モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

電信の思い出・東京中央電報局(1)(その3)

2016年05月13日 | 寄稿
◆寄稿 赤羽 弘道

東京中央電報局(1)

(まえがき)東京中央電報局(以下、東京中電という)は、わが国の最大の電報局で、地方の電報局の経験しかない私などには、遠い世界の存在に思えていた。著者の赤羽氏は、逓信省本省、電電公社本社の勤務が長かったが、戦地から復員直後の昭和21年と昭和32年、昭和44年の3 回、この東京中電に勤務され、その思い出を書いておられる。3回目に勤務した昭和44年当時は、電報の通信方式は、すでにモールス音響通信から印刷通信、加入電信へ移行していたので、前2回の思い出を紹介します。


昭和21年1月、中国大陸から復員後、休養もそこそこに上京した。電車から見た東京は、米軍の無差別攻撃により、見渡す限り一面の焼野が原になっていた。焼け跡には小さな小屋が立ち、焼け落ちたビルが寒々と立っていた。

東京中電の5階建てのビルは、幸いにも焼けずに残っていた。屋上や外壁は爆弾よけのコンクリートで固められた厳めしい姿に変わり、内部は4年にわたる戦争と敗戦で荒廃を極めていた。私は外信課の勤務となった。東京中電ビルには外信課のほか第1~第3内信課と監査課が入っていて、庶務課と受付配達課は別棟のバラックに入っていた。復員兵や引揚者を次々と受け入れたため、職員は2千名を超えていた。

外信課はビルの5階にあり、外国語の知識が必要だった。顔見知りが6名、すでに復員して働いていた。軍服や国民服、戦闘帽に軍靴というのが当時の職員の服装であった。通信回線は、モールス自動回線であったが故障が多く、床は汚れ、通信室は雑然としていた。寝室には虱(しらみ)が沸いていて、宿直の夜は通信室の事務机の上に眠る者もいた。

わが国の戦前の国際通信は、東京と大阪の2局が世界の主要国との間に回線を開通していたが、戦争勃発とともに次々と途絶してゆき、最後は東京~ジュネーブ1回線となっていた。スイスは中立国であり、このジュネーブ回線で戦後のボツダム宣言の受諾をはじめ重要電報が疎通されていた。

終戦後これらの途絶した国際通信は逐次回復し、私が復職した当時には、サンフランシスコ(RCA、MKY、PWの回線)、ストックホルムス、モスコー、ジュネーブ(後マニラ、バタビア)等が復旧していた。これらの回線で新聞電報や進駐軍の将兵が利用する外国電報が取り扱われていた。

当時はすべて無線通信で、送信電波は検見川と小山の送信所から送られ、受信電波は上福岡と岩槻の受信所で受けていた。

東京中電は、連合軍総司令部(GHQ)の管理下におかれていた。初めは憲兵(MP)が駐留していたが、昭和20年10月から連合軍駐留官室が設けられ、米軍将校が通信の検閲を行っていた。表門には連合軍の歩哨が立ち、時折、怪しげな女性が駐留軍室に出入りしていた。

一般の外国電報をオーディナリーといい、日本の至急電報並みの扱いをしていた。その他に書信電報というものがあり、進駐軍の将兵が利用するVLT(ビクトリー・レター・テレグラム)という電報や、例文の略号で書くEFM(エクスペディショナリー・フォース・メッセージ)という電報があった。国内電報に比べ割安の料金で、優先して取り扱われていた。

私は外信課の中で検査部の仕事をしていた。検査部は事故電報の処理と、宛名の州名を簡略化すること、たとえばNEWYORKを「NY」というように直すのが仕事であった。勤務は日勤・日勤・夜勤・宿直・宿明・週休という6輪番勤務であった。比較的余裕時間があり、勤務の合間に夜間大学に通学する者や、中には差し繰りして昼間の大学に通う者もいた。

住まいは、運よく焼け残った世田谷区にあった木造2階建ての独身寮で、約40人の寮生が入っていた。3人が同室だった。主食の配給は少なく、畳の部屋にコンロを持ち込んで闇米で雑炊を作り、何とか飢えを凌いでいた。戦後の食料難はさらにひどくなり、1日2合1勺に減らされていた。主食の遅配は20日を超え、小麦粉、藷、大豆、コーリャン、とうもろこし等が米に混ざって配給になっていた。弁当箱に詰めてもらった昼食の昼飯が、開けてみると半分ほどに片寄っていた。

小田急線の東北沢駅から神田駅まで通勤したが、電車はギュウギュウ詰めで、ガラス窓は破れたままであった。国電(JR)の先頭の車輌は進駐軍専用車として、昔の1等を示す白い帯が書かれており、蛇の頭のように見えた。

婦人参政権、労働組合の結成促進、教育の改革、専制政治の廃止、経済機構の民主化といういわゆる5大改革が、連合司令部によって、矢つぎ早に進められていた。

東京中電にも従業員組合が結成されていた。ある日、東京中央郵便局などの労働組合と連合し、賃上げと米よこせのデモが行われ、私も初めてそのデモに参加した。デモで歌われた労働歌はかつてよく歌った軍歌のメロディと同じであった。

そのころの東京の苦しい生活に耐えかねて、郷里が田舎の者は、それぞれ伝を求めて転勤していったが、私は東京にとどまった。戦地のことを思うと、この程度の苦労は耐えられないものではなかった。

東京中電に6ヵ月ほど勤務したとき、東村山の高等逓信講習所の厚生課に転勤することになった。

なお、昭和24年、国際電信電話株式会社(KDD)が設立されたとき、東京中電外信課はそっくり同社の東京国際電報局となった。

◆寄稿者紹介
 電信の思い出(その1)参照。




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