小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×アラン・ギルバート (12/16)

2019-12-17 04:11:45 | クラシック音楽

都響&ギルバートのマーラー『交響曲第6番 イ短調《悲劇的》』をサントリーホールで聴く。コンサート・マスターは矢部達哉さん。休憩なしの約80分間、全身の細胞に突き刺さるような刺激的な名演だった。

「マーラーの曲は、まるで自分が書いているようだ」と言ったのはバーンスタインだが、わざわざそう言葉にしたのも、明らかに指揮者の誰もがマーラーを「丸ごと理解できるわけではない」と認識していたからだろう。多くの場合、ひたすら理知的なアプローチでマーラーのスコアを分析する。恐らくバーンスタインには「魂の部分でマーラーと一体化している」という自負があった。悟性だけで振るマーラーのつまらなさを知り、深い次元で作曲家とつながっているという誇りを持っていたのだ。

 アラン・ギルバートも、バーンスタインと同じように(しかし違った方向から)この奇々怪々で美しい音楽が「どこからやってくるのか」を知っているようだった。先週芸劇で聴いたリスト、バルトーク、アデス、ハイドンという、めくるめくプログラムで、ギルバートは都響との新しい切り札をいくつも見せた。ハイレベルのパートナーシップを証明し、音楽は魔法のようだった。それもこの夜のマーラーへつなげる布石だったのかも知れない。「我々は何でもできる」という自信が、新しい冒険への踏み台になっていた。

 ギルバートのマーラー6番は、改めて「指揮者はワンマンでなければ面白くない」と思わせるもので、高度なアンサンブルを聴かせる都響が、そうやすやすと言いなりにならないと知った上で指揮者が振るう、強烈なエゴの発露が感じられた。ギルバートは勿論エゴイスティックな人物ではない。この曲には「あえて独裁的な」アプローチが必要なのだろう。指揮者がオケを引っ張りまわす、小突いたり、揺るがしたり、びっくりさせたりして曲を進行させる。ギルバートのマーラー6番には、そうした合意の上での「無茶振り」があったと思う。

 以前から感じていたことだが、ギルバートの音楽にはクラシック以外のジャズやポップス、ロックのパッションが宿っている…この夜ふたたびそれを強く感じた。2014年には小曽根真さんとライブハウスで「ドラマーとして」共演した姿も見た。1960年代後半生まれで、ポップスやロックへの影響を無視して生きていることのほうが不自然だ。このことを表立って発言しているのは1972年生まれのクルレンツィスだが、ギルバートも生粋の「パンク/ニューウェイヴ」だと感じた。
 クラシックファンは純然たる視点を好む人が多く、こうした物言いは嫌われる危険もあることを知っているが、マーラーの6番にはどうしようもなく、衝動的で反骨的なロック精神が息づいていると実感する。ロックは「駄々っ子の音楽」だ。

 それは、自分という存在が世界と調和できない、不自由で不快だという感覚が源になっている。マーラーは6番を書いた後に幼い長女を失い、ウィーン宮廷歌劇場の首席指揮者のポストを奪われ、心臓病となり、アルマとの仲は冷えていく。「まだ不幸は起こっていなかったではないか」と思うが、卵が先か鶏が先か、というのと同じで、マーラーは自分が不幸になることを予感して、壊れゆく世界を一足先に曲にした(なんと、チャイコフスキーも同じようなことをしている)。自分の死後、人類が「自然を超越した」という驕慢に陥り、大量殺戮兵器を作り出すことも予言していた。すべてが見えてしまう苦しみ、尽きることなき不快感に「嫌だ!」と手足を投げ出しているような無茶苦茶さを音楽は伝えてくる。

 交響曲「悲劇的」に宿っているいやな予感、悪酔いするような行きつ戻りつの進行、暗闇の中で刀を振り回すような徒労感を、都響は粘り強く、指揮者に「振り回され」ながらタフに表現していた。2楽章と3楽章はアンダンテ・モデラート→スケルツォの順に演奏されたが、2楽章の幻想的な美しさは朝焼けの紫色の空のようで、白鳥や黒鳥のコスチュームを着たバレリーナたちが舞台に現れたような心地になった。ギルバートの中で、物語が組み立てられているのだろう。そういう流れの見事さとともに、一瞬一瞬がとても生き生きとして「この音楽を作り上げているどの瞬間も大事なのだ」と伝えてくる。

 カウベルはステージのドアの外に設置され、奏者が出たり入ったりしていたが、音響的な効果は確かに上がっていたと思う。4楽章は絶望的な音楽で、幼い弟を看病し看取ってきたマーラーがこれから小さな娘を亡くすこと、繰り返される「幼子の死」という主題から逃れられないことを思い出した。「名物」のハンマーは、棺に杭を打つ音のよう。絶望的な響きだった。マーラーは本当に人生に心からの癒しを求めていた。それが不可能であること、すべては幻影であることを予感し、生きた自分の骨を粉砕するような曲を書いたのだ。「それがお前の運命だ」と言われたら、大暴れするのが人間というものだろう。この曲を書いたとき、マーラーはまだ40代前半だったのだ。

 この熱演が素晴らしかった理由は、ギルバートと都響が未知の関係を模索していたからで、芸劇でのプログラムで完成品を提示しておきながら、マーラーはどこかまだ未完成だった。都響といえばマーラーのスペシャリティで、錚々たる上演の歴史を持っているが、ギルバートはそこにあえて「根こそぎ自分のマーラー」を叩きつけてきた。マーラーと自分とはこういう関係性で、それはパーソナルなものでなければならない、という強い意図が脈打っていたのだ。都響は崩れる寸前までリスクをとってギルバートについていき、新しい階段を上ってみせた。高嶺の花の美女が、あの男のためにはあんなに尽くすのか…といった感慨が押し寄せてくる。ギルバートの「関白」ぶりが見えた白熱の演奏会だった。

 

photo:平舘平