小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×オレグ・カエターニ(6/17)

2018-06-18 15:10:11 | クラシック音楽
都響×カエターニは6/13の上野での定期も聴く予定だったのだが、急用があったため断念。宮田大さんがソロを弾かれた矢代秋雄「チェロ協奏曲」が大変よい評判だったので、口惜しく思っていた。リベンジを果たすがごとくサントリーのプロムナードコンサートへ。オール・ロシア・プログラム。
この日、都響のスタッフが用意してくれたのは一階前方席の右端で、チャイコフスキーのエフゲニー・オネーギンのポロネーズがとても面白く聴こえた。舞台のcb側に近いため低弦の凄まじい風圧が伝わってきて、他の弦にも油彩画のようなこってりとしたマチエールが感じられた。クールなイメージの都響がとてもワイルドで野趣に溢れていた。カエターニは都響とは4度目の共演とプロフィールにあるが、初めて聴く指揮者。上品なたたずまいの白髪の指揮者で、右手にボールペンほどの長さの指揮棒を持ち、左手では何かが溢れ出すような優しい仕草をする。

前半2曲目はチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」。1998年生まれのピアニスト、藤田真央さんがソロを務めるというので楽しみにしていた。藤田さんがナクソス・レーベルからリリースしたリストを以前聴いていたので、これはすごい才能だと驚いていたが、なかなかタイミングが合わず、生演奏を聴くのはこれが初めてとなった。
このソロが衝撃的だった。明らかに天才肌のピアニストで、聴衆を惹き付ける魅力とテクニックの持ち主なのだが、それ以上に音楽のイメージ力がとても大きく、限界をまったく設けていない。一楽章から凄い集中力とある種の厳格さを感じさせる演奏で、指揮者も若いソリストが微塵も臆せずにこの名曲を弾いているのが嬉しくてたまらないという表情だった(右端の席だったため指揮者の顔がよく見えた)。メジャーな名曲だが、初演のピアニストが匙を投げたという難曲でもある。

2楽章のアンダンティーノ・センプリーチェで、チャイコフスキーはこの曲でまた「春」を書いたのだなと思った。無垢で初々しい春の女神が、雪解けをもたらす太陽の日差しを注いでいるイメージが浮かんだ。先週ロシア・ナショナル管で「イオランタ」を聴いたこともあって、チャイコフスキーの音楽の中の「聖なるもの」についてずっと考えていた。フェミニンで透明で、穏やかで清楚なのだが春の嵐のように唐突に訪れる何かで、「弦楽セレナーデ」のような名曲にも息づいている。弦楽セレナーデの第4曲は、死に絶えたかと思うほど音楽が弱まった瞬間、彼方から何かが訪れて急速に地上に生命力が溢れる。狂気に近い命の湧出だ。

この日の都響は、いつもの精緻なアンサンブルを保ちながら、指揮者の求めるおおらかなサウンドにだいぶ寄り添っていたと思う。今の都響の演奏能力の高さは、中途半端な指揮者を拒絶するほどの水準で、傍目から見ていても客演指揮者のやることを納得しているのか納得していないのかが明白に伝わってくる。カエターニの愛情深さ、優しさ、ロシアの魂の表現には、オーケストラが静かな敬意を寄せていた。高嶺の花のように憧れている都響が、こんな緩やかで甘いサウンドを聴かせてくれることが嬉しかった。
チャイコフスキーの描く春は、死からの蘇りであり、次の死へつながる始発でもある。この円環の時間を、藤田真央さんはめくるめく霊感で描きつくした。実際にピアニストが何を考えていたのかは知る由もないが…チャイコフスキーが素晴らしいのは、生そのものが死と地続きのメランコリーであり、生と死が同時に存在する次元を音楽で描いたことだと思う。マーラーも同じことをした。消え入るようなピアニシモが、魔法のように次のパッセージにつながり、長い長い呼吸が円を描くように永遠に生きている。2楽章のフルート・ソロは無邪気な響きで、産声を上げたばかりの赤子のようだった。
3楽章はピアニストの鬼才ぶりが遺憾なく発揮され、あの殺人的なユニゾンもかつて聴いたことがないほど完璧で、豊かな表現力に満たされていた。

今年に入ってからしばらく、演奏会を心から楽しめなくなっている自分がいて、ある種の職業病かと憂鬱になっていたのだが、5月に入ってから不思議な形で音楽は再び生きる喜びとなった。毎晩のように行われている演奏会が義務でも犠牲でもなく、やはりとても素晴らしい時間であることに気づき、以前とは違う聴こえ方になった。自分は自由でいていいのだ、と再び音楽に恋する気持ちになれた。冬の呪縛から解かれ、解氷したばかりのペルセフォーヌのように、ぎこちない動きで何かを書きたいと思った。

後半のカリンニコフ「交響曲第1番」は、人懐こい民族的な旋律がそこかしこにちらばめられたシンフォニーで、こんな素朴な曲も都響が演奏すると本当に新鮮なものになる。カエターニはカリンニコフこの曲が好きなのだろうか。マルケヴィッチの子息で、終演後に感想を語り合った評論家の方によると「お父さんとは正反対の優しい音楽を作る」ということだった。ボロディンの韃靼人の踊りや、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の終幕に良く似た楽想が現れる。この時代、ロシアの作曲家は西洋化した作風の中に、民族的な趣向を盛り込むことを政府から命令されていた。だからなのか、それでもなのか、36歳で夭折したカランニコフの交響曲には。ロシアの春の女神の温かい微笑みが感じられた。氷の姫君なんかじゃない。麦の穂をヘアパンドにしたそばかすの美女のようなフレンドリーな女神が見えた気がした。
音楽家は、指揮者はオーケストラは、理想や音楽的営為のためだけに演奏をするのだろうか…そんなはずはない、とも思った。「わたしの心からはこんなにたくさんのものが溢れ出しています」といったカエターニ氏の左手から、演奏家もその都度に、聴衆と恋することを待ち望んでいるのだと思った。都響がマエストロと過ごしたリハーサルの時間を想像し、不思議な幸福感が心に広がった。