モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

電信柱(バシラ)とモールス通信

2016年02月01日 | 寄稿
◆寄稿 樋口 実



アメリカ西部劇映画のDVDの中ではよく見られる情景だが、木材を燃料とする古い蒸気機関車の線路沿いに立つ木柱に張られた銅線を、馬に乗った盗賊団がナイフで切断したり、駅舎の片隅で通信電報を送っている人間もろとも、殺害破壊したりする。

あの場面で、駅員が操作している通信機械が、モールス通信機である。

わが国では、明治維新後に、新橋~横浜間に蒸気機関車の線路が布設された。その時期と前後して、傍らの電柱に銅線を張りわたして、車両の運転情報とともに乗客のための電報サービスも行われたそうであるが、これ以来、街中に立つ電気関係の柱は、電力の配電用も含め、一括して「電信バシラ」と総称するのが定着したようである。

各種の小説その他の文書を見ても、「電力柱」などと表現する文例は先ず無く、殆どが「電信柱」である。その後暫くして電話機が発明され、電話網が形成されて行くが、いずれも「電信柱」の表現は変わらない。

それほどに、明治におけるモールス通信による電信文明は、わが国民にとって衝撃的であったのであろう。当時は、電信線の下をくぐるのさえ庶民からは敬遠された、との話さえ残る。

確かに、江戸幕府時代に制度化され、それまでの人馬による郵便制度に比べれば、電信は革命的な速報性を持つ技術であった。加えて、原理が簡単であったことに特徴があった。

冒頭の西部劇のように、銅線を空中に張って端末に電源を繋げれば、送信機の手指の操作によって電気信号を相手に送ることが出来る。この電気信号が、発明者の名をとって、「モールス信号」といわれた。

この信号は、電流の短点トン(・)と長音ツー(-)の」組合せで、アルファベット或いは、イロハ48文字等を表現することになる。

私が小学校入学前後[昭和18年頃]には、戦時情勢下にあったこともあり、6歳年上の兄から、既にこのモールス符号を教えてもらっていた。

兄は、少年クラブ等の雑誌で覚えたのであろうが、「イロハ等」のモールス符号を、イ(・―)は伊藤、ロ(・-・-)は路上歩行、ハ(-・・・)はハーモニカなどと、和製用語に振り替えて教えてくれていたから覚え易く、戦後の新制中学になっても、私はモールス符号を記憶していて、時折、級友達の前で自慢したものである。

ところで、明治時代の電信文の事例としては、明治の風景を多くの著作で描写した国民的作家司馬遼太郎氏の作品の事例が想い浮かぶ。
①巨像西郷がやむなく立ち上がった西南戦争の1年前の明治9年秋、肥後で起きた神風連の乱で、熊本鎮台長官種田政明は斬殺されたが、同居していた芸妓小勝は命を助かって、東京日本橋の実家へ電信を打った。「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」
この電文は、翌朝の新聞に掲載されて、評判となった。[同氏「翔が如く」より]

②明治39年5月、ロシアのバルチック艦隊を日本海域に発見した日本連合艦隊は、旗艦三笠から東京の大本営に対して無線電信を打った。「連合艦隊ハ直チニ出航、敵艦隊ヲ撃滅セントス」の原案に対して、天才と謳われた主任参謀秋山中佐は、鉛筆を手にして次の1句を追加した。「本日は天気晴朗ナレドモ浪タカシ」の名文が有名である。

この秋山参謀の追加文について、のちに山本海軍大臣は「公報の美文はよくない」と批判したそうだが、秋山の狙いは別にあった。つまり、快晴であれば濃霧などでの敵影取り逃がしの気遣いはなく、又、波高ければ、砲撃術に勝る日本に有利な状況にある、との意味を込めたものだとする。(同氏「坂の上の雲」より)

いずれにしても、これらの電信は、有線、無線にしろ、モールス通信によって打電されたのであった。

キリが無いので、引用はやめよう。

さて、話は飛ぶが、太平洋戦争後の日本は、米軍の空爆で全ての施設が完膚無きまでに破壊されていたから、逓信省所管の電話網も一切役に立たず、遇々、朝鮮戦争の勃発で、日本の戦後経済復興の機会に恵まれたにもかかわらず、産業基盤の情報通信機能は全く麻痺していた。

このため先ず頼りにされたのが、コストを抑えた設備投資で、手早く全国の通信網を構築できるモールス通信であった。
戦後いち早く電気通信省を独立させて、通信政策は逓信省から電通省に移管され、電話網の整備を最優先とする数次にわたる5ヵ年計画が取り組まれたが、その前段で、差し迫っての課題として、朝鮮戦争に関連する当面の通信需要に即応できる大量の通信技術者の育成・確保が必要であった。

このため、電気通信省は、全国の新制高校や新制中学卒業生から大量の採用を行い、モールス通信の技術訓練に取りかかった。

私は既述のとおり、既にモールス符号を習得しており、終戦直前の東京大空襲の犠牲となって今は亡き兄の遺言かのように受けとめて新制中学卒業後に電通省に入社し、研修所である仙台電通学園に入学した。

モールス通信は、電鍵と称する送信機を指先で操作して、相手と符号を通じて会話を行うアナログ方式であるため、極めて人間味があり、実務をしていても楽しい仕事であった。とりわけ、幼少の頃からモールス符号に馴染んでいた私にとっては、他人より得意とする技術でもあった。

年1回行われる社内での電信競技会などは待ち望んでいたもので、入賞して貰える衣料品などの賞品は、生活上苦労していた戦後の糸ヘン景気の最中とて、嬉しい限りであった。

この電信時代の思い出の1つに、忘れられない凶事、いわゆるチリ地震津波による大繁忙事件がある。

昭和35年(1960年)5月下旬、南米チリ沖で大地震が起きた。それが原因で大津波が発生し、先ずハワイ海岸に被害を与えた後、はるばる太平洋を横断して、予測もしない日本の三陸沿岸を襲ったのである。

リアス式海岸の三陸沿岸は、津波の影響を受けやすい地形で、過去にもなんどか地震による津波の被害を受けていたが、このときは、はるか彼方の南米チリ沖での地震であったために、三陸を始め日本各地の住民は地震は全く感知せず、ましてや津波までは予想もしなかった。気象庁も同様で、チリ沖での地震発生は探知してはいたが、わが国まで津波が襲うとまでは考えず、津波警報は出していなかった。しかし、現に、大船渡電報局は、2階まで海水に浸かったという被害を受けている。

このとき、私は岩手県を統括する盛岡電報局に勤めていたので、全職員が24時間体制をとって、全国から集中する見舞い電報や安否確認等の電報処理に当たった。

電報用紙であふれる通信課の中を、県内各地へモールス通信のできる地へは懸命に送信し、更に釜石等へは職員が鞄に電報用紙を詰めて、鉄道等で使送したりと、大騒動になったものである。

それにしても、この時は、事前に一切の揺れも感知しなかったのに、なぜこのような大津波が来たのかと皆で不思議がったものだ。(詳しくは吉村昭著「三陸海岸大津波」を参照されたい。)

その後、2011年3月に東日本大震災が発生して、三陸海岸他、東北・北関東各地が津波を含めた大災害を被ったが、これは、モールス通信とは直接関係がないので省略する。

かくして、その後の時代の発展とともに、全国電話網も逐次整備され、自動化が進むとともに、電信通信も機械化され、モールス通信の個人技術方式から、印刷通信方式や自動中継交換方式等が導入されて行き、昭和30年代の終盤になると、かつてのモールス通信機は、わが国内から姿を消すようになるのである。

かつては、世界各地からの沿岸漁業の無線電信を受け中継していた国内の無線電報局は、使命を終えて逐次廃止され、時代は宇宙衛星をも活用した無線電波通信とコンピューターの世の中へと移ってしまっている。

18世紀のアメリカ西部開拓時代や江戸末期までのわが国での人馬による情報伝達方式が、モールス通信の発明によって革新的に改善されたものの、現在では、モールス通信はその存在したこと自体が忘れ去られ、小さな携帯電話の端末1つで世界中での情報交換が日常化するに至っているのである。

われらが若々しき頃の、勇んで電鍵に立ち向かっていた姿は、最早、幻となって消えうせ、電線は地下ケーブル化し、電柱は無線アンテナに化けてしまった世の中となっている。

「電信柱よ、サヨウナラ」である。

◆寄稿者紹介
・樋口 実 茨城県 昭和10年生れ 
・仙台電気通信学園普通電信科昭和26年卒
 山形電報局、盛岡電報局でモールス音響通信経験者
・寄稿者には、好評を博している下記の著書がある。
全国一周岬巡り~鉄道とバスの旅 (2006/4 文芸社) 
伊能忠敬の偉業に触発され、著者自身の古希を機に全国を一周、30ヵ所の岬を訪ねた旅程12,000Kmの紀行。


コメントを投稿