◆高野 明
・年賀電報のこと
戦争が終わり5年経過、世の中の暮らしも徐々に落ち着き、社交的なことも旧に復してきた25年12月に年賀電報の取り扱いが再開された。しかし庶民にとっては、まだまだ金額的にたやすく利用するまでにはなっていなかった。
年賀電報の募集にあたっては、主として企業を訪問し、お願いをした。そんなとき保戸島※郵便局では連日まとまった年賀電報が取り扱われていた。遠洋漁業に出ている船舶との間に交信されていたのである。船舶発着の通信手段としては無線電報以外に手段はないのである。これにヒントを得たわれわれは、入港中の外航船を訪問してみた。
港の小野田セメントの衛門は気安く通してくれた。岸壁に横づけの荷役中の外航船に近づくと乗船中の税関職員から尋問を受けた。当方も制服着用、通信室に電報のことで行く旨伝えると乗船を許可された。通信室に行き用件を伝えると歓待してくれた。航行中に乗組員、約50名が年賀電報を発信すると本来の船舶、気象等に関する通信作業に支障をきたす。従って、入港中に発信してもらえると大変助かるとのことで、事務長に相談に行ってくれる。事務長が協力的な人の場合は、船内放送をしてくれ、電報受付を食堂で行えるよう取り計らってもらえた。たまたま訪問した船舶が当港に直行した船で、荷役後すぐに出航し、正月を海上または外国で迎える船の場合は電報の受付数は多かった。しかし、他の港に寄港したり年内に内地へ帰ってくる船の場合、電報数は少なく、期待はずれだった。
そこで外航船の出入状況を事前にチエックし、見込みのありそうな船にはタイプライターを持参し2名で乗船した。事務長の放送を聞き続々と船員が来てくれると嬉しかった。当時貴重品であるコーヒー、タバコ(ピースの特性缶)を出してくれ、船内ならいくらでも飲んだりしてくれと勧められた。タバコは嫌いだったので手は出さなかったが。
年賀電報利用のお得意先は、外航船の乗組員のほかは、色町の女性たちであった。なけなしの財布をはたいて外航船の乗組員に発信してくれた。その胸中を思うと哀れであった。年末もおしせまった頃、ミカン卸業者宅も訪問した。多忙で賀状を書くヒマもないこと、ミカン取引では郵便局に世話になっているお礼にと、年賀電報をよく利用してもらった。
大みそか、送信転写もれはないか、翌朝の配達に支障はないか、すべてを点検確認して職場を出るときは既に年は新年に変わっていた。電報部門に在籍中は、毎年この繰り返しであった。
・津久見局を去ってからの思い出
昭和33年、私は津久見電報電話局の電話がダイヤル化(自動改式)した時期に電報部門を去った。その後、電話の仕事で職場を転々と歩いたなかで忘れられない電報の思い出がある。
(1)A局へ赴任したある夏の日、夜勤のため昼間自宅にいると局から電話があった。電報係長からだった。「外国宛の電報発信にお客がきている。初めてのことで誰も取扱い方法が分からない。貴男は電報の扱いに詳しいと聞いたので、すぐ来局を願えないか」とのこと。自転車で局へ駆けつけると、公衆溜まりのベンチに中年の男性が座っている。私が入室するや係長が男性を呼び依頼電報を出してもらった。手に取ってみると紙面一杯に漢字のら列であり、中国宛の電報だった。
まず係長に、このままでは送信できないので、漢字を数字に翻訳(変換)すること、そのためには「中国新編」という漢字を数字に変換するための対照表が必要であることを伝えた。ところが誰も「そのようなものを見たことがない。」と言う。各局には必ず1冊は配備されているはずと話し、探してもらった。暑い盛り汗びっしょりになってあちこち探しやっと鉄庫の隅に手つかずの真新しい冊子が見つかった。その冊子を見ながら、大急ぎで係長と二人がかりで翻訳した。後は、これを外国欧文電報に準じて取り扱えばよい旨説明し、無事に発信を終えた。係長からは大層感謝された。
(2)B局に在勤中にも同じようなことがあった。休日に電報係長から「韓国に電報を打ちたいと窓口にお客がきており、至急出局を願えないか」との電話があった。局へ行ってみると係長とお客が待っている。依頼の電報は、通信文は日本語だったが、韓国国内の宛先となっている。係長へ韓国関係の便覧提出を求めると、ここでも今まで使ったことのない真新しい便覧を鉄庫からを探しだし、持ってきた。
今まで韓国宛の電報は扱ったこともないし、戦後の学園訓練では、韓国宛電報の扱いを教えていなかったので、処理方法が分からぬのは無理からぬことである。韓国宛電報の扱いは、日本国内宛の取扱に準じて行えばよい。ポイントは便覧に従って、着信局を調べ記入する必要がある。便覧は道市郡邑里洞(都道府県市町村大字小字)と分類表示されているので、依頼電報に書かれている宛先から便覧の該当するところを見出し、着信局とすればよい、と説明した。この説明を理解した係長が便覧をめくっていると、お客も身を乗り出して便覧を覗いており、該当箇所を見つけ示すと、いかにも満足した様子で笑顔でうなずく。後は係長が所定のとおり着信局を記入し、発信した。
数時間後、係長から自宅に電話があった。お客が来局し、電報で用件が達せられ、私にもよろしくと挨拶があった、と伝えてきた。電報発信者は、短時間に韓国宛の電報が目的を果たしたことがよほど嬉しかったのだろう。それにしても義理難い韓国人であった。
電報部門を離れてから10数年、津久見局でのいろいろな経験が、このような形で役立つとは夢にも思っていなかった。
◆寄稿者紹介
・出典 九州逓友同窓会誌「相親」2002年1月号
・寄稿者 高野 明 大分県
大分逓信講習所普通電信科 昭17年卒 大正15年生れ
◆付記
本稿の原文は、簡潔に書かれていたため、私にはよく理解できないカ所があった。寄稿者の高野さんへは昨年秋電話、90歳を超されているにもかかわらず、大変かくしゃくとされ、博覧強記な方と承知していたので、今回も長電話をし、いろいろ教えていただいた。その結果、原文に若干の追加をし、分かりやすくすることも承諾いただきました。厚くお礼申しあげます。
・年賀電報のこと
戦争が終わり5年経過、世の中の暮らしも徐々に落ち着き、社交的なことも旧に復してきた25年12月に年賀電報の取り扱いが再開された。しかし庶民にとっては、まだまだ金額的にたやすく利用するまでにはなっていなかった。
年賀電報の募集にあたっては、主として企業を訪問し、お願いをした。そんなとき保戸島※郵便局では連日まとまった年賀電報が取り扱われていた。遠洋漁業に出ている船舶との間に交信されていたのである。船舶発着の通信手段としては無線電報以外に手段はないのである。これにヒントを得たわれわれは、入港中の外航船を訪問してみた。
※保戸島は津久見港の北東14Kmに位置する周囲4Kmの豊後水道に浮かぶ島。マグロ漁遠洋漁業基地(増田注記)
港の小野田セメントの衛門は気安く通してくれた。岸壁に横づけの荷役中の外航船に近づくと乗船中の税関職員から尋問を受けた。当方も制服着用、通信室に電報のことで行く旨伝えると乗船を許可された。通信室に行き用件を伝えると歓待してくれた。航行中に乗組員、約50名が年賀電報を発信すると本来の船舶、気象等に関する通信作業に支障をきたす。従って、入港中に発信してもらえると大変助かるとのことで、事務長に相談に行ってくれる。事務長が協力的な人の場合は、船内放送をしてくれ、電報受付を食堂で行えるよう取り計らってもらえた。たまたま訪問した船舶が当港に直行した船で、荷役後すぐに出航し、正月を海上または外国で迎える船の場合は電報の受付数は多かった。しかし、他の港に寄港したり年内に内地へ帰ってくる船の場合、電報数は少なく、期待はずれだった。
そこで外航船の出入状況を事前にチエックし、見込みのありそうな船にはタイプライターを持参し2名で乗船した。事務長の放送を聞き続々と船員が来てくれると嬉しかった。当時貴重品であるコーヒー、タバコ(ピースの特性缶)を出してくれ、船内ならいくらでも飲んだりしてくれと勧められた。タバコは嫌いだったので手は出さなかったが。
年賀電報利用のお得意先は、外航船の乗組員のほかは、色町の女性たちであった。なけなしの財布をはたいて外航船の乗組員に発信してくれた。その胸中を思うと哀れであった。年末もおしせまった頃、ミカン卸業者宅も訪問した。多忙で賀状を書くヒマもないこと、ミカン取引では郵便局に世話になっているお礼にと、年賀電報をよく利用してもらった。
大みそか、送信転写もれはないか、翌朝の配達に支障はないか、すべてを点検確認して職場を出るときは既に年は新年に変わっていた。電報部門に在籍中は、毎年この繰り返しであった。
・津久見局を去ってからの思い出
昭和33年、私は津久見電報電話局の電話がダイヤル化(自動改式)した時期に電報部門を去った。その後、電話の仕事で職場を転々と歩いたなかで忘れられない電報の思い出がある。
(1)A局へ赴任したある夏の日、夜勤のため昼間自宅にいると局から電話があった。電報係長からだった。「外国宛の電報発信にお客がきている。初めてのことで誰も取扱い方法が分からない。貴男は電報の扱いに詳しいと聞いたので、すぐ来局を願えないか」とのこと。自転車で局へ駆けつけると、公衆溜まりのベンチに中年の男性が座っている。私が入室するや係長が男性を呼び依頼電報を出してもらった。手に取ってみると紙面一杯に漢字のら列であり、中国宛の電報だった。
まず係長に、このままでは送信できないので、漢字を数字に翻訳(変換)すること、そのためには「中国新編」という漢字を数字に変換するための対照表が必要であることを伝えた。ところが誰も「そのようなものを見たことがない。」と言う。各局には必ず1冊は配備されているはずと話し、探してもらった。暑い盛り汗びっしょりになってあちこち探しやっと鉄庫の隅に手つかずの真新しい冊子が見つかった。その冊子を見ながら、大急ぎで係長と二人がかりで翻訳した。後は、これを外国欧文電報に準じて取り扱えばよい旨説明し、無事に発信を終えた。係長からは大層感謝された。
(2)B局に在勤中にも同じようなことがあった。休日に電報係長から「韓国に電報を打ちたいと窓口にお客がきており、至急出局を願えないか」との電話があった。局へ行ってみると係長とお客が待っている。依頼の電報は、通信文は日本語だったが、韓国国内の宛先となっている。係長へ韓国関係の便覧提出を求めると、ここでも今まで使ったことのない真新しい便覧を鉄庫からを探しだし、持ってきた。
今まで韓国宛の電報は扱ったこともないし、戦後の学園訓練では、韓国宛電報の扱いを教えていなかったので、処理方法が分からぬのは無理からぬことである。韓国宛電報の扱いは、日本国内宛の取扱に準じて行えばよい。ポイントは便覧に従って、着信局を調べ記入する必要がある。便覧は道市郡邑里洞(都道府県市町村大字小字)と分類表示されているので、依頼電報に書かれている宛先から便覧の該当するところを見出し、着信局とすればよい、と説明した。この説明を理解した係長が便覧をめくっていると、お客も身を乗り出して便覧を覗いており、該当箇所を見つけ示すと、いかにも満足した様子で笑顔でうなずく。後は係長が所定のとおり着信局を記入し、発信した。
数時間後、係長から自宅に電話があった。お客が来局し、電報で用件が達せられ、私にもよろしくと挨拶があった、と伝えてきた。電報発信者は、短時間に韓国宛の電報が目的を果たしたことがよほど嬉しかったのだろう。それにしても義理難い韓国人であった。
電報部門を離れてから10数年、津久見局でのいろいろな経験が、このような形で役立つとは夢にも思っていなかった。
◆寄稿者紹介
・出典 九州逓友同窓会誌「相親」2002年1月号
・寄稿者 高野 明 大分県
大分逓信講習所普通電信科 昭17年卒 大正15年生れ
◆付記
本稿の原文は、簡潔に書かれていたため、私にはよく理解できないカ所があった。寄稿者の高野さんへは昨年秋電話、90歳を超されているにもかかわらず、大変かくしゃくとされ、博覧強記な方と承知していたので、今回も長電話をし、いろいろ教えていただいた。その結果、原文に若干の追加をし、分かりやすくすることも承諾いただきました。厚くお礼申しあげます。
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