◆寄稿 赤羽 弘道
辰野郵便局時代
名古屋逓信講習所を卒業して配属された辰野郵便局の身分は事務員で、初任給は日給90銭であった。辰野郵便局は明治27年開設(1894)<当時は平出郵便局>、昭和10(1935)年に新築され、外壁はコンクリート作りの2階建てだった。職員数は約30ほどの特定郵便局(当時は3等局と呼んだ)であった。
なお、特定局は、明治の初め郵便制度ができたとき、地元の資産家が土地や局舎を提供し、逓信省の直営ではなく、請負制の郵便局として発足したものである。
局長はいつも羽織袴だった。職員の身分は、雇員と傭人に分かれ、局長代理以下の事務員はすべて雇員で、郵便集配員や電報配達員は傭人であった。
私の勤務は、電信とともに郵便を担当し、Nさんと二人一組で、朝8時から翌朝8時までの24時間交替勤務であった。私たちのほかに他の一組があり、いずれも逓信講習所を卒業した電信の有技者であった。
辰野郵便局は、明治30年から電話による電報の取扱を始めており、大正9年(1925)から音響機が設置されていた。音響回線は松本局に集中していて、辰野回線には宮本局と小野局が接続され、1本の回線を4局で使っていた。それぞれに呼出し符号がさだめられていて、辰野のはHD(・・・・ -・・)、宮本はMK,小野はON、松本はMTというようにローマ字読みの2字が当てられていた。辰野のHDは、以前平出局だったときに決められたものであった。
電報はすべて松本を中継して、全国の着信局へ送られていた。窓口で受け付けた電報は1階の隅にある電信席に届けられると、早速松本局を呼出し符号を連送し、その応答を待って電文を送信する。もし、他の局が通信中のときは、終わるのを待つ。着信電報のときは、松本局がうつ辰野局の呼出し符号が鳴ると、他の如何なる仕事も中断して、電信席に着き電報を受信する。受信は手書きで、炭酸紙をはさんで複写し、薄い方は控えとして保管し、厚い方を折り畳んで配達員に渡し、配達した。
川島局に発着する電報の中継も取り扱ったが、川島局との間では電話で送受信をしていた。間違いを防ぐため、電文を棒読みにしないで、「イロハのイ」「ローマのロ」というように、電話通話表というものを使っていた。
電報取扱数は日により、季節により変動があったが、1日平均70通くらいであった。電話の普及が十分でなく、市外通話の待ち時間が長かった当時は、電報が商取引の中心を占めていた。辰野の商店と生産地の市場との間で、魚や野菜の情報の交換や売買の取引が電報で行われていた。川島村の松茸のシーズンにはその関係の電報が増加した。
銀行は、電報に略号を使っていたが、誤りを防ぐため照合電報という通信文を2度送受する電報を利用していた。電報は着信局までの間に、平均2回の中継があり、何時間もかかったので、急ぐときは2倍の料金の至急電報が利用された。至急電報のことをウナ電
といったが、これは至急を意味するURGENTのUとRをカナ文字に直すと「ウナ」となることから名づけられたものであった。ちなみに万国遭難救助信号のSOS(・・・---・・・)はSAVE OUR SHIPの略であった。当時、祝電や弔電はまだ少なく、「チチキトクスグカエレ」や「九ジツクムカエタノム」といった人事往来の電報が、多く利用されていた。
当時、電報料金は15字まで30銭、以上5字増すごとに10銭であった。このため電文は短く書くものとされていて、たとえば「直ぐ返事を頼む」は「スヘ」などと書いていた。
現場の通信は、講習所で習ったものと異なり、人の筆跡が皆異なるように、符号の長短や通信振りに癖があり、乱暴な通信をする者もいた。何度も聞き直すと、「ヘボカワレ」といわれたり、ブル(短点の連送)を打たれた。プライドを傷つけられたが、如何ともしがたいことであった。
窓口で受け取った電報料金は、電報頼信紙に切手を貼り、スタンプで消印していたが、この電報頼信紙は1月ごとに取りまとめ、東京の逓信省電務局へ差し立て、そこで料金に誤りがないか検査をしていた。
辰野局は明治43年(1910)から41加入で電話交換が始められ、昭和15年(1940)当時は228加入、市外回線は8回線になっていた。2階に交換室があり、10名ほどの交換手が交替で勤務についていた。階下の事務室には貯金・保険の窓口があり、午後5時になると閉めた。郵便は、午後8時まで窓口を開いていたが、5時からは電信掛が交替して窓口に座った。電報や速達の受付け、切手・はがきの販売,公衆電話の取扱等が仕事であった。町の人々とも顔馴染みになっていた。
辰野名物の蛍の季節には、松尾峡に蛍見物に出かけ、ときにはNさんと自転車で諏訪大社まで遠出をした。また、岡谷に「愛染かつら」をわざわざ観に行った。春秋には職員の慰安旅行が行われ、上諏訪の鵞湖荘にもたびたび出かけた。
昭和14年9月、日給1円4銭に昇給し、翌15年9月、1円15銭に昇給した。このほか勤勉手当がつき、また保険の募集をすると奨励手当が出た。初めて給料を手にしたときは仏壇に供えたが、以来毎月20円を家計に入れていた。
家から6キロの道を自転車で通勤し、弁当は昼と夜の2食分を持って出た。出勤の道は下りで快適であったが、宿明けの帰り道は上り坂で、空腹を抱え大変であった。ある朝出勤のとき、道端の小川に転げ落ち、捻挫をした。整骨院にかかり数日欠勤したが、歩けるようになるまで、局近くの叔父の家に1週間ほど泊めてもらった。
宿明けの日は家に帰ると遅い朝食を済ませ、休養をとったり家の手伝いをした。
夜はもっぱら逓信講習所の高等科受験を目指して勉強をしたが、自学・自習は口でいうほど易しいものではなく、誘惑もあり、遅々として進まなかった。
そのころ島崎藤村の落梅集を愛読し、「千曲川旅情の歌」とともに「常盤樹」に深い感銘を受けた。
高等科受験のための毎日は灰色と忍従の生活だった。配属2年目の昭和16年(1944)、勇を鼓して局長に申し出、許可を得て受験願書を提出した。
試験は2月初め、長野市の長野郵便局講堂で行われた。試験の結果はさんざんで、挫折感に打ちひしがれた。旧知の何人かと連れ立って長野市内の真昼のカフェに入り、ビールを飲んだ。
ようやく平常心の戻った3月末のこと、川島郵便局から連絡があり、試験に合格したらしいと知らせてくれた。急いで辰野郵便局へ行ってみると、電報がきていて、合格は本当であった。
私の実社会の第1歩である辰野郵便局の2年間は、局長はじめ良き先輩、良き友人に恵まれ、楽しい思い出深いものであった。こうした人々の祝福を受け、局を辞め、再び名古屋へと向かった。
◆寄稿者紹介
電信の思い出(その1)参照。
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