◆寄稿者 伊藤國芳
前編では私の戦時中における空襲体験を書きましたが、なぜ重大な警報の伝達が電報局、郵便局からだったのか。
当時の情報交換は、電報・電話・手紙などで無線通信は発達途上で一般には使用されていなかった。
電話については皆さんもご存知のように通話には、普通・至急・特急の3種類あり普通電話ですと朝申し込んでも夕方でなければ接続されなかったり、また話し中の回線を非常だからといって交換手が勝手に切ることはできない。そこで警報伝達の1番早い手段は電報局となったらしい。その手段を決めたのが政府情報機関なのか軍なのかそれは知らない。
当時の電報は普通と至急の2種類あり、お客様から出された電報は途中の中継局を通り配達局まで、モールス信号と電話通信で、それぞれの局の係りが送受する。警報などの特殊な情報が出た場合、いつでも送受中の電報は止めることができる。そこが電話と異なるところで、目を付けられたのではないでしょうか。
空襲は7月15日の1日だけであったが、誰も夢想だにしないことだった。その頃日本が負けるという空気がお互いにあり、口数も少なく局の中でも重苦しい空気が漂う毎日が続いていた。
私ごとであるが13歳年上の長兄は召集で北支那方面軍に4年従軍し除隊。その後結婚、長男出生後にまた赤紙がきて、旭川第7師団に入隊し、新兵に銃剣術を教えるが、体調を悪くし陸軍病院(現道北病院)に入院、病状悪化。終戦の前月7月末、兵隊4人に担架に乗せられ山部村に帰ってきた。そして8月5日、日本は負けると言いながらこの世を去った。
この兄夫婦は別に一戸を構えて生活をしていた。兄の死亡3日後、どのような事情があったのか19歳の私には知るよしもなかったが、兄嫁は2歳にも満たないひと粒種のわが子を祖父母に預け、実家に帰ってしまった。
8月15日終戦。赤平、芦別の炭鉱から強制労働から解放された中国人、朝鮮人5、60人が徒党を組んで富良野の町で略奪が始まる。8月の暑い日、商店などに入り中折れ帽子を3個、4個と重ねてかぶったり、冬の外套を何枚も重ね着したり、ビール瓶を何本も小脇に抱え喚きちらしても、負けた者にとっては、なす術がなく、ただ呆然と見ているだけであった。
このようなことがあった後のわが家では、終戦から3年間に祖母、母、妹の3人がそれぞれの病で他界。残された父、私、甥の男ばかりの生きていくための壮絶な闘いが始まったのである。
話を前知符号に戻すが、今の世の中、どこにでも前知符号があると思う。例えば地震の前の動物たちの異常な行動。人間だって罪を犯す前の言動、行動がある。これらの前知符号ともいえる行動、言動の意味を察知・理解して、対策を講じたり、人が悪に走るのを未然に防ぐことが出来ればよいが、なかなかできない。これが現代の人間社会なのだろうか。
付記~前知符号についてのコメント
前編では私の戦時中における空襲体験を書きましたが、なぜ重大な警報の伝達が電報局、郵便局からだったのか。
当時の情報交換は、電報・電話・手紙などで無線通信は発達途上で一般には使用されていなかった。
電話については皆さんもご存知のように通話には、普通・至急・特急の3種類あり普通電話ですと朝申し込んでも夕方でなければ接続されなかったり、また話し中の回線を非常だからといって交換手が勝手に切ることはできない。そこで警報伝達の1番早い手段は電報局となったらしい。その手段を決めたのが政府情報機関なのか軍なのかそれは知らない。
当時の電報は普通と至急の2種類あり、お客様から出された電報は途中の中継局を通り配達局まで、モールス信号と電話通信で、それぞれの局の係りが送受する。警報などの特殊な情報が出た場合、いつでも送受中の電報は止めることができる。そこが電話と異なるところで、目を付けられたのではないでしょうか。
空襲は7月15日の1日だけであったが、誰も夢想だにしないことだった。その頃日本が負けるという空気がお互いにあり、口数も少なく局の中でも重苦しい空気が漂う毎日が続いていた。
私ごとであるが13歳年上の長兄は召集で北支那方面軍に4年従軍し除隊。その後結婚、長男出生後にまた赤紙がきて、旭川第7師団に入隊し、新兵に銃剣術を教えるが、体調を悪くし陸軍病院(現道北病院)に入院、病状悪化。終戦の前月7月末、兵隊4人に担架に乗せられ山部村に帰ってきた。そして8月5日、日本は負けると言いながらこの世を去った。
この兄夫婦は別に一戸を構えて生活をしていた。兄の死亡3日後、どのような事情があったのか19歳の私には知るよしもなかったが、兄嫁は2歳にも満たないひと粒種のわが子を祖父母に預け、実家に帰ってしまった。
8月15日終戦。赤平、芦別の炭鉱から強制労働から解放された中国人、朝鮮人5、60人が徒党を組んで富良野の町で略奪が始まる。8月の暑い日、商店などに入り中折れ帽子を3個、4個と重ねてかぶったり、冬の外套を何枚も重ね着したり、ビール瓶を何本も小脇に抱え喚きちらしても、負けた者にとっては、なす術がなく、ただ呆然と見ているだけであった。
このようなことがあった後のわが家では、終戦から3年間に祖母、母、妹の3人がそれぞれの病で他界。残された父、私、甥の男ばかりの生きていくための壮絶な闘いが始まったのである。
話を前知符号に戻すが、今の世の中、どこにでも前知符号があると思う。例えば地震の前の動物たちの異常な行動。人間だって罪を犯す前の言動、行動がある。これらの前知符号ともいえる行動、言動の意味を察知・理解して、対策を講じたり、人が悪に走るのを未然に防ぐことが出来ればよいが、なかなかできない。これが現代の人間社会なのだろうか。
付記~前知符号についてのコメント
前編で、警戒警報は、「前知符号」ツーツーツートトトツーツーツと聞いた後に警報の「電文を受信した」と記されていました。この符号のツーを(-)、トンを(・)とし、符号形式で書くと「― ― ―-・・・― ― ― 」となり、アルファベットではOSOとなります。
私は、「前知符号」も、遭難符号SOSに似たOSOも初めて聞いたので、通信のことに詳しい大分の友人K氏に、その意味をたずねた。
返信があり、無信通信では、非常通信(地震、台風、洪水、津波、暴動等に事態が発生又は発生するおそれがある場合)にOSOを使用したとWikipediaに記載があること、また、警報の電文送信の前に「前置符号」を送信したと思うが、戦時下の有線通信のことは知らないとのことだった。
大戦時の無線通信の「前置符号」は調べようがなかったが、現行の電波法・無線局運用規則には、次のような条文があり、条文見出しは「前置符号」と書かれている。
・ 無線局運用規則(前置符号)
第131条 法第七十四条第一項に規定する通信(電波法:非常の場合の無線通信)において連絡を設定するための呼出し又は応答は、呼出事項又は応答事項に「OSO」を三回前置して行うものとする。
かつての逓信省は、無線、有線通信とも所轄していたので、モールス音響通信でも無線通信同様OSOを使用したこと、同時にそれを「前置符号」と呼んだ可能性が高いものの、はっきりしたことは分からなかった。
音響通信の現場を経験した私としては、戦時下で空襲警報を受信する側の気持ちを想像すと、受信準備のため、一刻も早く事前に警報発令の事実を知りたい。その事前の知らせが「前知符号」で、このほうが「前置符号」より実態に合った呼び名に思える。
本件がいずれであっても、本寄稿文の貴重な価値に変わりはないと思いますので、戦時下のことを正確に記憶されている方の出現まで、このままにさせていただくことにします。(2016/01/22増田記)
私は、「前知符号」も、遭難符号SOSに似たOSOも初めて聞いたので、通信のことに詳しい大分の友人K氏に、その意味をたずねた。
返信があり、無信通信では、非常通信(地震、台風、洪水、津波、暴動等に事態が発生又は発生するおそれがある場合)にOSOを使用したとWikipediaに記載があること、また、警報の電文送信の前に「前置符号」を送信したと思うが、戦時下の有線通信のことは知らないとのことだった。
大戦時の無線通信の「前置符号」は調べようがなかったが、現行の電波法・無線局運用規則には、次のような条文があり、条文見出しは「前置符号」と書かれている。
・ 無線局運用規則(前置符号)
第131条 法第七十四条第一項に規定する通信(電波法:非常の場合の無線通信)において連絡を設定するための呼出し又は応答は、呼出事項又は応答事項に「OSO」を三回前置して行うものとする。
かつての逓信省は、無線、有線通信とも所轄していたので、モールス音響通信でも無線通信同様OSOを使用したこと、同時にそれを「前置符号」と呼んだ可能性が高いものの、はっきりしたことは分からなかった。
音響通信の現場を経験した私としては、戦時下で空襲警報を受信する側の気持ちを想像すと、受信準備のため、一刻も早く事前に警報発令の事実を知りたい。その事前の知らせが「前知符号」で、このほうが「前置符号」より実態に合った呼び名に思える。
本件がいずれであっても、本寄稿文の貴重な価値に変わりはないと思いますので、戦時下のことを正確に記憶されている方の出現まで、このままにさせていただくことにします。(2016/01/22増田記)
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