「中世フィレンツェ」が舞台のユニークなダブルビル。2019年の初演が見事だったことを昨日のように覚えているが、もう6年も前のことで、その間にコロナがあり、不思議な時間が過ぎていたことを実感する。ピットは東京交響楽団、指揮は初演と同じく沼尻竜典氏。幕が開いた瞬間に幻想的な美術とツェムリンスキーのきらびやかな音楽に引き込まれ、夢心地になった。
オスカー・ワイルドの未完の戯曲がもとになっている『フィレンツェの悲劇』は登場人物が3人で、商人シモーネ(バリトン)とその妻ビアンカ(ソプラノ)、彼女の不倫相手であるフィレンツェ大公の跡継ぎグイード(テノール)が登場するが、ほとんどが「寝取られ夫」であるシモーネの独断場。あとの二人はいちゃついたり状況説明のようなセリフを歌ったりするが、物語の芯にあるのは、現代から見ると時代錯誤なほど亭主関白で男性優位的思想を持ったシモーネなのである。妻をモノ扱いし、小間使いのように働かせ、人権を認めていない。物語はビアンカと貴族のグイードの不倫のシーンから始まるが、多くの観客はこの二人が睦み合うのも当然に感じられ、横暴なシモーネには共感しがたい違和感を感じる。その上、暴君夫は目の前にいるのが大公の息子だとわかると、色々な商品(豪華な織物など)を相手におべっかを使って売りつけようとする。その媚びた様子に、今はやりの「上納」という単語がチラついたりする。
演出は巧みで、粟國淳さんのプロダクションではいつも装置の美しさに魅了されるが、本作でも現実と幻想世界が織り交ぜられたような美術と照明が素晴らしく、この舞台で歌う歌手たちが自然と物語に入っていける素地を用意していた。衣裳も美しい。「織物」がキーとなる物語なのだから、歌手たちのコスチュームが美しくあることは必須だ。ビアンカ役は長身のナンシー・ヴァイスバッハで、二人の男たちより背が高く、女神のような存在感。声にも気品がある。そういえば初演の齊藤純子さんもとても美しい方だった。前回は意識して観ていなかったが、歌手の立ち位置や芝居も緻密に作られていて、男と女の様々な深層心理が彼らの所作や視線によって視覚化されている。ここまできっちりプランニングされている方が、歌手にとっても歌いやすいと思う。
シモーネ役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは新国『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でのハンス・ザックスの名演が鮮烈な記憶だが、この短いオペラでも素晴らしい存在感だった。寝取られた男の苛立ちと怒り、相手の男に媚びるふりをして最後は短剣で容赦なく殺してしまう。この意識の流れが物語の核をなすもので、ほとんど一人芝居のような印象が残った。大公の息子を歌ったテノール歌手のデヴィッド・ポロメイもいい声で死にっぷりもなかなかだったが、バリトンがあれだけ魅せる演技をしては、テノールは「歌い損」のうちに入るのかも知れない。ラストはビアンカが悪どいほどの女の狡猾さを見せるが、それも「大人の御伽噺」として納得できるのは、演出とオーケストラの「異次元の美」あってのことだった。
プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』では登場人物がどっと増える。個人的にこのオペラが好きで、三部作で上演されるときは、『修道女アンジェリカ』の後で、こうも教会権力はコテンパンに揶揄されるのかとびっくりするのだが、最後はよくできた喜劇に「わっ」と涙が出る。新国には8年ぶりの登場となるピエトロ・スパニョーリが題名役を歌い、稽古写真より20歳くらい若返っていてびっくり。すごい美中年に変身していて、なるほどジャンニ・スキッキは21歳の娘をもつ50歳という設定だから、61歳の白髪のスパニョーリが「微妙な若作り」をするのは演劇的に辻褄が合う。それにしても、このオペラの装置は下手側にむかって結構な傾斜がついており、デスクの上のペンや小物よりも人間たちが小さい、という設定なので、デスクの坂道を行ったり来たりする歌手は大変。大きな天秤には死人のブオーゾ(黙役が名演)をはじめ様々なものが乗るのも面白く、あれが稽古場にあったとは考えづらいから、どういう緊張感で本番を迎えたのか想像してしまった。
ラウレッタと結婚したいリヌッチョが歌う『フィレンツェは花咲く樹のように』は、村上公太さんがギターを抱えて朗々と歌い、高音も勇敢。この曲もひとつのハイライトであり、旋律はその後にもライトモティーフ的に繰り返される。50年代から70年代のレトロなファッションに身を包んだ遺産相続人たちは贅沢なキャスティングで、日本が誇るバッソ・ブッフォ、志村文彦さん、畠山茂さんも大活躍。シモーネ河野鉄平さんは本作のリハーサルを縫って『さまよえるオランダ人』の代役をこなしていた。おじいちゃんの所作でよろけながら歌う河野さんの姿が、観ていて有難かった。
真のハイライトである「私のお父さん」を歌ったラウレッタ役の砂田愛梨さんはイタリア在住のソプラノ歌手で、今回初めて聴いたが、力んだところのない伸びやかでクリアな歌声で、とにかく自然なラウレッタだった。日々の研鑽もあると思うが、イタリア女性を演じるということにわざとらしさが皆無で、ジャンニと本当の親子に見えたのが良かった。
プッチーニはオペラ作曲家としては寡作で、書かれたものほぼ全てが名作なので文句は言えないが、60歳で書いた『三部作』の『ジャンニ・スキッキ』は、長生きしていたら喜劇でも大いに才能を振るっただろうなと思わせる凄い作品だ。ジャンニが遺書の改竄に成功し、身内の者どもが怒り狂って家の中のものを強奪して散り散りになるシーンなど、オーケストラはかなり前衛的でサイケデリック。演劇の可能性を知り尽くし、映画の時代も先取りしていた。同時に、ラストで主人公が物語作家と同化(?)して観客に物申すところは、『ファルスタッフ』を思い出さずにはいられない。私はどうかしているのか、二つのオペラのラストシーンのどちらを観ても涙を流してしまう。「この嵐は何だったのか」と、その意味を、あらゆる負荷から突然抜け出してきた人間が、真顔で問いかけてくる。
ピエトロ・スパニョーリは今回がこのオペラのロール・デビューとなった。生き生きと役を生き、特に『コジ』のデスピーナばりに変声でにせの遺言書を作らせる芝居が大変愉快だった。沼尻さんと東響の最高の音楽、破格に面白い粟國さんの演出、カーテンコールに現れた主役が素晴らしい気持ちでそこに立っているのが分かり、『フィレンツェの悲劇』のトーマス・ヨハネス・マイヤーもこの舞台で役を歌えたことに感動している様子だったので、新しい気持ちでオペラに感動している自分に気づいた。オペラ歌手が幸せを感じていることが、自分にとっての一番の幸せ。それ以外にはない。二人の主役の爆発的な「気分」が客席にまで飛んできて、いつまでも拍手していたくなった。2/6、2/8にも公演あり。
オスカー・ワイルドの未完の戯曲がもとになっている『フィレンツェの悲劇』は登場人物が3人で、商人シモーネ(バリトン)とその妻ビアンカ(ソプラノ)、彼女の不倫相手であるフィレンツェ大公の跡継ぎグイード(テノール)が登場するが、ほとんどが「寝取られ夫」であるシモーネの独断場。あとの二人はいちゃついたり状況説明のようなセリフを歌ったりするが、物語の芯にあるのは、現代から見ると時代錯誤なほど亭主関白で男性優位的思想を持ったシモーネなのである。妻をモノ扱いし、小間使いのように働かせ、人権を認めていない。物語はビアンカと貴族のグイードの不倫のシーンから始まるが、多くの観客はこの二人が睦み合うのも当然に感じられ、横暴なシモーネには共感しがたい違和感を感じる。その上、暴君夫は目の前にいるのが大公の息子だとわかると、色々な商品(豪華な織物など)を相手におべっかを使って売りつけようとする。その媚びた様子に、今はやりの「上納」という単語がチラついたりする。
演出は巧みで、粟國淳さんのプロダクションではいつも装置の美しさに魅了されるが、本作でも現実と幻想世界が織り交ぜられたような美術と照明が素晴らしく、この舞台で歌う歌手たちが自然と物語に入っていける素地を用意していた。衣裳も美しい。「織物」がキーとなる物語なのだから、歌手たちのコスチュームが美しくあることは必須だ。ビアンカ役は長身のナンシー・ヴァイスバッハで、二人の男たちより背が高く、女神のような存在感。声にも気品がある。そういえば初演の齊藤純子さんもとても美しい方だった。前回は意識して観ていなかったが、歌手の立ち位置や芝居も緻密に作られていて、男と女の様々な深層心理が彼らの所作や視線によって視覚化されている。ここまできっちりプランニングされている方が、歌手にとっても歌いやすいと思う。
シモーネ役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは新国『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でのハンス・ザックスの名演が鮮烈な記憶だが、この短いオペラでも素晴らしい存在感だった。寝取られた男の苛立ちと怒り、相手の男に媚びるふりをして最後は短剣で容赦なく殺してしまう。この意識の流れが物語の核をなすもので、ほとんど一人芝居のような印象が残った。大公の息子を歌ったテノール歌手のデヴィッド・ポロメイもいい声で死にっぷりもなかなかだったが、バリトンがあれだけ魅せる演技をしては、テノールは「歌い損」のうちに入るのかも知れない。ラストはビアンカが悪どいほどの女の狡猾さを見せるが、それも「大人の御伽噺」として納得できるのは、演出とオーケストラの「異次元の美」あってのことだった。
プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』では登場人物がどっと増える。個人的にこのオペラが好きで、三部作で上演されるときは、『修道女アンジェリカ』の後で、こうも教会権力はコテンパンに揶揄されるのかとびっくりするのだが、最後はよくできた喜劇に「わっ」と涙が出る。新国には8年ぶりの登場となるピエトロ・スパニョーリが題名役を歌い、稽古写真より20歳くらい若返っていてびっくり。すごい美中年に変身していて、なるほどジャンニ・スキッキは21歳の娘をもつ50歳という設定だから、61歳の白髪のスパニョーリが「微妙な若作り」をするのは演劇的に辻褄が合う。それにしても、このオペラの装置は下手側にむかって結構な傾斜がついており、デスクの上のペンや小物よりも人間たちが小さい、という設定なので、デスクの坂道を行ったり来たりする歌手は大変。大きな天秤には死人のブオーゾ(黙役が名演)をはじめ様々なものが乗るのも面白く、あれが稽古場にあったとは考えづらいから、どういう緊張感で本番を迎えたのか想像してしまった。
ラウレッタと結婚したいリヌッチョが歌う『フィレンツェは花咲く樹のように』は、村上公太さんがギターを抱えて朗々と歌い、高音も勇敢。この曲もひとつのハイライトであり、旋律はその後にもライトモティーフ的に繰り返される。50年代から70年代のレトロなファッションに身を包んだ遺産相続人たちは贅沢なキャスティングで、日本が誇るバッソ・ブッフォ、志村文彦さん、畠山茂さんも大活躍。シモーネ河野鉄平さんは本作のリハーサルを縫って『さまよえるオランダ人』の代役をこなしていた。おじいちゃんの所作でよろけながら歌う河野さんの姿が、観ていて有難かった。
真のハイライトである「私のお父さん」を歌ったラウレッタ役の砂田愛梨さんはイタリア在住のソプラノ歌手で、今回初めて聴いたが、力んだところのない伸びやかでクリアな歌声で、とにかく自然なラウレッタだった。日々の研鑽もあると思うが、イタリア女性を演じるということにわざとらしさが皆無で、ジャンニと本当の親子に見えたのが良かった。
プッチーニはオペラ作曲家としては寡作で、書かれたものほぼ全てが名作なので文句は言えないが、60歳で書いた『三部作』の『ジャンニ・スキッキ』は、長生きしていたら喜劇でも大いに才能を振るっただろうなと思わせる凄い作品だ。ジャンニが遺書の改竄に成功し、身内の者どもが怒り狂って家の中のものを強奪して散り散りになるシーンなど、オーケストラはかなり前衛的でサイケデリック。演劇の可能性を知り尽くし、映画の時代も先取りしていた。同時に、ラストで主人公が物語作家と同化(?)して観客に物申すところは、『ファルスタッフ』を思い出さずにはいられない。私はどうかしているのか、二つのオペラのラストシーンのどちらを観ても涙を流してしまう。「この嵐は何だったのか」と、その意味を、あらゆる負荷から突然抜け出してきた人間が、真顔で問いかけてくる。
ピエトロ・スパニョーリは今回がこのオペラのロール・デビューとなった。生き生きと役を生き、特に『コジ』のデスピーナばりに変声でにせの遺言書を作らせる芝居が大変愉快だった。沼尻さんと東響の最高の音楽、破格に面白い粟國さんの演出、カーテンコールに現れた主役が素晴らしい気持ちでそこに立っているのが分かり、『フィレンツェの悲劇』のトーマス・ヨハネス・マイヤーもこの舞台で役を歌えたことに感動している様子だったので、新しい気持ちでオペラに感動している自分に気づいた。オペラ歌手が幸せを感じていることが、自分にとっての一番の幸せ。それ以外にはない。二人の主役の爆発的な「気分」が客席にまで飛んできて、いつまでも拍手していたくなった。2/6、2/8にも公演あり。