小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

METライブビューイング『蝶々夫人』

2020-02-13 16:23:23 | オペラ

METライブビューイング『蝶々夫人』を東劇で鑑賞。もう上映が終わってしまうが、アンソニー・ミンゲラ演出の2006年のプロダクションをMETが上演し続けてくれることが改めて有難いと思った。蝶々さんを、日中友好記念オペラ『アイーダ』にも出演したホイ・ヘー、ドミンゴが降板したシャープレスをショスタコーヴィチ『鼻』などで活躍したパウロ・ジョットが歌い、ピンカートンも直前の交代劇でロール・デビューとなるブルース・スレッジが演じた。

「蝶々夫人」はあらゆる意味で「誤解」のオペラだ。作品の価値も演出も膨大な誤解に見舞われて、今でもまだ正当な価値を認められていない。初演からして盛大な野次が飛び、失敗作の烙印を押された。あらゆるオペラの中で好きなものを3つ挙げるとしたら、迷わずトスカ、ボエーム、蝶々さんの3つを選ぶが、スコアの重厚さにおいてトスカに勝るものはないと思いつつ、ライトモティーフの使い方はボエームと蝶々さんこそが超越的だと確信する。蝶々さんには小さくて可愛らしいメロディがいくつも登場するが、それがいつしか大海原のような巨大な音楽に発展する。

 このオペラでは、初演当時(ライブビューイング開始からまもなくして上演された)から文楽の人形が蝶々さんの息子を演じることが話題だったが、人形たちはスズキ登場のシーンから顔を出していて、料理人やその他の使用人たちも人形が演じている。間奏曲では人形のバタフライがバレエダンサーのピンカートンと二人で踊る。
スズキの着物はピンクと黄緑のバーコード模様で、帯も着物と同じ柄という「まちがった」姿。仲人のゴローも雛人形の五人囃子のような衣裳で、着物というものを「西洋人が観た東洋人」の誤解のシンボルとして使っている。日本人の演出家は、鬼の首をとったかのようにスズキに作務衣を着せたりするが、映画監督のミンゲラが衣装を厳密に扱わないわけがない。スズキは後半で振袖のようなデザインの着物を着て出てくる。すべては意図的なのだ。

 ゴローもスズキも神官も西洋人なので、東洋系のホイ・ヘーが孤独な蝶々さんを演じることはヴィジュアル的にも意味があった。底力のある強い声が魅力的な歌手だが、大村博美さんや中嶋彰子さんのバタフライを知っていると演劇的に物足りないと思ってしまう個所もある。それでも、スタミナが要求される過酷な役を果敢に歌い、特に息子役の人形が登場してからの歌には熱がこもっていた。

ピンカートンのスレッジは終始緊張していたが、演技は真剣でピッチもよく、最後まで立派だった。ピンカートンをマフィアのボスみたいに描く演出家もいるが、本当は生真面目な凡人なのだ。人間として経験が足りていない。このオペラを好きになりはじめた頃、蝶々さんが長崎の丘を上って登場する旋律が何よりお気に入りだったが、「あれでもない、これでもない、これよ!」と転調を繰り返すメロディは、その前のピンカートンとシャープレスのやり取りでも相似形が描かれている。「この初めての感情が自分でもよくわからないのだ」という若者の狼狽をプッチーニは調整の定まらない旋律で表現するのだが、それは粋がった風来坊のものでも女たらしのものでもなく、うぶな未熟者の歌なのだ。

 心優しいシャープレスや献身的なスズキ、好色なヤマドリや抜け目ないゴローを含め、『蝶々夫人』には悪役が一人もいない。なのになぜ世界で一番悲惨なオペラなのかというと、それはやはり「誤解」のオペラだからだ。ミンゲラはそれを人形で表現する。「人形のように可愛い…!」と蝶々さんを抱きしめたピンカートンに対して「人形に、心がないとでもお思いか」と問い詰め、日本の文楽のアートをそこに置く。幕間インタビューでは子役の人形を操る3人の人形師が登場し、中腰で操るため腰がやられるのか、休憩ギリギリまでストレッチをしていた。

 初演当時の稽古の映像が見られたのも有難かった。亡くなったマルチェッロ・ジョルダーニがピンカートンを演じている。ミンゲラはこの2年後に54歳で亡くなったが、映像で見ると若々しい情熱に溢れていて、まだまだオペラを作りたかったはずだと思わずにはいられない。アカデミー賞を受賞した『イングリッシュ・ペイシェント』では、戦地で兵士の誰かが一瞬「冷たい手を…」のひとふしを歌う場面がある。戦火とプッチーニは不思議なミスマッチだった。

 指揮のピエール・ジョルジョ・モランディは急遽変更となった歌手を気遣うような指揮で、音楽そのものを牽引していく感じではなく、3幕のスズキ、シャープレス、ピンカートンの三重唱もあっさりとしていて、あまり理念は感じられなかった。管もMETとは思えないような音を時々出していた。このオペラの主役はあくまで演出なのだ。ホイ・ヘーが感情を爆発させるラストでは、彼女が音楽を作り上げていた。「蝶々夫人」の漢字が背景に描かれるラストまで、感動的だった。

 西洋と東洋の溝、人形に心がないという誤解、などと色々挙げてはみるが、一幕のあの巨大な愛の二重唱では、ピンカートンが蝶々さんを人形だなどと思っていたとは信じがたい。紛れもない愛の賛歌で、宇宙的な規模のデュエットだ。このオペラにはいくつもの神秘が隠されている。後から登場するケイトが、善良そうで退屈な女性であることも含め、ミンゲラは「男は本物の愛の瞬間を忘れようとする習性がある」ということを伝えているようだ。これまでの短い人生の中で、いくつもの無念を抱えてきた15歳の女性にとって、愛に身をゆだねることは新しく生まれ変わることだった。そんな核爆発のような想いと一体化して、愛を経験する男性は幸福なのだが、それほど激しい愛をもつ女性を妻にするのは難しい。究極の愛とは、忘却する愛のこと…ミンゲラはそこまで見据えていたと思う。