小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

モーリス・ベジャール・バレエ団『バレエ・フォー・ライフ』(10/16)

2021-10-20 13:32:15 | バレエ

全7公演を成功させて帰国したモーリス・ベジャール・バレエ団。Bプロの『バレエ・フォー・ライフ』は3日目の10/16を観た。終演後は1階席総立ちのカーテンコールが巻き起こり、久々の海外バレエ団の引っ越し公演の熱気に圧倒された。少しばかり日にちが経ち、公演の印象が頭の中で整理されてきたように感じる。

一番の衝撃は、過去にもこの演目で何度も目にしてきたラストのジョルジュ・ドンのフィルムだった。道化の格好をして十字架にかけられ、頭から血を流し、泣きそうな顔で酩酊じみたふらふらの踊りを見せる。これは一体どのような状況で撮られたものなのか。雪の中で裸で踊っているような印象だ。ドンの悲鳴が聞こえてくる心地がした。ベジャールは創作を愛し、ダンサーを愛したが、愛された側がこんなに寂しい想いをしているとは知らず、ドンの映像に狼狽したのではないか? 神の視点にいた完璧な人が、初めて相手から突き付けられた予想外の「返歌」のようなものが、あの映像であるような気がした。

『バレエ・フォー・ライフ』の初演は1997年で、振付家の晩年期の10年に作られたものだが、このあたりからベジャールは自分の幼少期を振り返る作品が多くなり、ますます自己のストレートな心情を隠さなくなっていく。かつての20世紀バレエ団には、その名の通り「20世紀のモダン芸術に責任を持つ」という大義があったはずだ。ストラヴィンスキー、ウェーベルン、ピエール・アンリ、テオドラキス、タキシード・ムーンに振付をし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」では曲の運命をなぞるかのように、ベジャールのバレエも「炎上」した。

「人は老いると極端にエゴイストになる。若い頃は、自分の可能性を示したいがために、また自らの存在の証として、または人々を感動させ観客を魅了したいという理由でバレエを作る。後には、つもり年をとると、創作は自分自身との関係においてしか存在しない。自分の可能性を見せる必要はもうない。そんなことはもう十分にやってしまったのだから」(モーリス・ベジャール回想録 誰の人生か? 前田充・訳)

ベジャールは恐らくそのような心境から、『バレエ・フォー・ライフ』を作った。クイーンの音楽は奇跡的な起爆剤となり、ロック・スターのフレディのイメージの断片がベジャールの舞踊言語と合致した。ユーモア、道化的、楽観性…ブライアン・メイのディストーションのかかったギターにあわせて、ダンサーが痙攣のような動きを見せるのは、そもそもピエール・アンリの電子音楽を使っていた頃からのベジャールの「語彙」だった。クラシックにはない、面白い動きである。

視覚的にも音楽的にも娯楽的要素が強いといえばそうなのだが、『バレエ・フォー・ライフ』はベジャールの私小説的なバレエでもある。カンパニーのダンサーはほとんどが2010年以降に入団した若者で、生前のベジャールを知らない。カンパニーのスタジオとルードラは同じ建物なので、ルードラの生徒は通りかかったベジャールに励ましの一言をもらっただけで、羨望の眼差しだったと金森穣さんが教えてくれたことがある。そうした経験をしていなくても、ダンサーは振付からベジャールの意志を理解する。皆がベジャールの可愛い子供たちであり、美しい創造物だった。

ジル・ロマンが長年踊った『エジプト王タモスへの前奏曲』と『フリーメーソンのための葬送音楽』はガブリエル・アレナス・ルイスが踊った。ジル以外のダンサーがこれを踊るのは大変なことで、以前この役を踊っていたバティスト・ガオンはジルと全く異なる雰囲気だったが、ガブリエルはジルの分身のようだ。鋭利で悪魔的で容赦なく、空間を刃物で切り裂くような動きが素晴らしい。苛酷なリハーサルの成果を思わせた。じっくりジルに指導されたのだろう。ガブリエルはバレエ団のもうひとつの柱になりつつある。

「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」でのエリザベット・ロスは、今が一番美しいのではないかと思わせるほどで、このダンサーには時間というものが存在していないかのようだ。相当なキャリアがあるはずなのだが、容姿にもダンスにも衰えがない。マリオネットのような動きが特徴的な「ヘヴン・フォー・エヴリワン」はイタリア出身のマッティア・ガリオットが健気に踊った。目に焼き付いたのは「ピアノ協奏曲第21番」でペアのダンスを踊ったアントワーヌ・ル・モアルで、彼を意識したのはこの日か初めてだった。小悪魔のように魅惑的なダンサーで、大胆にも「自分だけを見つめろ」というオーラを放ってくる。「レディオ・ガガ」の箱に密集する(!)男性ダンサーの中でも、彼だけを目で追ってしまった。
 「ウィンターズ・テイル」のソロを踊るのは、カンパニーの中でも誇らしいことだ。クーン・オンズィアや小林十市さんの名演を彷彿させるヴィト・パンシーニのダンスが大変良かった。若手ダンサーもどんどん育ってきている。

『バレエ・フォー・ライフ』は2002年に初めて見て、2004年にはトリノのテアトロ・レージョでも観た。ジュリアン・ファヴローのフレディがどうしても見たくてイタリアまで行ったのだが、レージョ劇場の三日間のうち初日は6割入り、マーティン・ヴェデルがダブルキャストで踊った二日目には8割ほど埋まり、再びジュリアンが踊った最終日は超満員になった。イタリア人の口コミの力はすごいと思った瞬間だった。露出の多いヴェルサーチの衣装を、変わらぬ姿で着こなしてフレディを踊り続けるジュリアンには尊敬しかない。10代からこの役を踊り続けている。

完璧に役を保ち続けているジュリアン・ファヴローを見て、最後にドンのフィルムを見てしまうと、奇妙な思いにとらわれる。これはドンに捧げられたバレエで、ダンサーはドンの追悼のために踊る。ジュリアンも主役でありながら、最後で主役ではなくなってしまう…勿論そうではない解釈もあるだろうが…。ベジャールが亡くなって14年経ち、最後のミューズであったジュリアンに、ベジャールは天から何を語り掛けているのかを知りたくなった。カンパニーのプリシンパルである彼は、現役でまだ踊れる人なだけに、色々思う。マッツ・エクは彼をカンパニーに欲しがったという。ベジャールと仲が良かったマッツは、ベジャールから彼を取り上げることはしなかったが、今もし可能性があるなら何を振り付けただろうか。
「ショー・マスト・ゴー・オン」に現れたジル・ロマンを見て、さらに心が疼いた。ドンとジルは光と闇のような存在で、ドンとベジャールが亡くなった後も、ジルはベジャールのドンへの愛を、監督として全責任を負って再現する。
どんな人生も楽ではない。むしろ、徹底して、完膚なきまでに苛酷なのだ。フランス語の長い原題はよく分からないが、英語で「バレエ・フォー・ライフ」と名付けられたこの作品の含蓄を、繰り返し噛み締めた。




 
 

 

 

 

 


モーリス・ベジャール・バレエ団(10/9)

2021-10-13 06:27:20 | バレエ

2度の延期を経て悲願の来日公演。流れてしまったものの中には東京バレエ団との『第九交響曲』などもあったが、こうして4年ぶりにカンパニーの来日が叶うことは喜ばしい。Aプログラムは芸術監督ジル・ロマン振付『人はいつでも夢想する』、ベジャール振付『ブレルとバルバラ』『ボレロ』。

ジョン・ゾーンの音楽にインスパイアされたという『人はいつでも夢想する』は、過去に日本で上演されてきたジル・ロマン振付作品の中でも大作(上演時間1時間10分)で、彼女(ジャスミン・カマロタ)と彼(ヴィト・パンシーニ)を中心に「族」「天使たち」の群舞が暗示的なストーリーを組み立てていく。ジル・ロマン作品は欧州でも既に評価を得ているが、この作品を見て改めて「ベジャール・バレエは本当に新しくなったのだ」と感じた。4年の間に新しく入ってきたダンサーもいて、若い人たちは生前のベジャールをほとんど知らないだろう。ジル・ロマン作品は、独自の演劇的教養を含みつつ、「ベジャール的な世界」と「ベジャール的でない世界」を往復している印象だった(風の効果音や、シンプルな「壁」はベジャール世界を彷彿させた)。
振付家とダンサーの関係もまた、ベジャールとは異なる。バレエの物語はどこか黙示録的な世界観を感じさせるが、明快な人間関係については一度観ただけでは明確に分からなかった。もう一度観るべきだったのかも知れない。音楽の編集の仕方はかなりサイケデリック(?)で、演劇人としてのジル・ロマンの過激さに驚いた。

『ブレルとバルバラ」はベジャールの2001年の作品で、抜粋は過去の来日公演で上演されたことがあったが、フルヴァージョンは日本初演。親しみがある振付なので意外だと思っていたら、過去にローザンヌで見ていたことがあった。ジャック・ブレルとバルバラの歌とインタビュー音声が使用され、初演からバルバラ役をエリザベット・ロスが踊り続けている。ジル・ロマンが踊っていたブレルのパートは、ガブリエル・アレナス・ルイズが引き継いだ。ベジャールがこのバレエを創作する様子はドキュメンタリー映画『リュミエール』で見ることが出来るが、面白いことに当時のダンサーと面影が重なるダンサーが何人かいる。
エリザベット・ロスは、20年前より若々しくなっている印象があった。二日目の主役も彼女が踊ったという。そのすぐ後に「ボレロ」を踊った(!)。バルバラの役はつねにシングルキャストで、ベジャールはエリザベットに魅了されてバルバラを振り付けたので、他のダンサーに代役は出来ないのだ。舞台はシンプルで、ダンサーの肉体だけが観るべきものとしてある。ジャン・ポール・ノットのシンプルなデザインのコスチュームが長身のエリザベットによく似合っていた。

休憩なしの3分間の転換で『ボレロ』開始。初日のメロディを踊ったジュリアン・ファヴローは2007年からこの役を踊っているが、それ以前は彼と同年代のカトリーヌ・ズアナバールやオクタビオ・スタンリーが踊り、誰が見ても実力のあるジュリアンが赤い円卓の上で踊ることはなかった。2005年の香港公演ではリズム(群舞)を踊っていたが、一番目立つのでどうしてもメロディよりリズムを見てしまった。

『ボレロ』のメロディは「人間スプリンクラー」とも言われたジョルジュ・ドンの野性的なヴァージョン、ギエムのカリスマ的ヴァージョンのインパクトが大きく、見る側にも強い先入観があるが、ジュリアンの『ボレロ』の解釈は意表をつくもので、振付をゼロから見直して厳密に構築されたものだった。
彼は恐らくベジャールにとって最後の霊感の源で、ルードラ卒業後に17歳でカンパニーに入り、忽ち神のような踊り手に成長した。その嬉しい驚きは、振付家を奮い立たせるものだっただろう。ベジャールは多くの主役をジュリアンに与え、2005年にはニーチェの超人思想をテーマにした「ツァラトゥストラ」でタイトルロールを踊らせたが、ボレロは踊らせなかった。何故なのかは分からないが、ベジャールにはベジャールの神がいて、ジュリアンにはジュリアンの神がいたのだと思う。

奇妙な言い方になるが、ジュリアン・ファヴローの『ボレロ』は道徳的な踊りなのだ。野性とか情熱とかを超越した、もっと別の次元に超然としてある。知の神殿で踊られる、すべての肉体表現の祖型のような、神聖な厳密さを表現する。最後に訪れるカタルシスは、どのダンサーよりも激しい。踊り全体に神秘がある。

2002年にジュリアン・ファヴローの演技を観て、自分の人生も変わった。オペラ座の優れたダンサーを観て「不安だ」と思うことはなかったが、彼を見ていると計り知れない神秘に直面しているようで不安になった。ローザンヌやイタリアや中国でも観たが、20代半ばで既に完成された表現者で、踊り手の「魂」ということを初めて考えさせてくれた。ダンサーとは宿命で、避けられない魂の道なのだった。このことを書き出すと、一冊の本になる。

10/14からは『バレエ・フォー・ライフ』(全4公演)がスタートする。

 

 

 

 


世界バレエフェスティバルAプロ(8/16)

2021-08-18 02:40:02 | バレエ

8/13に開幕した第16回バレエフェスティバルのAプロの最終日を観た(8/16)。会場は東京文化会館。2021年は困難な状況下での開催となったが、ガラ公演の中止などにも関わらず、例年に比べて一層パワフルに感じられた「祝祭」だった。

カンパニーによっては長期間劇場がクローズしているため、ダンサーにとって久々に日本で踊れることは大きな「生きる喜び」だっただろう。1976年から続くこのフェスティバルでは「超」がつく一流ダンサーが東京に集結するが、その一流ということの意味を改めて考えた回でもあった。

「ゼンツァーノの花祭り」で登場したマチアス・エイマンを見て、とてもシンプルに「彼は本当に心から踊っている」と思い、そのことに「一流とはこういうことか」と思った。技術にもまして心が伝わってくる。個性とは心だ。そう感じさせてくれるダンサーのひとつひとつの動きは、見る者の心にも深く刺さり込む。ほとんど音のしない着地や、気品あるブルノンヴィル・スタイルの下半身に「オペラ座のダンサーは本当に見事だ」と思いつつ、相手役のオニール八菜さんを優しくサポートするマチアスの穏やかな表情に、より感動した。

オリガ・スミルノワとウラジーミル・シクリャローフの「ロミオとジュリエット」一幕のパ・ド・ドゥは、スミルノワのこの世のものではない宝石のような美しさに釘付けになった。スミルノワ(ボリショイ)とシクリャローフ(マリインスキー)の共演というのは、ロシアではよくあるのだろうか? 1940年初演のラヴロフスキー版は厳かな演劇性があり、二人が踊るロミオとジュリエットは神話的な人物に見えた。シクリャローフがスミルノワを心から尊敬して「今日でこの踊りが最後になるのが名残惜しい」と思っているように感じられた。ロミオの跳躍は高く、宝物のようなジュリエットへの愛が、鳥のように軽やかに身体を飛ばせるのだろうと思った。

職業柄、このフェスに登場するダンサーの半数に、過去に様々な形でインタビューしていた。そんなこともあって「彼らは心が素晴らしいから踊りが素晴らしい」と思うのかも知れない。気さくで優しいドロテ・ジルベールが、フリーデマン・フォーゲルと踊った『オネーギン』の第1幕のパ・ド・ドゥは、それぞれオペラ座バレエ団とシュツットガルトバレエ団の来日公演で彼らの踊りを見てきた。別の場所で役を掘り下げてきた二人が、東京で共演している様子は奇跡のようであり、一秒たりとも見逃せなかった。

ダニール・シムキンの『白鳥の湖』の第1幕のソロは、久しぶりに観るシムキンに興奮しているうちにあっという間に終わってしまった。シムキンにも昔取材した。今も幸せな日常を送っているのだろうか。2010年のエトワール・ガラで初めてインタビューしたマチュー・ガニオは、あれからずいぶん大人になった。バランシンの『ジュエルズ』から「ダイヤモンド」を踊ったが、アマンディーヌ・アルビッソンと白と銀の衣裳で並ぶと、オペラ座の最も理想的なカップルに見える。アルビッソンは、バレエの神の世界からの贈り物のようなバレリーナで、あまり長くない脚もふくめて理想的なフィギュアをしている。「アマンディーヌは才能だけで踊っている」と言っていた方がいたが、なるほどそうかも知れない。マチューは、そうでもない。サラブレッドだけど、故障も多く悩んでいた時期も長かった。ただ美しいだけでなく、人間味を感じる。それでも、彼の優しい心が生きているのはやはりバレエの美の世界なのだ。二人が踊る「ダイヤモンド」は、日常とは別の天上界のバレエだった。

あまりに素晴らしいパ・ド・ドゥは、ダンサー同志が本当に恋をしているように見える。ロミジュリやマノンは特にそうだ。ロイヤル・バレエの金子扶生さんとワディム・ムンタギロフの「マノン」は、小悪魔マノンに夢中になるデ・グリューの心理が、見事な演劇性とバレエの技によって表現された。ロイヤルのダンサーが踊るマクミランは、特別なオーラがある。

アレッサンドラ・フェリとマルセロ・ゴメスの「ル・パルク」では、ダンサー同志の根強い信頼関係と、魂の絆を見ているようだった。二つの身体が踊っているというより、二つの魂が踊っていた。永遠の運動だった。このダンスのためのモーツァルトのピアノ協奏曲を、ピアノ(ピアニストの菊池洋子さんがこの曲をはじめ数多くの演目で名演奏)とオーケストラの生演奏で聴けたことで、プレルジョカージュの「コンテンポラリー」も新しいニュアンスをともなって観ることができた。

エカテリーナ・クリサノワとキム・キミンの「海賊」は、可愛らしく可憐なクリサノワの魅力と、若き王将のようなキミンの華麗さが客席を沸かせた。バリエーションからバリエーションに移るとき、キムが「これは、本当に素晴らしい舞台だ」という表情になり、さらに気合を入れた跳躍を見せてくれたのは感動した。ダンサーが感じている感動は、客席にダイレクトに伝わってくる。ダンサーが舞台で幸福であることが、客席にいる自分の感動だ。

ユーゴ・マルシャンがBプロのみの出演になったため、フリーデマンは『オネーギン』の1幕と3幕を別のダンサーと踊ることになった。カンパニーの仲間であるエリサ・バデネスは気心が知れているはずだが、心理的には1幕より3幕のほうが激しい。バデネスのタチヤーナはますます成長していて、フリーデマンも前回の来日公演以上にオネーギンの屈折したパーソナリティに溺れていた。この役を踊ることに深い感謝を感じているのかも知れない。

初日から大きな話題となっていたスヴェトラーナ・ザハロワの『瀕死の白鳥』は、舞台にいるザハロワがもっと若いダンサーに見え、最初は別人かと思った。ロシアバレエの女王は、驚くほどあどけない姿で、命絶えゆく白鳥の最後の数分を見せたのだが、確かに「人間」というより「霊」の表現であった。少し前にルグリとのガラで観たスミルノワの「瀕死」も素晴らしかったが、この二人のカリスマ性は今最もバレエファンを熱狂させるものではないだろうか。

トリを飾ったマリーヤ・アレクサンドロワとヴラディスラフ・ラントラートフの『ライモンダ』は、アレクサンドロワの大御所感が素晴らしく、本人もかなり聡明でユーモアのある人なのだが、舞台に「圧をかける」ような踊りが面白かった。ラントラートフは夏っぽいいつもより短いヘアスタイルで、初めてボリショイで取材した8年前より大人の顔つきになっている。ラントラートフもアレクサンドロワも、才能ある若手から追い上げられて大変なのかも知れない。でも「私たちは私たちなのよ」とラントラートフに発破をかけているのは彼女なのではないだろうか。スターやメジャーや表現者が凄いのは、継続して芸を見せていることに尽きる。彼ら二人のパ・ド・ドゥには、バレエの世界で生きることの様々なドラマが見えてくる。まったく素敵なカップルなのだ。

コンテンポラリーは少な目だったが、自分自身がどんどん古典好きになっているので満足感が大きかった。菅井円加さんとアレクサンドル・トルーシュの「パーシスタント・パースウェイジョン」(ノイマイヤー振付)、ジル・ロマンの『スワン・ソング』(ジョルジォ・マディア振付)はその中でも新鮮なコンテンポラリーの魅力を見せてくれた。

オーケストラは東京フィル。指揮はワレリー・オブジャニコフとロベルタス・セルヴェニカス。「オネーギン」や「マノン」やその他のバレエでも、シンフォニー・オーケストラが奏でるとバレエのドラマが格別になると実感した。オーケストラとマエストロの功績は大きい。
(余談だが、バレエ・フェスの指揮者といえば、バックステージでルグリの取材をした2000年に、ミッシェル・ケヴァル氏がダンサーたちから大人気だったのを思い出す。第一回から第10回まで振られていたが、記者の私にまでニコニコ話かけてくださって、上機嫌で素敵なマエストロだった)

フィナーレでは、オリンピック閉会式に負けない花火が舞台に映し出され、ホール全体にも投影された。花火の音は止まらず、これはまるで火薬事故…と大笑いしてしまったが、次から次へと光を絶やさぬように飛び出す花火に、やがてじんわりしてしまった。「逆境にこそ、祝祭が必要」ということなのだろう。19日からBプログラムもはじまる。

出演ダンサーの幕に彩られた東京文化会館のホワイエ


東京バレエ団『M』(10/24)

2020-10-25 10:23:49 | バレエ


10年ぶりの再演。1993年にベジャールが東京バレエ団のために振り付けた。当時ベジャールは66歳で、この前年にスイスのベジャール・バレエ・ローザンヌを30名ほどのカンパニーに縮小している。どの時代の作品にもベジャールには駄作がないが(あると言う人もいるかも知れない)、この時期は生涯で何度目かの演劇人としてのピークにあったのではないかと推測した。
 休憩なし100分。衝撃的で隙がないほどのエンターテイメントだった。「エンターテイメント」という言葉は軽すぎるだろうか。三島由紀夫の生涯と作品をモティーフにしたバレエは深淵で哲学的だが、ヨーロッパのあるタイプのモダン作品にありがちな自己完結的で「何の味もない」ダンスとはけた違いに「面白い」のだ。強烈な刺激が次々と感覚に襲いかかる。巨大な円い鏡や目のくらむような桜吹雪が天から舞い落ちる。退屈な瞬間など微塵もなかった。

「初演を見たことがない」世代の若いダンサーが三島の4人の分身を演じた。現在の東京バレエ団のスターダンサーたちで、Ⅰ(イチ)が柄本弾さん、Ⅱ(二)が宮川新大さん、Ⅲ(サン)が秋元康臣さん、Ⅳ(シ=死)が池本祥真さん。Ⅳの池本さんは大抜擢だったが、2018年に移籍してきた池本さんは最もベジャール作品となじみが薄かったはずだ。この作品では冒頭の祖母から僧、能楽のシテに早変わりしながら、つねに少年ミシマを導く。道化的でありファウスト的でもある難しい役をこなした。

舞台は天地の三分の一ほどの低い位置に視界が収まるようなセットと照明になっているので、横長の絵巻物や屏風のような視界となる。「和風」ともいえるが、ある種の非日常的な緊張感も醸し出し、特に「射手」が厳かな作法で弓の支度をする件は、見ていてハラハラするほど「間」が長く、その間の静寂が刃物のように鋭く感じられた。24日は和田康佑さんが射手を感じた。
聖セバスチャンを踊った樋口祐輝さんは、このバレエのオリジナルキャストであった首藤康之さんを思い出させた。わざと似せたわけではないだろう。身体つきや雰囲気がもともと似ている。「仮面の告白」で幼い「私」が初めて性衝動を感じた対象がグイド・レーニの絵画「聖セバスチャンの殉教」で、三島自身も身体を鍛えてから同じ姿をコスプレ(?)して撮影している。



過去に何度か観ていたはずなのに、聖セバスチャンがこんなに活躍することを忘れていた。まさに目は「ふしあな」だ。ブリーフ姿でドビュッシーのファンファーレで華麗に踊り、「ディアナとアクティオン」さながらに弓を持って、今度は金色のブリーフ(?)で踊る。少年三島を頭上で高くリフトして運ぶシーンもすっかり忘れていた。

男性ダンサーによる群舞が卓越していた。全員がベジャールの創造物に見える。西洋人が東洋人の背中を見て「長い背(ロング・バック)」というのは見たままのことなのだが、ベジャールはそこに日本の個性的な美、神に愛されし特別な美を見つける。ふんどし姿の男衆が芋虫のように連なって「龍」の動きをする場面は圧倒された。あんな面白いことをベジャールは一回しかやらない。ボディビルのトレーニングをする男性群舞が「人・人・人」の形となって玩具のように動くシーンも面白い。時折、4人の分身と男性群舞の動きはゲーム画面のキャラクターにも見えた。ステージ全体がキッチュで二次元的で、サイケデリックな画面になるのである。ニジンスキーは牧神の午後で二次元的表現を行ったが、ベジャールはさらにその先を行く。

黛敏郎さんの音楽はオペラ「金閣寺」以上に前衛的で、「能のお囃子(能管、小鼓、太鼓)を軸に、十七弦筝、オンド・マルトノ、パーカッションを加えた25曲」(『M』創作時の音楽責任者 市川文武さんによるプログラム寄稿)によって構成され、オンド・マルトノと能管のアンサンブルはピエール・アンリの電子音楽を使ったベジャールの初期作品を彷彿させた。そこに不自然さはない。こうした面白い「開通」が起こるのも、ベジャールと三島が二歳違いの同世代人であり、時差はあれど同じ20世紀の若者文化を吸収していたからだろう。
ベジャールは数秘術にも興味があったはずだ。三島とモーリスの二人のMはともに1月に生まれている(山羊座)。そして偶然にも11月に亡くなっている。ジョルジュ・ドンの命日も11月なのだ。

沖香菜子さんのオレンジ、政本絵美さんのローズ、伝田陽美さんのヴァイオレットが登場するシーンでは、三島とベジャールのキッチュ感覚が融合し爆発する。ソファのカップルは「鏡子の家」を顕しているのだろうか。三島自身も出演した映画『黒蜥蜴』も思い出した。「女」を踊った上野水香さんには息を呑んだ。微塵の無駄もなく、無機的で完璧な均整がとれている。ベジャール自身がボレロのメロディに任命したダンサーだが、振付家独特の「次元」を直観で理解しているのが上野水香さんだった。神話の世界と現実の世界が舞台では地続きになる…水香さんの「女」にはバランシンから霊感を得たベジャールの痕跡も感じられた。

子役にして主人公である「少年」を演じた大野麻州さんは、冒頭の「クローゼットの中で消えるマジック」から、「武士道とは…」の朗誦、たくさんの踊り、聖セバスチャンの高いリフトなどを勇敢にこなし、歴代の「少年」役と比べても見劣りしない演技だった。弥勒菩薩像が並ぶ大伽藍のような「海」を24人の女性ダンサーが演じ、少年は手足をばたばたさせて元気に羽ばたく。この無邪気な姿は三島の原点であり、モーリスの原点なのだ。8ミリフィルムに記録されたぴょんぴょんジャンプする美少年モーリスの映像を思い出した。
ベジャールが三島を描くということは、ごく自然なことだったのだ。強烈に鋭利なものが二人の魂を貫いている。「相手を知ろうと足掻いている」場面などひとつもなかった。すべてが衝撃的であると同時に自然で、きわどさの寸前で絶妙なデリカシーが発動されていた。二人の天才に通底しているのは、「擬(もどき)」の感覚であり、本物らしく作られた嘘より、嘘のほうが本当のことを語れるという真実だ。
三島の死は「擬」的(モドキ的)であり、死ぬために作られたマッチョなボディもキッチュである。キッチュを理解しない芸術は、説教臭く抹香臭く、ただ青臭い。『M』は洗練された芸術的感性の行きつく最終地点のような特別なバレエで、これを観ると自分はベジャールの永遠の生徒だと思う。これが「バレエであった」ことさえも毎回忘れてしまう。和風の音楽のせいで、あんなにもふんだんにクラシック・バレエの技巧が使われていたことを記憶は忘れてしまうのだ。今回も重要なものをいくつも見逃していると思う。

ベジャールは紛れもなく愛の人だが、『M』には底なしに悪魔的なものが滾っていて、奥の院は開かない。最後の扉は開けなくてもいい、とベジャール自身が言っているような気がした。
ラスト近くで流れるシャンソンは、魔法のようだ。「今まで見たものは全部嘘ですよ」と言いたげに、登場人物たちが現れて「少年ミシマ」のリボンの血をくるくると引き出す。最後は再び、弥勒となった女性ダンサーたちの海のシーンとなり、冒頭シーンと美しい円環を結ぶ。

カーテンコールのとき、ごく自然に一階席かスタンディングオベーションが巻き起こり、私も椅子から立ち上がった。『M』でこんなに観客が熱狂したのは初めて見たような気がする。ただ熱狂しているのではなく、皆が内側から揺さぶられて、どうしようもなくこの上演に感謝したいという気持ちを表しているように見えた。終演後にプログラムを買い求める人々の長い長い行列にも驚かされた。「本物」は朽ちない。舞台アートが危機に晒されたこの年、ベジャールが客席に与えたものは深く、大きかった。


ボリショイ・バレエ・in シネマ『白鳥の湖』

2020-06-19 04:48:32 | バレエ

ボリショイ・バレエ・in シネマ『白鳥の湖』昼の回をT・ジョイPRINCE品川で鑑賞。新型コロナウィルス対策で事前に入場者数の制限の告知があったが、座席は椅子も大きく前後左右のゆとりがあり、「密」な感じはなかった。
 
ユーリー・グリゴローヴィチ版は2000年に最終的な改定が行われたものだが、美術には何となく1940年代の面影がある(特に白鳥たちが「囚われている」二幕冒頭の表現)。一幕の宮廷シーンでは、王子と二人の女性の友人との踊りが多くを占めるが、この二人の友人役がどちらも見事で、大きな拍手喝采を浴びていた。ジークフリート王子役のジャコポ・ティッシはイタリアから招かれてボリショイに入ったダンサーで、2020年の来日公演でも王子を踊る予定。最初はずいぶんおとなしい印象だなと思って観ていたが、ひとつひとつの動きが誠実で抒情性があり、長身なだけにジュテが華やかに見える。横顔が美しく、ノーブルな雰囲気の持ち主。

スミルノワのオデットが完璧だった。怯えたような表情で全身で哀しみを表現し、塑像のように白鳥の象徴的なシルエットを見せる。ボリショイ・バレエ・シネマは映像がとても綺麗なので、スミルノワの動きも思い切り目を開いて凝視したが、肉眼では捉えられない微細な動き・オーラの放射(!)が超高速で行われていると感じた。どうしたらそういうバレエになるのか。ロパートキナ、ザハロワに比肩する伝説の白鳥だと思う。ティッシのサポートは真剣で、スミルノワとの信頼関係がうかがえた。

この日のボリショイのオーケストラは独特で、マエストロの個性なのだろうが打楽器と低弦を爆発的に鳴らし、一幕は戦争音楽のような過剰なチャイコフスキーだった。舞台とのシンクロはぴったりで、髪の毛一つ分もズレない。金管も木管も正確で、正確過ぎるほどだったが、個人的にオーケストラには別の感動を求める。これはバレエに徹したオーケストラ表現なのだろう。三拍子の一拍目が聴いたこともないほど強く、音響の環境のせいもあるのだろうが、強い圧迫感があった。

これはまさにボリショイだな…と思ったのは、幕間インタビューでトリリンガルの司会の女性がスペイン役の若いダンサーをインタビューしているとき、背後で何とかカメラに収まろうと道化役のブチンツェフとロットバルトのゲラシチェンコが目線を向けて踊っているのだ。いったんカメラアウトしても、次の瞬間にはさらにカメラに近づいて踊って見せる。何分後かには舞台で踊るのだから、エネルギーを温存しておけばいいのにと思うのだが…。ボリショイでキャラクター・ダンサーのクラスレッスンを見学したとき、日本からの何かのスカウトと勘違いしたのか、ダンサーたちがすごいアピール度でこちらの近くまで何度も飛んできたのを思い出した。

このロットバルト=エゴール・グラシチェンコは優秀で、ツィスカリーゼに長く習っていたらしいが、今頭角を表している若手なのだろう。グリゴローヴィチ版のシンプルな衣装とメイクの「偽悪的でない」悪魔を素晴らしく演じた。抑制された演劇性があり、王子の分身=シャドウとしての悪魔を表現した。グリゴローヴィチは演劇的・政治的なメッセージを『白鳥の湖』に込めている。王子は無辜のシンボルではなく、ロットバルトも一面的な悪のシンボルではない。二人で一人の「男」であり、彼らは影のように一体化している。

スミルノワのオディールはオデットと全くの別人で、奇矯で誘惑的な動きを繰り返し王子を翻弄する。そのときの王子は「もう白鳥とは会えないかも知れない。それならこの魅惑的な相手を選ぼう」という決意を見せる。スミルノワのグランフェッテは当然のようにダブルで、軸もブレない。拍手が手拍子になる習慣はいつからなのか知らないが、ボリショイの熱狂した客が次の場面に移ることを惜しむように、スミルノワの黒鳥を舞台に呼び出していた。

最終場では白鳥と黒鳥の群舞が表れる。オデットは他の女に忠誠を誓った男に対して一縷の望みも与えず、氷のように冷たい。もうしでかしてしまった過ちは取り返しがつかないのだ。男女の間の裏切りについても雄弁に語っているようだ。罪の意識に苛まれ、絶望した王子が頭を抱え込んでバレエは終わる。この解釈は本当に見事だと思った。
 白と黒が無限の象徴性を帯びている。人間である限り、陰陽がありダークサイドがある。神はなぜ人間にも白と黒を作ったのか…不完全な人間に何か深い理解を与えるためではなかったのか。混沌とした世界と劇場が頭の中で繋がった。深読みではあるが、そう見るか見ないかは、観客の自由だと思う。

カーテンの内側では、それぞれのダンサーの先生たちが祝福しに弟子のところにやってくる。これも何度も観た景色だ。2017年の来日公演では、悪魔を踊り終えたばかりのイーゴリ・ツヴィルコと写真を撮ったとき凄い力で肩を引き寄せられたのでクラクラした。ボリショイ・スキャンダルなどという映画も作られたが、あの劇場の稽古場は、世界一清潔な場所だと思う。物事の白と黒とは、そんなに単純なものではないのだ。