次の例のようにトンツーを言葉に置き換え、その意味から連想してモールス符号を覚えさせるのである。
通信教室で、助教の指導の下に、1字ずつ、皆大声を出して暗唱した。何日かして符号の暗記が終わると、受信の訓練や電鍵を使った送信の訓練に入った。軍の暗号電報は数字が使われていた。逓信省使用の数字のモールス符号は長くて能率が悪いので、次のような軍独特の数字のモールス符号が使われていて、もっぱらこれの訓練だった。
逓信講習所や国鉄教習所の出身者はモールス通信術にかけてはプロであり、教官助手より上手だったので、通信訓練には出席するに及ばすとして、他の使役に使われた。私は被服庫の中で何日か働いた。(つづく)
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒<詳しくは、2016-4-15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
・学徒出陣
満20歳のときの昭和18年(1943)12月1日、学徒兵として金沢の東部第54部隊(第52師団通信隊)に入隊した(柱)。兵舎は、金沢城址の中にあった。第54師団はトラック島の守備を任務とし、通信隊は司令部と行をともにし、昭和19年1月にトラック島に上陸した。この時期、入隊の同日付けで師団通信隊の補充隊に転属となった私は、金沢で通信訓練を受けていた。
(注)昭和17年4月入学した逓信官吏練習所(訓練期間2年)を繰上げ卒業して学徒出陣した。
入隊した54部隊は、1つの兵舎に約250人が入っていた。学徒兵として入営した長野・石川・富山3県の初年兵は約70名。東京帝大を始め各大学、高等学校、専門学校の出身者だった。逓信官吏練習所関係者は私を含め8名だった。
入隊のとき着ていた物一切を脱いで、着ふるした軍服を支給され着替えた。着替えた衣類は小包にして生家へ送り返した。その後シャツやズボンなどのほか水筒、軍帽、披甲(防毒マスク)など軍隊生活に必要なものが支給された。外国語が嫌われ、シャツは襦袢〈じゅばん)、ズボンは袴下(こした)など、すべて和式の名称であった。
入隊の翌日から野獣の調教のような初年兵訓練が始まった。軍隊は人を殺し合う戦闘集団である。そのためには、強靭な肉体と剛毅不屈な精神力が必要とされた。そこには人格というものは必要でなく、むしろそれを蹂躙することから訓練は始まった。命令には絶対服従、厳正な規律と敬礼、機敏な動作、時間厳守、整理整頓、これらが軍隊生活の重要な規範であった。
起床ラッパで起こされ、直ちに営庭で点呼が始まった。終ると駆け戻り、寝台の整頓・洗面・朝食、8時から午後5時までの訓練が始まる。午後9時の点呼まで、夕食、入浴、洗濯、銃の手入れ、自習などをして就寝、10時の消灯ラッパで消灯となる。
夜の点呼のときには、明治天皇の勅諭(2,500字を越える長文)を1人1人名指しで暗唱の程度を試された。覚えていない者はこっぴどく叱られた。
各人に小銃が支給された。歩兵の持つ銃より30センチほど短い九九式短小銃で、騎兵銃ともいわれ、騎兵隊、通信隊、砲兵隊、輜重隊等が携行していた。点呼後、班長は銃の手入れ状況を検査し、手入れが悪いとビンタを取られ、不動の姿勢で「捧げ銃」を30分以上もさせられた。夜の点呼は憂鬱で、しつけ教育と称して、週番士官が去ったあとも班長から長々と注意があり、ビンタ、肘立て伏せ、捧げ銃を長時間やらされた。ビンタは私的制裁として禁止されていたが、表向きのことで、殴られないものはいなかった。
・通信訓練
通信の訓練は、通信兵操典と通信教範に基づきて行われた。
陸軍には典範令という言葉があり、作戦要務令、軍隊内務令、陸軍礼式令の3つがそれぞれの分野の基本原則を定めていた。そして作戦要務令の下に各兵科ごとに操典(通信兵操典・歩兵操典等)なるものが定められて、その下に教範(通信教範・射撃教範・馬術教範等)があった。
[通信兵操典 綱領]
第11 通信兵の本領は戦役の全期にわたり指揮統帥の脈絡を形成し、戦闘力統合の骨格となりもって全軍戦捷の途を拓くにあり。ゆえに通信兵は常に相互の意志を疎通し、特有の技術に成熟し周密にして機敏、耐忍にして沈着、進んで任務を遂行し全軍の犠牲たるべき気迫を堅持しもってその本領を完うせざるべからず。通信兵は常に兵器及び材料を尊重し、整備節用に勉め馬を愛護しまた特に防諜に留意すべし。(原文はカタカナ)
師団通信隊は、師団司令部と配下の連隊本部との通信連絡に当たる。通信には有線と無線があり、無線は2号甲無線機を使い、ブザー音のモールス通信を行っていた。この無線通信の訓練は、まずモールス符号の暗記から始まった。陸軍では合調音という方法で暗記をさせていた。これは、次の例のようにトンツーを言葉に置き換え、その意味から連想してモールス符号を覚えさせるのである。
イ ・― イトー(伊藤)
ロ ・―・― ロジョーホコー(路上歩行)
ハ ―・・・ ハーモニカ(ハーモニカ)
ロ ・―・― ロジョーホコー(路上歩行)
ハ ―・・・ ハーモニカ(ハーモニカ)
通信教室で、助教の指導の下に、1字ずつ、皆大声を出して暗唱した。何日かして符号の暗記が終わると、受信の訓練や電鍵を使った送信の訓練に入った。軍の暗号電報は数字が使われていた。逓信省使用の数字のモールス符号は長くて能率が悪いので、次のような軍独特の数字のモールス符号が使われていて、もっぱらこれの訓練だった。
1(タ) 2(フ) 3(ラ) 4(ヨ) 5(イ) 6(ム) 7(ナ) 8(ヤ) 9(ク) 0(レ)
逓信講習所や国鉄教習所の出身者はモールス通信術にかけてはプロであり、教官助手より上手だったので、通信訓練には出席するに及ばすとして、他の使役に使われた。私は被服庫の中で何日か働いた。(つづく)
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒<詳しくは、2016-4-15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
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