小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

夢と童心 ウィーン・フィル(11/12) 

2020-11-13 12:14:39 | クラシック音楽
11/14と同プログラムの追加公演。前半はドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』『交響詩「海」~3つの交響的スケッチ~』、後半は11/9と同じストラヴィンスキー『火の鳥』。
一階前方席を選んでしまったため、管楽器セクションがよく見えず、サウンドも舞台と近すぎて「高い席がいい席とは限らない」と後悔してしまったが、ティボール・コバーチさんの額の汗の粒までよく見える席はなかなかリアルでよかった。1stヴァイオリン側だったので、どんなときも「力を入れすぎず、抜きすぎない」絶妙なボウイングに驚きながら、ウィーン・フィルの金糸の音を間近で楽しんだ。

ゲルギエフは顔色もよく、一番短いタクトを使用。9日と同じものだろうか? さらに短くなっているようにも見える。ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』の冒頭のフルートは、深い深い沈黙ののちに搾り取られるように指揮者から引き出され、宇宙のはじまりのような「最も古い音」に聴こえた。ハープとフルートと弦が、薄くて軽い布地のようにホールを覆い、なんにもない風だけの太古の地面に、神話の世界の生き物たちが息づいていくのを想像した。ニジンスキーが振り付けた奇妙な「二次元バレエ」を思い出す。こんなにも自在な空気のような音楽をもとに、跳躍も回転もない、拘束された動きだけのバレエをつくったニジンスキーは真の天才だったが、振付家としては評価されず「私は神だ」という言葉を残して狂死した。先を行きすぎていたのだ。



ウィーン・フィルの『牧神』からは、山の神の気配を感じた。本物のアルプスの山々を初めて見たのは2005年だったが、あんなにも雄々しく神々しい姿の自然には、太古から神がいると信じられていてもおかしくない。日本にも山の神はいるが、あちらの山の神はワーグナー的でありR・シュトラウス的であり、何かがもっと男性的なのだった。続く『交響詩「海」』では、海の神を感じた。ポセイドーンやネプチューンと呼ばれる古代神を想起するドビュッシーだった。ウィーン・フィルの幾層にも奏でられるグレイッシュなグラデーションが、前方席では少しごつごつして聴こえる。実感として、いくつもの自然神が闘争しているようなワイルドな音楽に聴こえた。洗練された音の海から、星座のように海神や竜神、ヴィーナスやその手下たちが浮かび上がってくるようだった。要はとても楽しい音楽だったのだ。

マツ―エフがプロコフィエフの2番のピアノ協奏曲を弾いた日は、楽しいというより神妙な心境だった。ウィーン・フィルも毎年のことながら、三日目ともなるとサントリーホールの響きを親しく感じるのかも知れない。「わが劇場」で鳴らしているかのような雰囲気さえあった。ゲルギエフは曲が終わるたびに「これ、いいでしょ」と言いたげな無邪気な笑顔を見せる。
聴衆も一階席の人々は少しばかり前のめりで、好奇心を隠そうとしていない。今年の特徴なのか以前からだったのか、女性客がとても多い。素敵な聴衆が具体的に何を求めてウィーン・フィルにやってくるのか、とても興味が湧いた。

『火の鳥』もまた、コンテクストが変わるとサントリー初日とは別の趣で聴こえる。ゲルギエフは1910年版に格別の愛着があるのだろう。バレエ・リュスの2回目のパリ公演が1910年で、これが出世作となったストラヴィンスキーはロシアでも全くの無名だった。ガブリエル・ピエルネの指揮で、最後の週の8回のリハーサルにストラヴィンスキー自身も立ち会ったという。
 9日にオケの右側で聴いたときは管楽器の個別の奏者が何をやっているかがよく見えたが、この日はほとんど見えなかった。コントラバスはよく見えたが、オケの真ん中あたりの様子がよく分からない。あれこれ考えているうちに、自分はいったい何をしようとしているのかおかしくなった。音楽はどんどん進む。

 オケの機能に気を取られて、物語を聞こうとしていなかったのだ。「火の鳥」はチャイコフスキーの「白鳥の湖」によく似ている。魔王カスチェイはロッドバルトだし、「眠れる森の美女」のカラボスのようでもある。火の鳥はオデットではなく、「眠り」のリラの精だ。心優しいイヴァンは、ちょっと間抜けになったジークフリート王子かも知れない。魑魅魍魎や鬼たち、精霊、大蛇のようなものがうごめいている。

ストラヴィンスキーはチャイコフスキーを超えようとしていた。『火の鳥』は最初のバレエ・リュスの委嘱作で、作曲家としての出世がかかっていたし、このバレエ音楽で失敗するわけにはいかなかった。そんなとき、偉大なるチャイコフスキーのことを考えないわけにはいかなかっただろう。プティパの時代にバレエに献身したチャイコフスキーは、このジャンルを崇拝し、天才のイマジネーションを駆使して作曲に励んだ。
「新しい楽器や合唱を使った『くるみ割り人形』の革新性がなければ、ストラヴィンスキーのバレエ音楽はなかった」と指揮者の井田勝大さんが語っていた。ストラヴィンスキーはチャイコフスキーから多大な影響を受けていたのた。
 チャイコフスキーともうひとつ、ストラヴィンスキーが参照していたのは「夢」だ。夢の世界の荒唐無稽さからインスピレーションを得て、ぼろ人形のペトルーシュカの物語を思いついた。バレエ音楽は夢の論理から成り立っている。シルフィードは人の目に止まらぬ速さで空中を舞うし、ありとあらゆる妖精、魔物、魔法使いたちが活躍する。人形はまた独特だ。夢の中に現れる人形は、ときとして「分身」を意味する。

「ウィーン・フィルのメンバーは、夜眠るときに不思議な夢を見ているのではないか」と、そんなおかしなことを考えた。皆、ゲルギエフのつまようじに従って絢爛たる技術の音楽を奏でているが、理性や悟性だけではあそこまで音楽は膨らまない。「世の中には無意識なんてない」と語るおかしな人もいる。そんなことがあるわけがない。火の鳥の夢を見ないウィーン・フィルのメンバーがいるとは思えなかった。
忙しいオーケストラでは、指揮者は散文的なことをあまり言わない。リハでは段取りだけを合理的に打ち合わせる。火の鳥に関して、あらかじめ同じ夢(!)を見ていることが重要なのだ。

全力で『火の鳥』を振り終えたゲルギエフが、10歳の少年に見えた。薔薇色の顔をして、ニコニコの笑顔だった。オーケストラも少年少女のような心で物語に参加していたと感じた。ウィーン・フィルが軍隊のようなオケだと思ったなら、お客さんは高いチケットを買ってコンサートに来るだろうか…これは本物の夢のオーケストラで、一瞬のファンタジーが、聞き終わった後にオルゴールのように何度も記憶の中で再生される。
アンコールの『皇帝円舞曲』が一瞬、何の曲かわからなかった。おもちゃのようにいたずらっぽい響きで、ゲルギエフはますます子供っぽい顔になって振った。等身大のドールが踊る機械仕掛けの遊園地が目の前に広がった。この日の火の鳥はやっぱり「童心」だったんだ…。
アンコールが終わった後、一階席のお客さんも子供のように立ち上がって、再びステージにゲルギエフを呼び出した。幸せそうなゲルギエフの表情を見て、忙しすぎるこの指揮者は音楽から無限の活力を得ているのだと理解した。ウィーン・フィルの公演はあと二回行われる。