小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

マリインスキー・バレエ『ドン・キホーテ』

2018-12-01 10:44:17 | バレエ
来日中のマリインスキー・バレエの『ドン・キホーテ』が大変素晴らしい。初日と二日目の公演を観たが、どちらもほぼ満員。初日11/28はヴィクトリア・テリョーシキナとキミン・キムのスター・カップルがキトリとバジルを踊ったが、登場からエンジン全開で、見せどころ満載の1幕からテクニックの切れの良さを次から次へと披露した。キミンのジャンプはさらにさらに、高くなっている。テリョーシキナも楽しむように演じていて、リフトもダイブも恐れを知らぬ思い切りの良さ。記者会見では「日本の皆さんはフェッテが大好きなのを知っていますよ!」とお茶目なテリョーシキナだったが、ラスト近くのグランフェッテでは最高の表情を見せた。街の踊り子役で、二日間ともエカテリーナ・コンダウーロワが登場したが、美貌のプリンシパルを脇役で出してくれるカンパニーの太っ腹に感動する。コールド・バレエもアップテンポの音楽にぴったり合わせて様々なダンスを繰り広げ、エスパーダ率いる闘牛士たちのマントの踊りは特に圧巻だった。ライトの光だけでない、電撃的な「明るさ」が舞台から飛び出していて、とても眩しい舞台だった。

バレエ音楽というのは小さな曲がたくさん集まって構成されており、音楽そのものが言葉であり物語を進めていく「台本」の役割を果たしていく。ミンクスの音楽がこんなにいいと思ったのは初めてだった。リズムや雰囲気が場面ごとにくるくる変化し、女性らしさや男性らしさをサウンドで描写していく。指揮のアレクセイ・レブニコフはゲルギエフふうのつまようじ丈のミニ指揮棒で、マリインスキーのオケを完璧にコントロールしていた。バレエ指揮というのはまだまだシャドウワークとして認識されているが、知れば知るほど偉大な仕事で、ダンサーの個性や拍手喝采のタイミング、さまざまな「揺らぎ」に即反応して最適の仕事をしなければならない。ミンクスの音楽はゴージャスで、パートごとの掛け合いや音のミックスも絶妙で、ところどころ胸がいっぱいになるドリーム・ミュージックだった。ドンキはスペインが舞台だが、ロシアの大地を思わせる逞しい音も鳴る。エキゾティックで猥雑なサウンドも彼らはお手のものなのだ。

「舞台ほど自由でいられる場所はない」とでも言いたげなテリョーシキナとキミン・キムの姿を見て、「yes!」という掛け声が聴こえたような気がした。パワフルな肯定の意志が、ソリストだけでなくコールドからも伝わってきた。現実的には、素人では目が追い付かないほど細かいことをコンマ秒ごとに行っている。マリインスキーのダンサーのリズム感には天才的なものがあり、ワンフレーズの中に詰め込まなければならない幾つもの動きを、てきぱきと正確にこなしている。脳の中では数学的なことも行われているのだ。それと同時に、役には彼らの人間性がそのまま表れていた。キトリはキトリである以上にテリョーシキナだし、キミンも然り。劇場の誰に対しても優しい人気者のテリョーシキナと、監督の期待に応えて青天井にうまくなっていく勇敢なキミンがそのまま舞台にいた。ダンサーとは「約束を守る人」なのだと強く思う。

キュートピッド役の永久メイが登場したときは、あまりの愛らしさと素敵さに会場がどよめいた。18歳の可憐なダンサーはキューピッドそのもので、軽やかな動きと蠱惑的な目線、脚を挙げたままぴたっと空中に張り付くポージングに、観客のすべての目が釘付けになった。ひらひらとひらめく衣装までもが、何だかこの世のものでないような気がする。老騎士ドン・キホーテに「私たちの世界に深入りしてはダメですよ」と注意するようなマイムには、大人っぽさも感じられた。魅惑的な妖精が舞台に現れたことに驚き、いつまでも彼女を見ていたい気持ちになった。

ドン・キホーテ役のソスラン・クラエフは誌的で物悲し気な老騎士を演じ、大きな手が饒舌に感情を語っていた。マリインスキーの名キャラクターで、来日のたびにいい脇役を演じている。サンチョ・パンサのアレクサンドル・フョードロフはコミカルだが過酷な演技を求められ、一幕で毎回力いっぱい転ぶのだが、詰め物の衣装の中の身体は青あざだらけになってるのではないだろうか。もっともマリインスキーのことだから、身体を傷つけないずっこけ方のテクニックがあるのかも知れない。

素晴らしい初日の公演の後、バックステージでは乾杯の席があった。ファテーエフ監督は「このバレエ公演は、ロシアと日本の友情の証」と繰り返し語ったが、うっかり社交辞令として聞き逃してしまいそうなシンプルな言葉が、本当に真実だと思えた。
ロシアと日本では、言語も文化も慣習も違うが、芸術に関してはひとつの共通項がある。おもに音楽に関してだが…ともに「西洋化」に出遅れた国であったことだ。ロシアは今も昔も芸術大国だが、クラシック音楽が根付いたのは西側世界より遥かに遅い。チャイコフスキーはその微妙な「ローカルと西洋」の結節点にいた作曲家だった。西洋文化の「東」の感覚は、色々なところで根深く描かれている。オペレッタでは、ハンガリーは東の蛮族として描かれるし、ロシアや日本は東の果ての国だろう。
ロシアバレエはプティパによって本格的に発展したが、このドンキのオリジナルもプティパによる振付(ゴールスキー改訂)で、マリインスキーがプティパという「西の人」を必要としたそもそもの始まりを考えた。
ロシアも日本も東から西を見る。西に憧れるだけではない。西のものを咀嚼するために、自らを相対化できる。芸術において二倍の視野をもっているのだ。そこには「生まれつき西の文化をもたない」痛みや葛藤もある。「友情」という言葉にはさまざまな含みがあるとも思う。

二日目のマチネでは、日本デビューとなるレナータ・シャキロワが見事なキトリを演じ、長身美麗なティムール・アスケロフが気品に溢れたバジルを踊った、シャキロワはワガノワの優等生というイメージを勝手に抱いていたが、ふたを開けたらとんでもないスーパーバレリーナで、彼女のヴァージョンにはさまざまな超絶技巧がトッピングされていて、音楽もそれに合わせてどんどん速くなる。アスケロフのサポートは完璧で、お互いが高め合い、輝かせあっていた。コールドも昨晩熱演を見せてくれていたダンサーたちとは思えないほど、底なしのパワーを見せてくれた。花売り娘の石井久美子はオペラグラスで見ないと日本人には見えず、ロシア美女そのもの。正確で華麗な演技で、魅惑のときを楽しませてくれた。
すべての芸術の中で、バレエほど継続的な忍耐を要するものはない。美しいバレリーナの足がテーピングだらけであることはざらだし、わずかな失敗にも監督の雷が振ってくる。
マリインスキー・バレエの「Yes!」という肯定のパワーに、感電するような感覚を覚えた二日間のドンキだった。