小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ボリショイ・バレエ団『ジゼル』(6/4)

2017-06-06 09:21:25 | クラシック音楽
現在、総勢230名の引っ越し公演を行っているボリショイ・バレエ団。今年は来日60周年と、ロシアの総合芸術祭「ロシアン・シーズン」の開幕と重なって、ボリショイの初日も祝祭的なムードが際立っていた。
6/4はオブラスツォーワ/ツヴィルコ組(マチネ)とザハロワ/ロヂキン組(ソワレ)の二回公演で、どちらも超満員。一階前方ブロックの最後列の補助席で鑑賞する。
オブラスツォーワはマリインスキーからの移籍後、ボリショイとともに来日するのはこれが初めてで、去年双子の母になるなど実人生にも喜ばしいことがあった直後だというが、ジゼル登場のシーンでは母どころか16歳くらいのティーンエイジャーに見えた。可憐で愛らしく、一幕では全身で恋する歓喜を表現し、アダンの音楽に対する反応も素晴らしかった。アルブレヒト役のイーゴリ・ツヴィルコは前半では少しばかり地味に見えたが、堅実なタイプで技術にも基礎の厚みを感じさせ、二幕のラストシーンでは見事なアントルシャ・シスの連続技で会場を熱狂させた。
モスクワ国立バレエ・アカデミー出身で、コールドとして来日公演に参加したことはあるが、ソリストとして日本で踊るのは始めてだという。終演後に話を聞いたところ、マリインスキー出身のオブラスツォーワの「優雅さ」を大変尊敬しており、演劇性を強調するボリショイ・バレリーナとは少しばかり違う魅力に、パートナーとして影響されていると語っていた。
二幕のウィリたちの群舞は幻想的で、コールドの質が向上しているのを実感する。静止したときのシルエットが切ってそろえたようで、高度な規律が現在のバレエ団を支えていることが伝わってきた。

それにしても、ボリショイ劇場管弦楽団の「ロシア風味」の演奏には、なかなか腑に落ちるものがあって楽しかった。ステップの雰囲気が変わるところでは、思い切りサウンドの性格も変わり、ジゼルとアルブレヒトの音楽が本当に「女の音楽」と「男の音楽」になっていた。ジゼル一人のシーンにしても、感情面で強い変化が起こると、オケも振動するような大きな音になるのだ。ボリショイ・バレエの演劇性…とは、伴奏のオケのこの「濃い」性格にも表れていて、実に迷いがない。同じロマンティック・バレエでも、ロシアとフランスでは全く表現の質が変わるのは、オケのキャラクターによるところが大きいのかも知れない。「ズン」というアクセントが入ることで、バレエの印象もだいぶ変わってくるのである。

ところで、前回の来日公演との大きな違いはバレエ監督の交代で、13年間マリインスキー・バレエの芸術監督を務め、その後ミラノ・スカラ座バレエ団の監督に任命されたマハール・ワジーエフがセルゲイ・フィーリンの後任となった(2016年3月より)。記者会見でも前任者のフィーリンの「フィ」の字も出なかったが、それくらいバレエ団の空気は刷新されており、ワジーエフが強い支配力でボリショイを統率しているのが会見での彼の言葉からも理解できた。
衝撃的だったのは、6/3に行われたゲネプロで、舞台の上で大声を出してバレリーナをしごいている人がいると思ったらワジーエフその人で、ザハロワのロマンティックなソロの最中にも、何やかにやとロシア語で発破をかけているのだ。
ゲネプロで、客席から大声を出す監督というのは見たことがあるが、舞台の上でジゼルの隣で怒号(?)を散らしているのは初めて見た。
まったくロマンティックな光景ではない。ザハロワも演技に入り込むどころの話ではなかっただろう。
本番でも素晴らしいウィリの演技を見て「でも彼女たちの頭の中にあるのは『ワジーエフに怒られませんように』ということばかりだろうなぁ…」と考えていた。

しかし、その光景は素晴らしい覚醒を与えてくれた。これこそが芸術の本質であり、ロシア・バレエの美なのではないかと思った。
客席から夢ばかりを見ていたが、ジゼルの物語の幻想性は人間が作っているもので、夢を完璧に近づけようとすればするほど現実面での試練が苛酷になる。「ダンサーが生き生きと楽しそうに踊っている」という感想は、間違ってはいないが、舞台に立たない人間には想像もつかないほどのメンタルの強さと、準備にかけた忍耐がその境地を作り出しているのだ。
ロシア・バレエの美は、過酷さと恐怖から成り立っている…ゲネプロの後、舞台裏ではロヂキンがげっそりとこけた頬をして、シューズを脱いだタイツの足で歩いているのを見た。これがプロフェッショナルの世界なのだ…恐怖のゲネプロは燦然たる本番として昇華され、カーテンコールでの熱狂へつながっていくのである。

ソワレのザハロワ&ロヂキン組は、この上演が日本におけるボリショイ上演の伝説のひとつになるのではないか…と思われるほどの完成度で、コールドの緊張感も格別だった。
ザハロワは登場の瞬間から「踊る国宝」で、とても村娘には見えなかったが、完璧なパの連続と細やかな表情はバレエというジャンルを超えた何かの極致を実現しているようで、ジゼル発狂のシーンからは、舞台全体が巨大な絵画と化したような感触があった。一秒一秒が引き延ばされ、フリーズされた画像になり、ザハロワの髪の毛の一本一本が物語の悲劇性を表現していた。
ロパートキナの「白鳥」を見た時と似た感覚があった。ジゼルの発狂は女性の普遍的な「哀しみ」と「無念」を凝縮したもので、それはあらゆる時代・あらゆる場所で空気のように浮遊している。
それを舞台という空間がとらえて、凝縮化する。世のはじめから隠されてきたことを暴かれたような、凄まじい瞬間だった。ジゼルは、恋人の姿も判別できないほど錯乱するが、自分の母親だけは誰かわかる。ザハロワが母親役のアントローポワに救いを求めて全身を委ねるように抱き着く場面で、震撼せずにはいられなかった。
ジゼルで母と娘の関係をこれほど鮮やかに感じた瞬間もなかったからだ。

アルブレヒト役のデニス・ロヂキンは短期間でボリショイの大スターになり、今や国宝ザハロワの相手役という重責を担っているが、この日も天性の演技力で伯爵の優雅さ、優しさ、情愛深さを表現し、20代の今でしか見せられない思い切りのよい技術を見せた。
ロヂキンの技術について、厳しい意見もあると通訳のロシア人スタッフから聞いたが、私は何の問題もないのではないかと思う。着地はボリショイ・ダンサーと思えないほど静かで(!)、オペラ座のゲストでも違和感がないように思える。それまで受けてきた教育がキャラクター・ダンス主体で、ボリショイに入団したのもキャラクターを踊るつもりだったからというのは最初のインタビューで彼から聴いたが、ツィスカリーゼに励まされて猛特訓を受け、現在の地位を手に入れた。
何よりロマンティックな美貌は彼の宝物で、自分がティーンエイジャーだった頃にこういうダンサーのファンになったら大変だっただろうなと思った。ある程度「枯れた」今だからこそ、平気で鑑賞することが出来るのだ。
ボリショイ劇場管はマチネとソワレでは音のキャラクターが異なり、特に弦はジゼルのダンサーの性格に合わせて音色を変化させていた。指揮者は舞台を見ながら振るので、自然と違う音楽になるのかも知れない。
『白鳥の湖』『パリの炎』でも、このオーケストラの活躍が楽しみである。