「事前にプログラムを発表せず、当日にピアニストの選んだ曲が解説とともに演奏される」最近のアンドラーシュ・シフのスタイル。2022年にもこの様式でリサイタルが行われたが、前半だけで100分近いボリュームで、トータルでは180分を超えるという内容は今年も同じ。聴衆もそのことをよく分かっていて、充分に体力を蓄えて集まってきているのが伝わってきた。開場のアナウンスもシフ自身によるもので、自然な日本語でお客様を迎えるピアニストのもてなしの心が嬉しかった。
去年は奥様でヴァイオリニストの塩川悠子さんが通訳としてステージに着席していたが、今年はシフの若い友人でピアニストのトモキ・パーク(?)さんが訳してくれた。シフの英語はゆっくりとして分かりやすかったが、通訳を介することで理知的な解釈が出来たと思う。9/29はバッハの「平均律クラヴィーア曲集第一巻」から前奏曲とフーガ第一番が最初に演奏され、ベーゼンドルファーの艶やかな響きがホールに拡がった。オペラシティが出来たときに、シフが選んだピアノは非常にいい状態なそうで、調律スタッフへの感謝も伝えられた。
「バッハは世界で一番偉大な作曲家です」と、実感を込めて語られ、バッハが兄に向けて書いた「カプリッチョ『最愛の兄の旅立ちに寄せて』」が、ユーモラスに演奏された。いくつの細かいモティーフがパズルのように組み合わさった、バッハの小宇宙を感じさせる曲で、個人的に初めて聴く曲でもあった。
バッハの次はモーツァルト。「モーツァルトのソナタは非常にオペラ的なのです」と「ピアノ・ソナタ第17(16)番」変ロ長調を弾き始めたが、本当に複数のキャラクターが追いかけっこをしたり、ディスカッションをしたり、愛をささやきあっているような様子が伝わって来て、音楽の形式は謹厳なのに、何かとても妖艶な世界を見ているようだった。
前半ラストの二曲はハイドン。「アンダンテと変奏曲 ヘ短調」と「ピアノ・ソナタ変ホ長調」は、シフの言葉通りとても洗練されていて、偉大な様式美と豊かな構造によって、音楽のひとつの「究極形」に到達しているといった印象を抱いた。
ここまでの曲は情動性が比較的希薄で、ある種の「システマティックな構造」が優位にある作品が選ばれていた。バッハは声部の弾き分けが鮮やかで、モーツァルト、ハイドンも小さな細部が大きな全体を作り上げていくという作品だった。バロックと古典を弾くシフのピアニズムは「鉱物的」な印象。ぶよぶよした表現がまったく存在しなかった。
休憩後のベートーヴェン二曲は、モーツァルトから一世紀が経ってしまったかのような音楽だった。ベートーヴェンのペダル指定は新しい和音がやってきても踏み変えず、そのまま混濁させて響きを重ね、色々な帯が揺れているような独自のサウンド環境を創り出していく。ペダル指定の例を片手で弾き「私はクレイジーではないですよ」と微笑む。作曲家の厳密なペダル指定を反映した『ピアノ・ソナタ第21番『ワルトシュタイン』」は、幻想的で、聴いているとサイケデリックな気分になり、軽い変性意識に囚われてしまったような心地にもなる。
ベートーヴェンは、病弱で頭痛持ちで、下痢を病み、精神状態も不安定だった。ゲイリー・オールドマンが演じたベートーヴェンは酒浸りで、路上に行き倒れていたが、難聴の絶望はそれほど辛く、一方で音楽の中ではまったく別の高みを目指していたのだ。チベット高地の人々が高山病にも負けず激しい踊りと歌でハイテンションに人生を祝福している様子が思い浮かんだ。
シフ自身も逆境の人で、2014年頃に来日したときは、ハンガリー国内での演奏会を禁じられ、大変不自由な境涯にあった。一歳年上のゾルダン・コチシュは同じ年にハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団を率いて、首席指揮者として演奏会を行ったので、生き方の違いが明暗を見せているような印象もあった。この2年後の2016年にコチシュは病死する。
本編最後のベートーヴェンは『ソナタ30番』涅槃に吸い込まれていくような幻想性があり、ピアノのタッチは硬質で緻密だった。
オペラシティはバロック、古典、ベートーヴェンという選曲で、改めて「気まぐれシェフのフルコース」といった感じのプログラムではないなと思った。語りがあることで、シフが作曲家の作品を演奏するに当たって「何が最も重要であるか」を伝えてくる。長いリサイタルの終了後、聴衆は皆上気していて、現代最高のピアニストであるシフへの感謝を、長い長い喝采で表した。
「シフの気分で、いい雰囲気で弾かれた寛いだリサイタル」というのでは全くなく、聴衆は自分の心をピュアにして、シフ先生の歩んできた求道の人生を学んでいった。この学びこそが、リサイタルの醍醐味だ。アンコールはゴルトベルク変奏曲のアリア。
オペラシティが聖堂になり、より高きもののために心が宙に吸い込まれていった200分間だった。
そしてて二日後のミューザ川崎では、さらに凄い深遠なことが起こったのだった。
去年は奥様でヴァイオリニストの塩川悠子さんが通訳としてステージに着席していたが、今年はシフの若い友人でピアニストのトモキ・パーク(?)さんが訳してくれた。シフの英語はゆっくりとして分かりやすかったが、通訳を介することで理知的な解釈が出来たと思う。9/29はバッハの「平均律クラヴィーア曲集第一巻」から前奏曲とフーガ第一番が最初に演奏され、ベーゼンドルファーの艶やかな響きがホールに拡がった。オペラシティが出来たときに、シフが選んだピアノは非常にいい状態なそうで、調律スタッフへの感謝も伝えられた。
「バッハは世界で一番偉大な作曲家です」と、実感を込めて語られ、バッハが兄に向けて書いた「カプリッチョ『最愛の兄の旅立ちに寄せて』」が、ユーモラスに演奏された。いくつの細かいモティーフがパズルのように組み合わさった、バッハの小宇宙を感じさせる曲で、個人的に初めて聴く曲でもあった。
バッハの次はモーツァルト。「モーツァルトのソナタは非常にオペラ的なのです」と「ピアノ・ソナタ第17(16)番」変ロ長調を弾き始めたが、本当に複数のキャラクターが追いかけっこをしたり、ディスカッションをしたり、愛をささやきあっているような様子が伝わって来て、音楽の形式は謹厳なのに、何かとても妖艶な世界を見ているようだった。
前半ラストの二曲はハイドン。「アンダンテと変奏曲 ヘ短調」と「ピアノ・ソナタ変ホ長調」は、シフの言葉通りとても洗練されていて、偉大な様式美と豊かな構造によって、音楽のひとつの「究極形」に到達しているといった印象を抱いた。
ここまでの曲は情動性が比較的希薄で、ある種の「システマティックな構造」が優位にある作品が選ばれていた。バッハは声部の弾き分けが鮮やかで、モーツァルト、ハイドンも小さな細部が大きな全体を作り上げていくという作品だった。バロックと古典を弾くシフのピアニズムは「鉱物的」な印象。ぶよぶよした表現がまったく存在しなかった。
休憩後のベートーヴェン二曲は、モーツァルトから一世紀が経ってしまったかのような音楽だった。ベートーヴェンのペダル指定は新しい和音がやってきても踏み変えず、そのまま混濁させて響きを重ね、色々な帯が揺れているような独自のサウンド環境を創り出していく。ペダル指定の例を片手で弾き「私はクレイジーではないですよ」と微笑む。作曲家の厳密なペダル指定を反映した『ピアノ・ソナタ第21番『ワルトシュタイン』」は、幻想的で、聴いているとサイケデリックな気分になり、軽い変性意識に囚われてしまったような心地にもなる。
ベートーヴェンは、病弱で頭痛持ちで、下痢を病み、精神状態も不安定だった。ゲイリー・オールドマンが演じたベートーヴェンは酒浸りで、路上に行き倒れていたが、難聴の絶望はそれほど辛く、一方で音楽の中ではまったく別の高みを目指していたのだ。チベット高地の人々が高山病にも負けず激しい踊りと歌でハイテンションに人生を祝福している様子が思い浮かんだ。
シフ自身も逆境の人で、2014年頃に来日したときは、ハンガリー国内での演奏会を禁じられ、大変不自由な境涯にあった。一歳年上のゾルダン・コチシュは同じ年にハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団を率いて、首席指揮者として演奏会を行ったので、生き方の違いが明暗を見せているような印象もあった。この2年後の2016年にコチシュは病死する。
本編最後のベートーヴェンは『ソナタ30番』涅槃に吸い込まれていくような幻想性があり、ピアノのタッチは硬質で緻密だった。
オペラシティはバロック、古典、ベートーヴェンという選曲で、改めて「気まぐれシェフのフルコース」といった感じのプログラムではないなと思った。語りがあることで、シフが作曲家の作品を演奏するに当たって「何が最も重要であるか」を伝えてくる。長いリサイタルの終了後、聴衆は皆上気していて、現代最高のピアニストであるシフへの感謝を、長い長い喝采で表した。
「シフの気分で、いい雰囲気で弾かれた寛いだリサイタル」というのでは全くなく、聴衆は自分の心をピュアにして、シフ先生の歩んできた求道の人生を学んでいった。この学びこそが、リサイタルの醍醐味だ。アンコールはゴルトベルク変奏曲のアリア。
オペラシティが聖堂になり、より高きもののために心が宙に吸い込まれていった200分間だった。
そしてて二日後のミューザ川崎では、さらに凄い深遠なことが起こったのだった。