モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

元通信書記補の原爆詠

2016年05月30日 | 寄稿・原爆
  
◆寄稿 中村 達見

米寿を迎えた前川明人さんが、昨年5月に第七歌集「曇天」を上梓された。

 ・昭和二十年六月二十日「任通信書記補月給五十円ヲ給ス」
 ・通信書記補に任官したるは十七歳長崎原爆の一か月半前

その頃私は国民学校一年生、長崎港外の炭鉱の島にいて原爆の衝撃波を体験した。この十七年後に、前川さんと出会いがあった。

 ・昭和二十年八月九日七時出勤晴天だった
 ・八月九日。木曜日晴天、十一時二分局舎半壊、脱出、全焼

前川さんが奉職した長崎本博多郵便局は、爆心地から南へ3Km、長崎県庁からの通り筋にあった。

 ・その熱度摂氏七,七〇〇度被爆死者ああ七万五〇〇〇人
 ・燃え落ちる局舎に向かって「敬礼!」と松本局長泣いて叫びき

この歌には、前川さんの次のようなコメントがある。
「長崎県庁から燃えはじめた猛火は、見る見るうちに近づいてきた。『局舎が危ない!』なんの防御も許さない劫火だった。局長が『もう駄目だ、みんなで局の最後をみとどけよう』と言ったので、重傷者をのぞく男子職員十四名が整列し、直立不動で炎上する局舎を凝視した。やがて屋根が落ち火の粉が天高く舞い上がった。局長が「敬礼!」と悲痛な声で叫んだ。留めどなく涙が頬を伝って流れた。任官したばかりの十七歳だった。この涙は今も忘れることができない。」(『歌壇』平27・8月号)

「局舎の最後を見とどけよう」と局長以下職員十四名が直立不動で敬礼をしている様はまさに当時の逓信省職員の率直な事業愛の姿であったのだと、その勇姿に新たな感動をおぼえた。

 ・電信機大八車に載せて運ぶとび込む火の粉はそのままにして
 ・電信機器を肩に担ぎて「避難先晧台寺」と告げひたすら走る
 ・突撃のための教練とはげみにし今、原爆の災中走る
 ・長崎の郵便発祥のこの局舎いま火の粉あげ落ちんとす
 ・晧台寺の庭よりあかあかと天焦し燃えいる長崎を夜徹し見き

有志を抱き奉職して二か月にも達していない十七歳の青年の目に記憶された映像は、七十年後の今も鮮明に流れていたのである。

 ・灰と瓦礫ばかりの局舎の焼けあとに幾千の赤とんぼ群れてとびいき
 ・通信任務遂行のわれの褒状が原爆資料館の一隅にあり

逓信関係者の被爆体験記は、他にも存在しているはずであるが、拝見したことがないので、あえて紹介した次第である。


◆寄稿者紹介
中村達見 長崎県 昭和13年生れ 昭41年郵政大学校第1回本科卒
出典;逓信同窓会誌WIND<2016春季号NO.320>投稿記事

◆付記
本稿は、逓信同窓会及びその会員誌WINDへの投稿者・中村さんの承諾を得て、寄稿のかたちで、本ブログに収録させていただきました。厚くお礼申し上げ、原爆体験を詠われた前川さんの短歌と、それを紹介してくださった中村さんの貴重な寄稿が多くの方の目に留まることを願っています。

通信関係者の原爆被害は、爆心地から380mの至近距離にあった広島電信局の場合、堅牢な局舎はかろうじて倒壊は免れたが、局舎内設備はすべて木っ端微塵に破壊され、当日朝の在局者117名のうち97名が犠牲となりました。
一方、「長崎電信局は、爆心地から距離が離れていたため、局舎は窓ガラス破損などの被害を受けた。このため、勤務中の職員にケガ人が出たが、命に別状はなかった。職員の家族については、不明である。」<川口寿男氏(元長崎電報局長)より。>

前川さんは、短歌の内容から想定するに、太平洋戦争中の昭和19年、長崎逓信講習所の電信科普通部に入学、長崎、佐賀県出身者と共に1年間の研修を受け、卒業後配属された長崎市内の郵便局にて、モールス音響通信に従事されたわれわれの先輩と思われます。半壊の局舎から電信機を持って脱出、よくぞ米寿を迎えられるまでお元気で生きられ、今も短歌に精進されておられるご様子、心からお喜びし、益々のご健勝をお祈りいたします。(2016/5/30 増田記)


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