ネルソン・フレイレの12年ぶりのソロ・リサイタルをすみだトリフォニーホールで聴いた。藤原歌劇団の『ノルマ』をマチネで鑑賞し、60代のデヴィーアの奇跡の歌声を聴いて脳がいっぱいになっていたことと、悪天候で体調が万全でなかったこともあって錦糸町はキャンセルしようかと思っていたが、行ってよかった。音楽会が聴き手の人生に変化を与えるものだと、身をもって知った貴重な晩だった。
フレイレはいつものように謙虚なたたずまいで登場。久々のトリフォニーの2階はステージから遠く、ピアノが小さく見えたが、最初の一音で不安が吹き飛んだ。バッハ/ジロティ編『前奏曲ト短調BWV535』から、心臓の奥深くに響く特別な音だった。神妙で暗く、重く悲劇的なタッチで、十字架を背負うキリストの姿が忽ち心に立ち現れた。
無辜で捕らわれた者が、牢獄から星空を見上げているような囚われの感情がこみ上げ、これは一体何なのだろうかと不思議に感じられた。
ニュースで毎日のように報道される人間の愚かさに対して、すべて責任を負っているジャーナリスティックな音にも思えた。ブゾーニ編曲のコラール2曲と、有名なヘス編曲の『主よ人の望みの喜びよ』と4曲続けてバッハが演奏され、それだけで涙腺が決壊してしまった。
リサイタルに際してこのような反応をしてしまう自分も不思議に思えた。シリアスで真剣な音楽を聴くほどに、自らの軽薄さと愚かさを痛感し、懺悔したい想いにとらわれる。
批評という活動とは矛盾しているようだが、こうした内面の熱狂に対しては抵抗が出来ない。突き放して対象化するにはあまりに演奏に価値がありすぎ、自分の知性など太刀打ちできないと感じるのだ。
シューマンの『幻想曲 ハ長調Op.17』では、完璧なテクニックの持ち主であるフレイレが、演奏が華美になりすぎなようペダルを極限まで抑制しているのがわかった。2楽章の朗々たるパッセージは、人間が刻苦勉励にのみ到達できる歓喜の心境を表しているようで、ピアニストの真摯な日常が透けて見えた。シューマンの健全さと哲学性、見知らぬ者にも握手を求めるような博愛の精神をあの2楽章から感じた。3楽章の優美さ、慈愛のこもった穏やかな歌には芸術の至高性を感じずにはいられなかった。
古代ギリシアの哲学者の競争相手が、詩人であったということを思い出した。詩に勝利するためにピタゴラスもアリストテレスも腐心したのだが、芸術家は両方を表現することが出来るのだ…そんなことを考えながら、またしても涙が止まらなかった。リサイタルでは、演奏家しか見るものがないので、フレイレの姿を見て涙を禁じることのほうが難しかった。曲を終えると必ず4回お辞儀をする。三方向に深く会釈したあと、軽くもう一度お辞儀をするのだ。律儀なほど4回、なのである。
後半のヴィラ=ロボスは前半からの流れを変えるインターミッション的な効果を醸し出し、『ブラジル風バッハ』第4番より前奏曲『赤ちゃんの一族』から「色白の娘<陶器の人形>」「貧乏な娘<ぼろ切れの人形>」「小麦色の娘<張りぼての人形>」の三曲が、ムソルグスキーやドビュッシーを彷彿させる世界をあらわした。イマジナティヴで魔術的なタッチに、フレイレが「出来ないことは何もない」ピアニストであることを確認した。
驚いたのは、ショパンの『ピアノソナタ第3番Op.58』で、前半のバッハでかくも宗教的な気分を喚起させてくれたフレイレが、無神論者的なショパンをどう演奏するのか想像もつかなかった。アルゲリッチが娘ステファニーの監督した映画で「ショパンは嫌い」と語っていたのを思い出し、フレイレがちゃんとショパンをプログラムに入れてくれたことも嬉しかったのだ。
何と、壮麗で自由奔放で、憶するもののないショパンの世界が展開された。これはフレイレしか表現することの出来ないショパンで、有り余るほどのテクニック(スケルツォ楽章では超絶技巧のインフレーションともいうべき事態が起こっていた)、絢爛たる高音のパッセージと、コントラバスのような強調された低音は、世界で最もゴージャスなオーケストラを想像させた。めくるめく詩の世界であり、善悪を超えた霊力のアートを完成させたのがショパンであり、その真髄をピアニストは隈なく表現した。
フィナーレ楽章では、整合性から逸脱する寸前のテンポが採用され、獰猛な嵐のようになった音の粒粒が水晶のごとくクラッシュした。バッハの神妙さに首を垂れていた自分が、再び電撃的なアートの霊感に打たれた瞬間だった。
自分を安定化させる小さなポリシーや、狭い見識から成るアイデンティティが、いかに馬鹿馬鹿しいものか思い知らされた。リサイタルがこのような自由な美と思想を表現出来ることに驚き、人間性の本質にこのようなアクロバティックな切り込み方をする芸術家の在り方に骨の髄まで震撼したのである。
うわべを飾って生きることは虚しい。ニュースを見ても、政治家を戯画化して安心している何もできない自分がどこかにいる。戯画化して見ることで、終わっているのだ。それはひょっとして自分自身に対しても、同じことをしているのではないか。
12年ぶりのフレイレのリサイタルは、会場を感動で満たし、私の精神を変容させた。
ホールを出ると嵐はますます激しくなり、穏やかさとユーモアが交互に現れた4曲のアンコールを反芻しながら水びだしになって駅へ駆け込んだ。
フレイレはいつものように謙虚なたたずまいで登場。久々のトリフォニーの2階はステージから遠く、ピアノが小さく見えたが、最初の一音で不安が吹き飛んだ。バッハ/ジロティ編『前奏曲ト短調BWV535』から、心臓の奥深くに響く特別な音だった。神妙で暗く、重く悲劇的なタッチで、十字架を背負うキリストの姿が忽ち心に立ち現れた。
無辜で捕らわれた者が、牢獄から星空を見上げているような囚われの感情がこみ上げ、これは一体何なのだろうかと不思議に感じられた。
ニュースで毎日のように報道される人間の愚かさに対して、すべて責任を負っているジャーナリスティックな音にも思えた。ブゾーニ編曲のコラール2曲と、有名なヘス編曲の『主よ人の望みの喜びよ』と4曲続けてバッハが演奏され、それだけで涙腺が決壊してしまった。
リサイタルに際してこのような反応をしてしまう自分も不思議に思えた。シリアスで真剣な音楽を聴くほどに、自らの軽薄さと愚かさを痛感し、懺悔したい想いにとらわれる。
批評という活動とは矛盾しているようだが、こうした内面の熱狂に対しては抵抗が出来ない。突き放して対象化するにはあまりに演奏に価値がありすぎ、自分の知性など太刀打ちできないと感じるのだ。
シューマンの『幻想曲 ハ長調Op.17』では、完璧なテクニックの持ち主であるフレイレが、演奏が華美になりすぎなようペダルを極限まで抑制しているのがわかった。2楽章の朗々たるパッセージは、人間が刻苦勉励にのみ到達できる歓喜の心境を表しているようで、ピアニストの真摯な日常が透けて見えた。シューマンの健全さと哲学性、見知らぬ者にも握手を求めるような博愛の精神をあの2楽章から感じた。3楽章の優美さ、慈愛のこもった穏やかな歌には芸術の至高性を感じずにはいられなかった。
古代ギリシアの哲学者の競争相手が、詩人であったということを思い出した。詩に勝利するためにピタゴラスもアリストテレスも腐心したのだが、芸術家は両方を表現することが出来るのだ…そんなことを考えながら、またしても涙が止まらなかった。リサイタルでは、演奏家しか見るものがないので、フレイレの姿を見て涙を禁じることのほうが難しかった。曲を終えると必ず4回お辞儀をする。三方向に深く会釈したあと、軽くもう一度お辞儀をするのだ。律儀なほど4回、なのである。
後半のヴィラ=ロボスは前半からの流れを変えるインターミッション的な効果を醸し出し、『ブラジル風バッハ』第4番より前奏曲『赤ちゃんの一族』から「色白の娘<陶器の人形>」「貧乏な娘<ぼろ切れの人形>」「小麦色の娘<張りぼての人形>」の三曲が、ムソルグスキーやドビュッシーを彷彿させる世界をあらわした。イマジナティヴで魔術的なタッチに、フレイレが「出来ないことは何もない」ピアニストであることを確認した。
驚いたのは、ショパンの『ピアノソナタ第3番Op.58』で、前半のバッハでかくも宗教的な気分を喚起させてくれたフレイレが、無神論者的なショパンをどう演奏するのか想像もつかなかった。アルゲリッチが娘ステファニーの監督した映画で「ショパンは嫌い」と語っていたのを思い出し、フレイレがちゃんとショパンをプログラムに入れてくれたことも嬉しかったのだ。
何と、壮麗で自由奔放で、憶するもののないショパンの世界が展開された。これはフレイレしか表現することの出来ないショパンで、有り余るほどのテクニック(スケルツォ楽章では超絶技巧のインフレーションともいうべき事態が起こっていた)、絢爛たる高音のパッセージと、コントラバスのような強調された低音は、世界で最もゴージャスなオーケストラを想像させた。めくるめく詩の世界であり、善悪を超えた霊力のアートを完成させたのがショパンであり、その真髄をピアニストは隈なく表現した。
フィナーレ楽章では、整合性から逸脱する寸前のテンポが採用され、獰猛な嵐のようになった音の粒粒が水晶のごとくクラッシュした。バッハの神妙さに首を垂れていた自分が、再び電撃的なアートの霊感に打たれた瞬間だった。
自分を安定化させる小さなポリシーや、狭い見識から成るアイデンティティが、いかに馬鹿馬鹿しいものか思い知らされた。リサイタルがこのような自由な美と思想を表現出来ることに驚き、人間性の本質にこのようなアクロバティックな切り込み方をする芸術家の在り方に骨の髄まで震撼したのである。
うわべを飾って生きることは虚しい。ニュースを見ても、政治家を戯画化して安心している何もできない自分がどこかにいる。戯画化して見ることで、終わっているのだ。それはひょっとして自分自身に対しても、同じことをしているのではないか。
12年ぶりのフレイレのリサイタルは、会場を感動で満たし、私の精神を変容させた。
ホールを出ると嵐はますます激しくなり、穏やかさとユーモアが交互に現れた4曲のアンコールを反芻しながら水びだしになって駅へ駆け込んだ。