小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『椿姫』(3/16)

2022-03-20 14:51:16 | オペラ
新国立劇場で『椿姫』の3回目の公演を鑑賞。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、3月16日は朝から不穏なニュースが報道されていた。とうとうキエフで爆撃が起こり、キエフ市民に外出禁止令が出された。連日ハリコフの惨状も映像で流され、2月にはじまったこの戦争が長期化するのではないかという不安が立ち込めていた。日本で流されるニュースのすべてを信じていいものか分からないこともあるし、誰に対して憤ったらいいのかかも分からない。分かるのは、ウクライナから他国への移民の数が爆発的に増え、子供たちや高齢者や妊婦までが危険に晒されているということ。核の脅威がチラつかされているということ。どちらも21世紀のこととは思えない。

劇場と現実はどれほど関係があるのか。先日の新国の記者向けのシーズン発表会でもデリケートな対話が行われた。レパートリー作品である『椿姫』の2022年の初日は3月11日で、指揮者のアンドリー・ユルケヴィチが来日したのは2月後半。一週間の待期期間中に戦争が起こった。ユルケヴィチはウクライナ出身で、爆撃を受けたリビウにも家があるという。待期期間中はほぼ外界との接触がないため、指揮者は孤独の中でこの一連の出来事を受け止めていた。

そうした場合、指揮者は待期期間中に帰国してもよいのかどうか、前例がないので分からない。ユルケヴィチは帰国せず、日本でオペラを上演するという選択をした。初日はどんな雰囲気だったのだろう? 16日の公演は、幕が開いた瞬間「お葬式のようだ」と思った。演出そのものがヴィオレッタのモデルになったデュプレシの追悼のような形で始まるのだが、その次のヴィオレッタの館での全員の宴が、ひどく沈んだ雰囲気だった。

ソリストも合唱もオーケストラも言葉にならない不安を抱えている。反射的に「Darkest Hour」という単語が浮かんだ。1940年を舞台にしたゲイリー・オールドマン主演のチャーチルの伝記映画の原題だが、防空壕の中で役者たちがあれやこれやの芝居をするチャーチル映画の背景と、現代が急につながったような感覚だった。若きテノール、マッテオ・デソーレもたくさんの迷いを抱えてアルフレートを演じていて、「乾杯の歌」の歌唱にも思い切りがなく、日本人の脇役の歌手たちも腹に力が入っていない。「無理もないのだ」と思った。ロシアやウクライナに友達がいる人もいるだろう。こんなときに「プロだからちゃんとやれ」なんて言えない。

ヴィオレッタ役の中村恵理さんはこの公演で座長的な役を引き受けていたように見えた。一幕ラストの長く粘り強いヴィオレッタのアリアは「みんな負けるな! この公演を成功させるのだ」という歌に聴こえた。音程もディクションも演技もパーフェクトで、いくつもの境地を乗り越えてきた世界的な日本人歌手の精神が伝わってきた。長丁場のアリアの前まで、指揮者とオーケストラ(東響)も探りながらの合奏だったが、あのシーンで何かが変わった。

ブサール演出では一幕と二幕の間に休憩はなく、照明が落された中で舞台の転換が行われる。耐えかねたような声が舞台の奥から男性の聴こえた。あのとき「No War!」と悲し気な声を上げたのはテノールだと思う。ロシアのテレビの生放送でプラカードを上げた女性のニュースも報道された後で、「あっ」と思った。あの声について、誰とも話していないが、「No More War!」の叫びだったに違いないと認識している。
 二幕ではテノールが蘇った。一幕のソプラノの熱唱がカンフル剤になってか、デソーレは持って生まれた美声を揮い、強靭な高音が圧倒的だった。もともと素晴らしい歌手なのだろう。そしてとても優しい心を持っている。
 ジェルモンのゲジム・ミシュケタは82年生まれの若い歌手だが、貫禄のある姿で、中村恵理さんとは共演経験も多いという。ジェルモンは正義をふりかざしてヴィオレッタを説得し、息子の心を改めようとするが、その演技に既に罪悪感のようなものが感じられた。「力で組み伏せようとしてすまない」という心情を込めた歌で、こんな辛そうな表情のジェルモンは初めて見た。「プロヴァンスの海と陸」が、別の意味の曲に聴こえた。

休憩の後、二幕二場のフローラの夜会の場面から後半がはじまった。後半は前半ほど暗い雰囲気はなく、やっと『椿姫』を観ているという感覚が湧いてきた。新国立劇場合唱団も生気のある歌を聴かせ、オーケストラにも安定感が出てきている。デソーレは正義感の塊のような直情的な声を出し、まったくの演技であったとしても胸を打つものだった。コロナ演出で歌手同士の距離が悩ましい箇所もあったが、歌の説得力がカバーしていた。

三幕のヴィオレッタのいまわの際の演技は鬼気迫るものがあった。色々な歌手がこの場面を歌うのを聴いてきたが、中村さんはこの役から究極のものを引き出し、オペラの奥深い存在意義を見せてくれた。歌手というのは究極的に、こういう時代の、こういう状況のために存在している。芸術は生命そのものであり、道徳性そのもので、オペラは「人間とは本来素晴らしいものだ」ということを何度でも思い出させてくれるアートだ。悪魔崇拝や暴力は、オペラには要らない。シンプルに物語を追うだけの上演でも感動的だったと思うが、この日の音楽には何重もの意味があった。

カーテンコールでは、普段は口数もあまり多くなく物静かだというマエストロが、穏やかな笑顔で歓声に応えていた。胸元からウクライナカラーのポケットチーフが少しだけ見えた。劇場は世界と繋がっている。これほど「世界全体」と近い場所はないのではないか。このチームで既に4回の公演を終えているが、3月21日の千秋楽公演ではさらに素晴らしいものが生まれるような気がする。








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