読響2018/2019シーズンのスタートとなる演奏会を池袋の東京芸術劇場で聴いた(4/8)。
今期は2010年から常任指揮者を務めるシルヴァン・カンブルランの最終シーズンとなるが、「春」「死と再生」を想起させるプログラムはとても高水準な内容だった。
ラモーの歌劇『ダルダニュス』組曲から20分にわたる抜粋は、「スコアを眺めているとさまざまな物語が浮かんでくる」というカンブルランのファンタジーが詰め込まれたフランス色濃厚な演奏で、オケの切れ味のいいフレージングと一糸の乱れもない合奏から、メンバー全員の格別に充実した気力が伺えた。
『ダルダニュス』は古代ギリシアを舞台とする悲劇をラモーがオペラ化した作品だが、組曲では豪華な酒宴を描いたタペストリーのような雅やかなヴィジョンが展開される。
ラモーが終わった段階で、何か今日のこのコンサートが特別な場であり時間であるような気がして仕方なかった。なんと形容したらいいか…芸劇の空間がとても明るかった。当たり前のことだが、特別な照明が設置されていたわけではない。ただ、漂っている空気がとても軽やかでキラキラと輝いていた。これは人の精神の明るさで、科学的に計測できないからといってこの特別な感覚を無視したり否定したりすることは出来ない。
ヴァイオリニストの佐藤俊介さんが登場し、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番 トルコ風』が始まった。プログラムによると佐藤さんのヴァイオリンは2007年及び2009年パリ製のシュテファン・フォン・ベアだという。テツラフもモダン・ヴァイオリンを使うが、ストラドを使わない演奏家にはなぜか不思議な愛着があって、佐藤さんのこの日の演奏にも強く惹かれるものがあった。最初の一音が、微塵の濁りも余計なメランコリーもない明朗な音で、エレクトリック・ヴァイオリンにも似た鋭利なサウンドだった。それが、モーツァルトのイ長調のハイテンションなこの曲には非常にフィットしていて、電撃的な春の目覚めのイメージだった。
それにしても、オーケストラの呼吸感が本当に素晴らしい。積極性に溢れ、水のように透明で、何の制約もない自由な雰囲気だった。勿論、完璧な合奏のための規律がなければ音楽は成立しないのだが、「ねばならない」という強制力がどこにも見当たらず、一秒ごとに色鮮やかな音楽を創造していく喜悦のみが溢れ出していた。
オーケストラは指揮者のものだ、ということを改めて実感した。指揮者が全員を支配しているというより、全員がカンブルランだったのだ。指揮者の思考や美意識を一人ひとりが吸い取って、オケ全体がひとつの人格になっているのがわかった。そういう演奏会はたくさんあるようで滅多にない。
読響がカンブルランとやった過去のたくさんの演奏会を思い出し、自分がプレイヤーならとっとと逃げ出したくなっていただろう(!)『アッシジの聖フランチェスコ』を、見事にやり遂げたいきさつなども思い出された。十円はげが出来てもおかしくない「苦役」ともいえる難曲をクリアして、読響はさらにタフになり柔軟になり、勇敢になった。
カンブルランにインタビューしたとき、面白かった。マエストロが音楽について語りだすと、聞き手である私はどこかに消えてしまうような気がした。「アッシジ…」についてたずねると、それを語るカンブルランはどんどんピンク色になり、古代の詩人のように雄弁になり、ここではないどこかへ行ってしまいそうな人に見えるのだった。現代にこんな巨大なパワーをもつ人がいるのだ。
マエストロが読響を理想のオケに導いていて、彼が全員を「引き上げて」いるのだ…とずっと思っていたが、この日のコンサートを聴いて、そうとばかりは言っていられないとも感じた。走りながら指揮台に上るカンブルランは恐ろしいほど毎回真剣で、あのような演奏会は本人も覚悟して努力を重ねていかなければ続けられないだろう。
カンブルランは読響のお父さん、という印象も変わった。キャプテン(船長)であり、隊長であり、料理長であり…やはり「指揮者」なのだ。
指揮者の導く道と、運命をともにするオーケストラ、ということに何より興味がある。来日するたびによくなるネゼ=セガンとフィラデルフィア管、ソヒエフとトゥールーズ・キャピトル管、毎回素晴らしいパッパーノとサンタ・チェチーリア、インバルと都響、ノットと東響、プレトニョフと東フィル…それを思うと、ウィーン・フィルの来日公演では一度も感動したことがない。「どのオケがすごい」ということを「カブトムシとクワガタのどっちが強い」という基準で語ることに自分は全く興味がない。
4/8に聴いたカンブルランと読響は、間違いなく世界一のオーケストラで、後半のベートーヴェンの7番では目を開けていられないほどまぶしい音が、すべての楽章のすべての瞬間に溢れ出した。カンブルラン特有のきびきびとしたアクセントが飛沫をあげるたびに、その一秒一秒に凝縮された凄いエネルギーと時間を感じずにはいられなかった。
各パートの首席をはじめ楽員全員が、美しい動きで最高のサウンドを生み出し、その持続が途切れることはなかった。
「自分の思い入れが強すぎて、客観性を失っているのではないか」と、たびたび目をつぶって無心に聴こうとしたが、目をつぶっていても全身の皮膚から光の粒子のようなものがしみ込んできて、刺激された心が身体をつきやぶって何かを主張してくる。その不思議な感覚はオーケストラの演奏会でしか体感できないものだ。
プレストからアレグロ・コン・ブリオへ音楽は勢いをつけていくが、勢い任せの空疎な狂騒ではなく、人間の精神の祝福の表現だった。時間の自然な流れに驚き、明るく勇敢な意図をもって進めば、最後には爆発的な喜びが待っている…カンブルランが、オケと過ごした時間をどうとらえているか、全員がどうとらえているか、高貴な認識を受け取った。それはありきたりの説教などとは別次元の人間の「正道」で、逃げもごまかしもきかない芸術の真の姿で、こういうものを見たくて芸術を追い求めてきたのだと自分の人生を振り返った。
不思議なことに、カンブルランは凄い演奏が終わるといつも意外なほどあっさりと幕に消えてしまう。音楽の時間が素晴らしすぎて、それが終わると虚無感を感じてしまうのだろうか。いわゆる「一般参賀」があってもおかしくない演奏会だったが、ステージも客席もわりとすぐに散り散りになってしまった。
それでも、夢に出てくるほどこの日の演奏会は忘れられないものになり、日々心の中で反芻している。
今期は2010年から常任指揮者を務めるシルヴァン・カンブルランの最終シーズンとなるが、「春」「死と再生」を想起させるプログラムはとても高水準な内容だった。
ラモーの歌劇『ダルダニュス』組曲から20分にわたる抜粋は、「スコアを眺めているとさまざまな物語が浮かんでくる」というカンブルランのファンタジーが詰め込まれたフランス色濃厚な演奏で、オケの切れ味のいいフレージングと一糸の乱れもない合奏から、メンバー全員の格別に充実した気力が伺えた。
『ダルダニュス』は古代ギリシアを舞台とする悲劇をラモーがオペラ化した作品だが、組曲では豪華な酒宴を描いたタペストリーのような雅やかなヴィジョンが展開される。
ラモーが終わった段階で、何か今日のこのコンサートが特別な場であり時間であるような気がして仕方なかった。なんと形容したらいいか…芸劇の空間がとても明るかった。当たり前のことだが、特別な照明が設置されていたわけではない。ただ、漂っている空気がとても軽やかでキラキラと輝いていた。これは人の精神の明るさで、科学的に計測できないからといってこの特別な感覚を無視したり否定したりすることは出来ない。
ヴァイオリニストの佐藤俊介さんが登場し、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番 トルコ風』が始まった。プログラムによると佐藤さんのヴァイオリンは2007年及び2009年パリ製のシュテファン・フォン・ベアだという。テツラフもモダン・ヴァイオリンを使うが、ストラドを使わない演奏家にはなぜか不思議な愛着があって、佐藤さんのこの日の演奏にも強く惹かれるものがあった。最初の一音が、微塵の濁りも余計なメランコリーもない明朗な音で、エレクトリック・ヴァイオリンにも似た鋭利なサウンドだった。それが、モーツァルトのイ長調のハイテンションなこの曲には非常にフィットしていて、電撃的な春の目覚めのイメージだった。
それにしても、オーケストラの呼吸感が本当に素晴らしい。積極性に溢れ、水のように透明で、何の制約もない自由な雰囲気だった。勿論、完璧な合奏のための規律がなければ音楽は成立しないのだが、「ねばならない」という強制力がどこにも見当たらず、一秒ごとに色鮮やかな音楽を創造していく喜悦のみが溢れ出していた。
オーケストラは指揮者のものだ、ということを改めて実感した。指揮者が全員を支配しているというより、全員がカンブルランだったのだ。指揮者の思考や美意識を一人ひとりが吸い取って、オケ全体がひとつの人格になっているのがわかった。そういう演奏会はたくさんあるようで滅多にない。
読響がカンブルランとやった過去のたくさんの演奏会を思い出し、自分がプレイヤーならとっとと逃げ出したくなっていただろう(!)『アッシジの聖フランチェスコ』を、見事にやり遂げたいきさつなども思い出された。十円はげが出来てもおかしくない「苦役」ともいえる難曲をクリアして、読響はさらにタフになり柔軟になり、勇敢になった。
カンブルランにインタビューしたとき、面白かった。マエストロが音楽について語りだすと、聞き手である私はどこかに消えてしまうような気がした。「アッシジ…」についてたずねると、それを語るカンブルランはどんどんピンク色になり、古代の詩人のように雄弁になり、ここではないどこかへ行ってしまいそうな人に見えるのだった。現代にこんな巨大なパワーをもつ人がいるのだ。
マエストロが読響を理想のオケに導いていて、彼が全員を「引き上げて」いるのだ…とずっと思っていたが、この日のコンサートを聴いて、そうとばかりは言っていられないとも感じた。走りながら指揮台に上るカンブルランは恐ろしいほど毎回真剣で、あのような演奏会は本人も覚悟して努力を重ねていかなければ続けられないだろう。
カンブルランは読響のお父さん、という印象も変わった。キャプテン(船長)であり、隊長であり、料理長であり…やはり「指揮者」なのだ。
指揮者の導く道と、運命をともにするオーケストラ、ということに何より興味がある。来日するたびによくなるネゼ=セガンとフィラデルフィア管、ソヒエフとトゥールーズ・キャピトル管、毎回素晴らしいパッパーノとサンタ・チェチーリア、インバルと都響、ノットと東響、プレトニョフと東フィル…それを思うと、ウィーン・フィルの来日公演では一度も感動したことがない。「どのオケがすごい」ということを「カブトムシとクワガタのどっちが強い」という基準で語ることに自分は全く興味がない。
4/8に聴いたカンブルランと読響は、間違いなく世界一のオーケストラで、後半のベートーヴェンの7番では目を開けていられないほどまぶしい音が、すべての楽章のすべての瞬間に溢れ出した。カンブルラン特有のきびきびとしたアクセントが飛沫をあげるたびに、その一秒一秒に凝縮された凄いエネルギーと時間を感じずにはいられなかった。
各パートの首席をはじめ楽員全員が、美しい動きで最高のサウンドを生み出し、その持続が途切れることはなかった。
「自分の思い入れが強すぎて、客観性を失っているのではないか」と、たびたび目をつぶって無心に聴こうとしたが、目をつぶっていても全身の皮膚から光の粒子のようなものがしみ込んできて、刺激された心が身体をつきやぶって何かを主張してくる。その不思議な感覚はオーケストラの演奏会でしか体感できないものだ。
プレストからアレグロ・コン・ブリオへ音楽は勢いをつけていくが、勢い任せの空疎な狂騒ではなく、人間の精神の祝福の表現だった。時間の自然な流れに驚き、明るく勇敢な意図をもって進めば、最後には爆発的な喜びが待っている…カンブルランが、オケと過ごした時間をどうとらえているか、全員がどうとらえているか、高貴な認識を受け取った。それはありきたりの説教などとは別次元の人間の「正道」で、逃げもごまかしもきかない芸術の真の姿で、こういうものを見たくて芸術を追い求めてきたのだと自分の人生を振り返った。
不思議なことに、カンブルランは凄い演奏が終わるといつも意外なほどあっさりと幕に消えてしまう。音楽の時間が素晴らしすぎて、それが終わると虚無感を感じてしまうのだろうか。いわゆる「一般参賀」があってもおかしくない演奏会だったが、ステージも客席もわりとすぐに散り散りになってしまった。
それでも、夢に出てくるほどこの日の演奏会は忘れられないものになり、日々心の中で反芻している。