モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

あの一瞬

2016年07月09日 | 原爆
◆あの一瞬

岡山市 桑島一男氏

図書館でも、インターネット上にも原爆関係の記録は多量に存在する。その中には、数は多くないが、今まで知らなかった、内容の非常に重いモ-ルス通信関係者の記録、証言などもある。

最初に、桑島一男(かずお)氏の随筆「あの一瞬」について書きたい。これは、広島県の岡山市が市民から募集した「岡山市民の文芸 昭和56年第13回の優秀作品」の中にある随筆の一編で、市のホームページに掲載されていたものである。

随筆の筆者は、岡山郵便局に勤務された電信オペレーターである。中国電友会に照会したところ、詳しいことは不明だが、古い名簿には同氏の名前があるそうだ。終戦の年に22歳の方だから、健在であれば、90歳を越されているはず。

当時の住所宛てに手紙を出したり、岡山市の市民文芸の担当に電話をしてみたりしたが、とうとうご本人には連絡がつかなかった。
 
図書館で調べたところ、この随筆は、下記の市販図書にも同名のタイトルで収録されていることを知った。岡山市民の文芸掲載の内容と大綱は同じだが、こちらの方が少し内容が詳しい。
なお、次回は、広島逓信局勤務の方が書かれた「原爆予告をきいた」を取り上げるつもりだが、これもこの図書に収録されているものである。

・日本児童文学者協会・日本子供を守る会(続語り継ぐ戦争体験~1)「原爆予告をきいた」 発行1983年〈昭和58)、発行所㈱土文化

前置きはこれくらいとし、広島に原爆が投下された日、岡山郵便局に勤務中の桑島一男氏は、広島電信局と非常無線の交信中だった。

「昭和二十年八月六日の朝、私は岡山郵便局電信課の職場で、いつものように非常無線を担当していた。

非常無線というのは、有線通信が空襲などで故障になった場合に備えていた非常連絡用の無線機のことで、広島逓信局管内では、広島、岡山、下関、松江、鳥取、米子、浜田の各主要局へ、戦局が不利になった前年末から設置されていた。

その朝も、定められ時刻の八時に広島を呼んだところ 青く高く澄みきった夏空のせいか、双方の無線の感度は良好だった。そのとき広島から電報があるから受けよとの要請があり、私はこれに応じて受信をはじめた。非常用の電報でなくても、二、三通の一般電報であれば送受が許されていた。

三通目を受信していたとき、急にそれまではっきり聞こえていたモールス符号のブザー音が、プツッと消えてしまった。何か強い電流に消されたか、それとも停電か、あるいは送信機の故障かと、私はしばしそのまま待ってみた。そのとき見るともなしに前の通信用時計を見ると、長針が十五分過ぎを示していた。

その後二回、三回と繰り返し広島を呼んでみたが、いつもなら力強く答えてくれるはずの相手の応答はなかった。不審に思って、有線電信室に行き、広島回線席の状況を聞いた。ところが、ここでも突如断線状態となっていて、広島との連絡はとれないことがわかった。他の無線局へ照会した結果、やっと広島の異変発生が理解できた。

翌七日になって、広島から無線で機密暗号電報が送信されてきた。そのときはじめて「ヒロシマゼンメツ、ヒロシマテイシンキヨクチヨウユクエフメイ・・・・」と知った。余りの大事件に暗号電報を翻訳する私の手は思わずブルブル震えた。この無線電報は、疎開先に移った広島臨時無線局から発信されたものだった。

あの一瞬~八時十五分に通信が途絶えとき、広島の担当者は・・・と私は愕然とした。
あれから、毎年八月六日を迎えるたびに、「あの一瞬」を忘れ得ない私である。」

以上が桑島氏の随筆の概略です。
上記に紹介した図書によれば、岡山郵便局の電信課の電信室は、1階にあった。非常無線機は、2階の部屋の片隅に、5キロワットの送信機と、オールウェイブの受信機を持ち込み、アンテナは中庭の一隅の暖房用煙突に張り渡し、その端を室内に引き込んでいた。
この受信機は、ダイヤルを合わせると短波も良く聞こえ、敵の日本向けの、サイパン放送、シドニー放送、サンフランシスコ放送もよく聞こえたようだ。しかし、これらの放送は、無線担当に任命されたとき、上司から聞くことを厳禁されていた。

このほかの詳細な内容は、上に紹介した図書と、「第13回(昭和56年度)「岡山市民の文芸~随筆編」に記されている。岡山市民の文芸は、ほんのこの前までNET検索で読めたが、今は古い年代のものの掲載は止めたらしく、読むことができないようだ。

岡山郵便局の通信相手だった当時の広島電信局は、原爆爆心地から380mの至近距離にあった堅牢な局舎(富国ビル)内にあった。建物はかろうじて倒壊は免れものの局舎内設備はすべて破壊され、当日朝の在局者117名のうち97名(被爆後の死者数を除く)が犠牲となった。

岡山郵便局からの無線を受信していた広島側の担当者は、数少ない生き残り者の一人である高橋匡氏の原爆体験記(※下記)により推定すると、4階無線室にいたと記録されている品川多満利無線主任だったと思われる。品川氏は、53年没との記録があるので、原爆投下時、負傷した可能性はあるが、幸い助かったことは確実で、翌日、被爆後、疎開先の広島臨時無線局から、管内各局に非常無線の第一報を送信したのも同氏だったかも知れない。

※≪高橋匡氏(庶務課職員の体験記≫
「四階には庶務課、局長室の他、無線通信室と通信課の経理室がありましたが、経理室にはだれもおらず廊下には西本勲二通信主任がうつ伏せに倒れ、背中には無数のガラスの傷があり、痛いから動かないと訴えられたので、そのままにしました※1。
近くの流し場に学徒の新川さんが倒れていましたが、意識はなかったように思います。
そうこうしているところへ大谷主幹(※2)と品川主事(※3)が来られ、無線室から書類を出したいという品川主事に協力し、無線室の扉をこじあけて持ち出しました。」
※1西本さんは、別の記録によれば、4階踊り場で罹災、3階階段で全身出血、即死となっている。※2氏名=大谷喜久治通信主幹※3氏名=品川多満利無線主幹


ここで、気になるのは、通常は3階の通信室勤務の西本通信主任が、なぜ4階の廊下に倒れていたのか。この体験記には触れてないが、西本氏は、3階から4階の無線室に岡山宛ての3通の一般電報を運んできて、無線室内にいて送信中被爆したか、または無線室を出て帰りの途中に被爆し、当日死亡したとも考えられる。


岡島氏の随筆には、7日には「疎開先の広島無線局」から機密暗号電報を受信したことが書かれている。疎開先の無線局とは、上に紹介した図書によれば、「広島側の通信基地は、今までの広島電信局内から郊外の西条町(今の東広島市~広島駅から30キロメートル程度東方)※へ移転しており、送信機も臨時用の小型にかわっていた。」とある。思うに、この疎開先は、原爆を投下されてから準備したものではなく、あらかじめ非常事態に備えて、広島から遠隔の郊外に無線通信基地を予備的に設置していたものと思われ、それを翌日から稼働させたようだ。

<<広島原爆誌(中国電気通信局昭和30.8.6)>>
上記の西条町の無線基地の移転先は、西条農学校だったようだ。「広島無線工事局によって、応急措置として西条農学校に受信機を設置し、8月10日ごろ大阪と通信を開始した。電報は西条まで汽車便を利用し、通信士は広島から派遣したが、旅費、食料難から戦後は運用を中止した。その後しばらくして逓信局へ通信所を置き各地と国内無線を開設した。」とある。ここでは、無線通信としての「広島固定局は、非常用無線の設置以前からあり、対大阪は常時、対東京は随時に通信を行っていた。」記録にはないが、「中国逓信局管内との非常無線は、岡島氏の書かれているように、いち早く7日には疎通を開始したものと思われる。

当時の資料によると、無線以外の通信回線については、八丁掘福屋百貨店(鉄筋コンクリート8階建)の地下2階と地下1階の一部にも主要回線を収容し、非常事態に備えている。なお、この建物は爆心地から710Mの距離にあり、廃墟と化したと記録されている。

7日の機密暗号電報で行方不明となったと知らされた広島逓信局長は、吉田正氏(41歳)だった。
8月6日の朝、「出勤途中小町の街路上(官舎より約2丁目の位置)にて被爆即死した。死体の捜査は困難を極めたが、通勤用自転車、所持品を目当てにようやく8日午後、全身に火傷せる死体を収容した。官舎で被爆重症を負いかろうじて脱出した夫人も、原爆症が悪化、19日死亡」している。


2 コメント

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この内容は (小鳥遊(たかなし))
2016-08-06 14:25:36
はじめまして。検索していてたどり着きました。今、手元に本がないので詳しく書けませんが、これとおそらく同じ文章が、岡山の日本文教出版から出版されている、岡山文庫61・岡山の電信電話という本にありました。同じ文章なので、同じ筆者の方(桑島氏)と思います。
桑島氏も広島の方と同じように、アメリカの放送を聞いていたという文も、その本に収録されていたと思います。
すでにご存知であれば、失礼しました。
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お礼 (増田 博治)
2016-08-07 14:27:35
小鳥遊 様
わざわざお知らせ頂き、有難うございました。
岡山文庫なるものを全くしらなかったので、NET検索をして知りました。そのうち読んでみたいと思います。

当時、無線通信に従事していた人達は、アメリカからの放送を傍受していたのでしょうね。しかし、殆どの人がそれを本当のことと受け取らないようにマインドコントロールされた状態だったのでしょうね。少学生として
軍国教育を叩きこまれていた私には、そう思えます。

お礼を申し上げ、併せてまたお気づきの点がありましたら、ご教授頂ければ幸いです。
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