かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『アルチンボルド展』 国立西洋美術館

2017年06月27日 | 展覧会

2017/6/27

 アルチンボルドの作品は数点見ただけだが、画家の名前もその絵柄も忘れられないものになっている。しかし、それは絵の美しさに感動したというようなものではない。ただひたすら、その奇想に驚いたのだった。その才能に驚きもしたが、正直に言えば、ある種の不快感もあった。
 そのアルチンボルドの絵をまとめて眺めたらどういうことになるのか、どちらかと言えば、私のなかに起きる反応に興味があった。優れた才能、その奇才への魅力が昂進するのか、はたまた不快への拒否反応が強まるのか。こういう気分をこそ「怖いもの見たさ」ということだろう(「怖いもの」は、私のなかに生じるもののことだが)。
 ミラノ生まれのジュゼッペ・アルチンボルドが画家として成功し、その画業をなしたのは、神聖ローマ皇帝となったハプスブルク家の宮廷画家としてウィーンとプラハで暮らした時代だ。複雑な気分になった私のアルチンボルド体験はウィーン美術史美術館だったのは当然だったようで、しかも仕事でウィーンに行くたびに性懲りもなくその体験を繰り返したのである。

 展示構成は、「I アルチンボルドとミラノ」、「II ハプスブルグ宮廷」、「III 自然描写」。「IV 自然の軌跡」、「V 寄せ絵」、「VI 職業絵とカリカチュアの誕生」、「VII 上下絵から静物画へ」となっていた。とはいえ、私の関心はひたすらウィーンで見た種類の作品なのである。


ジュゼッペ・アルチンボルド《春》1563年、油彩/オークの板、66×50cm、
マドリード、王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館 (図録、p. 83)。

 花や木や草、あるいは鳥や魚や獣、人間以外の事物だけを使って人物画を描くというのが、アルチンボルドがアルチンボルドたる理由である(私には)。《春》は「四季」連作に含まれる作品で、私のなかでは「不快」ではなく「快」に属する作品である。会場に入ってからやや速足で進んで、この作品を見つけたので、まずはこれを出発点とした。
 「快」だろうが「不快」だろうが、アルチンボルドの絵のなかの小さな一つ一つの要素がじつにリアルに描かれていることは私なりに気づいてはいたが、一連の作品を眺めると、それが博物学的な知識と科学的な描写力に基づいているらしいことも理解できるようになる。そのことは、図録 [1] に収められたシルヴィア・フェリーノ=パグデンの「アルチンボルド――ハプスブルグ宮廷の「プロテウス」」という論考でも確認できる。

マクシミリアン2世の長子ルドルフ2世が1576年に帝位を継ぐと、アルチンボルドは宮廷画家として再任され、ルドルフがウィーンからプラハへ遷都した際もついて行った。プラハは帝国文化の中心となり、ヨーロッパ中から芸術家や哲学者、化学者、数学者らを惹きつけた。ただルドルフが父や祖父と異なる点は、もっぱら地上のことを探求するにとどまらず、その関心を宇宙へ、惑星系へも広げ、ティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーなど、一流の天文学者を招聘したことである。〔中略〕ルドルフはアルチンボルドを自然標本と古代美術の専門家としても雇っており、おそらく1585年にルドルフと弟たちが金羊毛勲章を授与された際の祝祭行事も、やはり彼に演出を依頼したと思われる。以前アルチンボルドが評判をとった、いろいろな物を人間に見立てた肖像画を、盟友関係の君主たちへの贈り物として再制作するよう、促した可能性もある。 (図録、p. 37)

 私は学者のはしくれだったが、日本ではあまり博物学的な学問に重きが置かれていないものの、西欧文化における博物学的な知識への情熱には圧倒されることが多かった。「ここ(《春》)には約80種もの植物が描かれて」 (図録、p. 83) いて、いわば博物学的情熱と芸術的情熱とによって描き出された作品であることは明らかだ。ジュゼッペ・オルミとルチーア・トンジョルジ・トマーズィは、「つまるところアルチンボルドの絵は、ごく限られたスペースの中に、広大で多様きわまる自然界の姿(植物相や、水棲および地上生物の動物相)を縮図として表現しおおせている」 (図録、p. 37) と端的に評している。
 アルチンボルドの作品を、細部のアップから見はじめ、花であれ、草であれ、鳥であれ、魚であれ、それぞれのリアリティ溢れる描写に感嘆しつつ、その細部が織りなす人物像へしだいに眼差しを拡大していくことができたら、感動から驚愕へと理想的な味わいができるにちがいない。そんな不可能な鑑賞法を考えてみたのも、アルチンボルド体験の一つと言っていいだろう。


【左】レオナルド・ダ・ヴィンチ《鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像》1485-90年、ペン、インク、
160×135cm、ウィンザー城、イギリス王室コレクション (図録、p. 35)。
【右】レオナルド・ダ・ヴィンチにもとづく《3つのカリカチュア》ペン、インク、、185×133cm、
ロンドン、大英博物館素描版画部門
 (図録、p. 37)。

 博物学的な知見、科学的な探究というアルチンボルド作品のベースは、ハプスブルグ宮廷における役割ということもあるだろうが、アルチンボルドが画家として育ったミラノの地にもその理由があるということだ。それを示唆するのが、最初の展示コーナー「アルチンボルドとミラノ」に展示されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの素描作品である。
 ダ・ヴィンチは、「自然の直接的な観察にもとづく芸術表現の主唱者」 (図録、p. 16) で、アルチンボルドの時代にも大きな影響力を持っていた。素描作品の《鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像》や《3つのカリカチュア》は、そのダ・ヴィンチが異様な表情を持つ人物にも強い関心を持っていたことを示している。
 つまり、アルチンボルドが徹底した自然観察によって花や魚などをきわめて写実的に描いた素材によって組み上げられた人物像は、ダ・ヴィンチが素描したような異様な貌となり、人物のカリカチュアとなっているのだと考えれば、アルチンボルドはいわばレオナルド・ダ・ヴィンチの優秀な継承者の一人だと言えるはずだ。


【左】ジュゼッペ・アルチンボルド《冬》1563年、油彩/シナノキの板、66.6×50.5cm、
ウィーン美術史美術館絵画館 (図録、p. 89)。

【右】
ジュゼッペ・アルチンボルド《水》1566年、油彩/ハンノキの板、66.5×50.5cm、
ウィーン美術史美術館絵画館 
(図録、p. 99)。

 アルチンボルドの代表的な作品は、「四季」シリーズと「四大元素」シリーズだが、その中の二作品《冬》と《水》から私のアルチンボルド体験が始まった。これらを見て驚いたのは確かだが、美術作品としての感動(と私が思い続けていたもの)とはほど遠い思いで眺め、強烈な印象ばかりが残ったのだった。
 不思議なことだが、心を落ち着かせて眺められる今になって、それぞれの人物像に威厳のようなものを感じ取ることができる。とくに《冬》は、木の幹や枝、根の造りに自由度があるせいか、味わい深い人物像とすら思えるのだ。図録解説 (図録、p. 88) によれば、《冬》に描かれた人物像は、藁の網目に「M」の文字が浮かび上がり、頭上の編み込まれた枝は王冠のように見えることなどからマクシミリアン2世を暗示しているという。神聖ローマ帝国の皇帝が《冬》になぞらえられるのは、古代ローマ人の習慣で一年は冬から始まるためだとされている。
 《水》には60種類に及ぶ魚類、甲殻類が描かれていて、そのほとんどが地中海に棲む種類だと調べた研究者がいたと図録に記されていた。たしかに花であれ、草であれ、アルチンボルドの絵に描かれた種類をすべて同定するというのも鑑賞の一つの形ではあろう。それにしても、無数に描かれる要素の一つ一つが学術的に同定できるほどに実在種が正確に描写されているというのはやはり驚くべきこととしか言いようがない。

 
【左】ジュゼッペ・アルチンボルド《ソムリエ(ウェイター)》1574年、油彩/カンヴァス、87.5×66.6cm、
大阪新美術館建設準備室 (図録、p. 177)。

【右】
ジュゼッペ・アルチンボルド《司書》油彩/カンヴァス、97×71cm、スコークロステル城
 
(図録、p. 179)。

 
ジュゼッペ・アルチンボルド《司書》1566年、油彩/カンヴァス、64×51cm、
ストックホルム国立美術館 (図録、p. 181)。

 アルチンボルドの画業にカリカチュアとしての人物像が加わってくる様子が、「職業絵とカリカチュアの誕生」というコーナーで示されていた。ここでは、要素は生物ばかりではなくなっている。《ソムリエ(ウェイター)》では酒に関する道具類、《司書》では文字通り図書類で描かれている。
 しかし、《法律家》は羽をむしられた鳥や雛鳥、魚、法学書や書類などで構成されていて、必ずしも法律家に直接結びつく事物ばかりではない。この手法のずれ、はみ出しは次のような創作過程によるのではなかろうか。
 この人物は実在していて、アルチンボルドはその醜い容貌を揶揄する「残酷な肖像画を、皇帝の目を愉しませるために描いた」のであり、「その悪ふざけは成功を収めたのだった」 (図録、p. 181) とされている。カリカチュアが実在の人物を対象にすれば、悪意あるものとして作用するのはよくあることには違いない。ここでは、ただ一点、皇帝が愉しんだということによって(その時代においては)許容されたということだろう。


ジュゼッペ・アルチンボルド《庭師/野菜》油彩/板、35.8×24.2cm、
クレモナ市立美術館 (図録、pp. 192、193)。

 《ソムリエ(ウェイター)》や《司書》は、静物画に描かれるような素材によって構成される人物像であるが、上下絵によって人物画と静物画を同時に成立させるという作品のコーナーもあった。《庭師/野菜》は、野菜類と盥で描かれた「人物画」が上下逆転によって盥に盛られた野菜類という「静物画」に変容してしまう仕掛けになっている。
 「四季」シリーズや「四大元素」シリーズは多様な生物種の集まりが人物画に変容するという仕掛けになっていたが、上下絵は素材から人物への変容の後で、さらに素材そのものの静物画へと再変容するという二段構えになっている。しかし、この二段構えの変容は困難をも生み出しているようだ。静物画として完成度を高めるほど、人物画としては完成度が落ちてしまう。その逆もまた生じる。正直に言えば、「四季」シリーズや「四大元素」シリーズの人物像に驚いたほどには、上下絵の人物像には心は動かされない。ただただ、その機智に感心するばかりなのである。

 さて、どうまとめたらいいのだろう。「怖いもの見たさ」には違いなかったが、さしあたって「怖さ」はもうない。いつかまたアルチンボルドを見る機会があったら、さらにもう少しだけ余裕をもって味わうことができるだろう。さほどの根拠はないのだが、一応そんなふうに思いこんで帰りの新幹線に乗ったのだった。


[1]『アルチンボルド展』(以下、図録)(国立西洋美術館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2017年)。

 


 

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『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展』 東京都美術館

2017年06月27日 | 展覧会

 ブリューゲルには2点の《バベルの塔》の作品があり、その一つは今回の美術展の目玉であるボイマンス美術館所蔵作品で、もう一つはウィーン美術史美術館所蔵の作品だと紹介されている。 私はオランダに足を踏み入れたことはなく、当然ながらボイマンス美術館作品は初見である。
 ウィーン美術史美術館には数回行ったので、そちらの《バベルの塔》はたしかに見ているのだが、感覚的にはブリューゲル作品という印象は薄い。あの《バベルの塔》は誰の作品かと自問すればブリューゲルという答えは出る。しかし、ウィーン美術史美術館には農民や猟師、羊飼いや子供たちの遊びを描いた作品群が並んでいて、私のブリューゲルはそのような作品群と強く結びついてしまっているのである。
 もちろん、未見の《バベルの塔》に強い関心があったが、展覧会の「16世紀ネーデルランドの至宝―ボスを超えて―」というサブタイトルにも負けず劣らず惹かれたのである。ヒエロニムス・ボスという奇想の画家そのものの作品より「ヒエロムニス・ボスによる」とか「ヒエロムニス・ボスの追随者」という注釈のある作品を見る機会が多くて、ボスに対する飢渇感のようなもの私のなかのどこかにうっすらと堆積していたようなのだ。

 「バベルの塔」展と詠っているが、図録 [1] の巻頭論文のタイトルの「初期ネーデルランド美術へのいざない」という副題が示す通りのいわば「ボイマンス美術館展」というべき展示構成である。
 会場は、「16世紀ネーデルランドの彫刻」という展示コーナーから始まり、「信仰に仕えて」という展示に続く。


ディーリク・バウツ《キリストの頭部》1470年頃、油彩、板、36×27cm
 (図録、p. 55)。


コルネリス・エンゲブレフツ(レイデン1460/1462年-レイデン1527年)
《良き羊飼いとしてのキリスト》
1510年頃、油彩、板、25.4×44.2cm (図録、p. 72)。

 「信仰に仕えて」のコーナーは、ディーリク・バウツの《キリストの頭部》で始まっている。この絵を見たとき、心の中にゆっくりと驚きが立ち上がってくる感じがした。この絵に驚愕したのではない。これまでキリストが描かれた多くの絵画を見てきたが、私自身はキリストがどんな顔をしていたのかあまり気にしていなかった。この絵を見ながら、そのことに気づいて、我ながら驚いたのである。
 《キリストの頭部》は、あきらかにキリストがどういう顔をしていたか、そのことを主題にしている。図録解説には、次のように述べられている。

 中世の伝説によると、キリストと同時代に生きたローマの執政官プブリウス・レントゥルスは、古代ローマ元老院宛の手紙にキリストの容貌を描写した。額が広く、焦げ茶の髪を真ん中で分け、左右に分かれた短い髯を蓄え、目は灰青色だった。「レントゥルスの手紙」は実際にはかなり後の時代に書かれたものだが,中世の信奉者はキリストの信頼できる絵姿を是が非でも必要とした。ディーリク・バゥツはこの記述を克明に描き出しながら、目だけは青ではなく茶色にした。 (図録、p. 54)

 こんなことは考えなくても当然のことなのだが、キリストと同時代を生きた人間は無数にいるわけで、キリストの風貌を記録していた人間がいたであろうことは何も不思議なことではない。それなのに、私は絵画を通じてみるキリストの顔が実在した顔に似ているのかどうかまったく気にしていなかったのである。
 例えば、ジョルジュ・ルオーにはキリストの顔だけを描いた作品がたくさんある。「ジョルジュ・ルオー展」でそんな作品を次々に眺めながら、それらをルオーの信仰心と美意識とが創り上げた顔としてのみ受け取っていた。「キリストはこんな顔をしていたんだな」などとはけっして思わなかったのである。
 例えば、カラヴァッジョが描くいくつものキリストの顔を「カラヴァッジョ展」で見る。「地上のリアリズム」の具現化として、時には醜悪なまでに人間の業を顔立ち、表情に描いて見せたカラヴァッジョは、キリストだけは温和で美しい顔立ちに描いている。それを眺めながら、私が思っていたことはカラヴァッジョの信仰心あるいはキリストへの想いなどであって、キリストの顔のリアリティのことではなかった。
 それは、キリスト教に信仰を持たずに絵画を鑑賞する私個人の問題であって、「キリストの信頼できる絵姿を是が非でも必要」とする信仰者にとってバウツの《キリストの頭部》は切実な意味を持つのだろう。偶像崇拝を否定するプロテスタンティズムはさておいて、そういうキリスト教信仰の時代があったということだ。
 《キリストの頭部》を見てから、コルネリス・エンゲブレフツの《良き羊飼いとしてのキリスト》に描かれたキリストの顔を見るとバウツのキリスト像とよく似ていて、図録解説の「バウツの描く 「真顔」の与えた印象は強烈で、その後も1世紀以上、バウツの工房だけでなく、はるか遠くイタリアやスペインでも手本にされた。この作品こそ、現存する多くの模写の原典である」という記述に納得がいったのである。


【上】ヒエロニムス・ボス(スヘルトーヘンボス1450年頃-1516年)《放浪者(行商人)》
1500年頃、油彩、板、71.4×70cm (図録、p. 105)。
【下】ヒエロニムス・ボス(スヘルトーヘンボス1450年頃-1516年)《聖クリストファロス》
1500年頃、油彩、板、113×71.5cm (図録、p. 108)。

 期待していたヒエロムニス・ボスの作品は4点展示されていた。私が想像していたボスの絵のイメージは、「最後の審判」とか「ソドムとゴモラ」のような壮大な構図の中にさまざまな人間たち(というよりは人間のカテゴリーからはみ出した存在たち)がこまごまと描かれた奇想あふれたものである。
 ところが、実際に私が見た数少ないボスの絵は《風車を持つ子ども》とか《愚者の石の除去》などで、後者は奇妙な風習を描いたものとはいえ、私の思い込みのボスの絵らしからぬものだった。
 《放浪者(行商人)》はとくに奇想と呼べるようなものが描かれているわけではないが、貧しい行商人を主題として、時代を先駆ける「風俗画」と考えることができそうだ。背景の家が娼館であることは、「鳥籠の中のカササギ、屋根の棟に刺した棹の先に掛かるジョッキ、鳩小屋と白鳥の看板」 (図録、p. 104) から知られるという。そして、何よりもその娼館の陰で立小便をする男が描かれていることなど、この時代の風俗を見通すボスの眼差しのありようが窺えて興味深い。

 聖者伝説(説話)の一シーンを描いた《聖クリストファロス》にはボスらしい細部を見ることができる。対岸の廃墟からはドラゴンらしき獣が立ちあがっていて、裸の男が逃げ出している。こちらの川岸には、弓で射た熊を首括りにして木の枝に高々と吊り下げようとしている猟師がいる。右の大木に吊り下げられた水差しの家の壺口にいる小男は木の枝にランタンを懸けている。遠景の森のなかの赤い炎は、炎上するソドムを連想させる。
 ほかにも様々な奇妙な細部が描かれていて、ボス的世界がここから始まっているという印象を受ける。

 
【左】作者不詳(ヒエロニムス・ボスの模倣)、彫刻師不詳《跛行者》1570-80年頃、
エングレーヴィング、28.7×22.2cm (図録、p. 128)。
【右】作者不詳(ヒエロニムス・ボスの模倣)、彫刻師不詳《様々な幻想的な者たち》
1570-80年頃、エングレーヴィング、27.9×21.2cm (図録、p. 129)。

 
作者不詳(ヒエロニムス・ボスの模倣)、彫板:ピーテル・ファン・デル・ヘイデン
(アントウェルベン1530年頃-1572年頃)
アラート・デュアメール(スヘルトーヘンボス1449年?-1505/06年
のエングレーヴィングに基づく
《最後の審判》1560-70年頃、
エングレーヴィング、24×34.5cm (図録、p. 130)。

  上に挙げたボスの二作品は、「奇想の画家ヒエロムニス・ボス」というコーナーに展示されていたが、続く「ボスのように描く」というコーナーにも油絵とエッチング作品が一点ずつ展示されていた。
 「ボスのように描く」というテーマでなによりも興味深かったのは、ボス的想世界を描くために必要な素材が、《跛行者》や《様々な幻想的な者たち》のように準備されていたらしいことだった。「ボスの模倣者」や「ボスの追随者」たちは、このような細部を彩る様々な素材を共有していたのかもしれない。
 《最後の審判》には、《様々な幻想的な者たち》に描かれたような半獣半人や奇妙な肢体の人間、怪獣そのものとそれと戦う天使などが細部を埋めている。


ピーテル・ブリューゲル1世(ブリューゲル1526/1530年-ブリュッセル1569年)、
彫板:ピーテル・ファン・デル・ヘイデン(アントウェルベン1530年頃-1572年頃)

《聖アントニウスの誘惑》1556年、エングレーヴィング、23.1×32.3cm (図録、p. 148)。

 「ボスのように描く」のコーナーでボス的想世界を描いた多くの作品の後で、「ブリューゲルの版画」のコーナーに入ったのだが、ボス的想世界がここでも続いているとしか思えなかった。ブリューゲルはこのような作品を創出しつつ、農村の風俗を描いた作品世界をも創り上げ、《バベルの塔》を描いたという意味において、この展覧会のサブタイトルに「ボスを超えて」と記述される理由があるのだろう。
 《聖アントニウスの誘惑》という主題も、聖アントニウスを誘惑すべく様々な怪物が現れるというシーンはいかにもボス的想世界にふさわしく、「ヒエロムニス・ボスにもとづく」という同名の油絵も展示されていた。聖アントニウスを除く怪物や人物たちは、《跛行者》や《様々な幻想的な者たち》あるいは《最後の審判》に描かれたものたちと本質的な違いはない。


ピーテル・ブリューゲル1世(ブリューゲル1526/1530年-ブリュッセル1569年)
《バベルの塔》1568年頃、油彩、板、59.9×74.6cm (図録、p. 181
)。

 《バベルの塔》の前では滞留禁止で、歩きながら見るしかないのだった。近眼で老眼の身にはどうにもならないことで、少し離れた所からはゆっくり見てていいという案内もあったのだが、それでどうにかなるような絵ではないのである。
 さほど大きい絵でもないのだが、描かれているバベルの塔のスケールは大きく(ウィーン美術史美術館のものと比べれば建設の進む塔は一層大きくなっているように見えた)、しかも、「神は細部に宿る」とばかりにその細密な描写は驚くばかりである(会場では絵の雰囲気だけで、細部は図録の拡大図で確認するしかなかった)。
 けし粒のように見えたものが、様々な工事たずさわっている人々なのである。港には船から荷物を上げ下ろしする人夫も描かれているが、絵全体のなかで印象に残ったのは、バベルの塔そのもの色彩が荘厳さを与えていることと、その党に赤と白の二筋の色彩が載っていることだった。白は漆喰を引き上げていく道筋の汚れ、赤は同じく上層へ運搬される煉瓦が作る道筋である。それらを上階に引き上げる大きな工事用滑車も各階に緻密に描かれている。
 この絵を眺めながら思ったこと、それは、やがて神の怒りに触れて崩壊し、無に帰してしまう壮大な塔の建設に向かう人々の信仰心と、その有様をこんなにも緻密に長大な時間をかけて描き上げていくブリューゲルの心性はまったく相似た情熱に支えられていたのではなかったろうか、ということだった。一方は地上から消え、一方は作者の死後400年以上の時間を超えて遠く極東の地で多くの人が観賞している。まったく違う事象のように見えるが、人間が創造に向かう契機と情熱はいつも同じではないのか、そう思ったのである。
 

[1] 『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルランドの至宝―ボスを超えて―』(以下、図録)(朝日新聞社、2017年)。



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『ダリ展』 国立新美術館

2017年01月10日 | 展覧会

【2016年12月2日】

 新国立美術館でダリ展が開催されていることを知ったが、見に行こうかどうかいくぶんのためらいがあった。ダリだからということではない。世界的に名声を博した画家の展覧会ではよくそんな気分になる。有名な画家の場合、実物であれ、雑誌などの出版物であれ、多少なりともその作品を何らかの形で目にしている。それほど知られていない(私が知らない)画家の美術展のような新鮮な驚きを期待できないと思い込んでしまうのである。それに観客がとても多くて人酔いに悩まされた経験も災いしている。
 さいわい、年齢を重ねるほど人酔いに苦しむことは少なくなった。有名な画家の美術展でも新しい発見の喜びがあることも経験した。しかし、もうひとつ重要な問題がある。サルバドール・ダリである。シュールレアリスムの大物である。私には超現実主義に強い苦手意識があるのだ。
 若いころ『現代詩手帳』か『詩学』のような詩の雑誌でシュールレアリスムに関する評論に「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい!」 [1] という詩句のフレーズを引用して紹介されていたロートレアモンの『マルドロールの歌』を読んだのだが、感動どころか不可解という感慨ばかりであった。
 これは詩のことだが、絵でも同じである。シュールレアリスムの絵には細部においては具象体が描かれていることが多く、それらの具象体で構成される全体が現実を超えているということである。それはあたかも「ミシン」と「洋傘」が「手術台」のうえで「出会う」というフレーズと似ている。それぞれの名辞(具象体)をよく知っているのだが、その連関が持つ全体の文脈(イメージ)を辿れないのである。いや、意味を辿ろう、全体の文脈を構成しようと思うから失敗するのだろう。
 最初から具象体が描かれていない抽象画の場合は構図や色彩の美しさを楽しむことができるので、シュールレアリスムにおける「言葉」や「具象体」に惑わされているのだろう。具象体の組み合わせ(構成)がもたらすイメージの美しさを楽しめればいいのである。理屈ではそうだが、言葉や物に縛り付けられた凡庸な感性に期待できるものなのかどうか、見に行くしかないと新幹線に乗り込んだのである。


《縫い物をする祖母アナの肖像》1920年頃、油彩/カンヴァス、49.5×63.0cm、
ガラ=サルバドール・ダリ財団 (『図録』p. 52)。


《フィゲラスのジプシー》1923年、油彩、グワッシュ/厚紙、
104.0×75.0cm、国立ソフィア王妃芸術センター 
(『図録』p. 62)。

 ダリといえども初めからシュールレアリストであったわけではない。窓辺で手仕事をする女性、窓から遠景は望めるという構図の西洋絵画は多い。祖母アナという実在の人物の肖像画として描かれた《縫い物をする祖母アナの肖像》も同じ構図なのだが、窓から差し込む光と影だけで祖母アナが描かれているのである。
 肖像画なのにその人物の顔立ちなどは判然としない。ここには常識的な「意味」を拒否するシュールレアリストの片鱗が現れているのかもしれないが、一方でそれは、部屋の静謐さ、落ち着いた安寧の人生を送っている老女の表象としてすぐれた表現であるようにも思える。
 ダリの初期作品には《縫い物をする祖母アナの肖像》のような印象派風の絵や、強い点描の新印象派を思わせる作品、さらには《キュビズム風の自画像》まであって、さまざまなモダン流派の技法を試みていることが展示で示されている。
 《フィゲラスのジプシー》はやや太めの線描で、フォービズムを試みた作品ではないかと思ったが、図録解説によれば、「ウルグアイ人画家ラファエル・バラダス(1890-1929年)の影響」ということである。私はバラダスという画家やその作品についてまったく知識を欠いているが、「いくらか線を省略したり、顔の造作を途切らせ描かなかったりすることで、逆に顔つきや態度の表現を豊かにするといった手法は、……(中略)……バラダスが「道化主義(クラウニズム)」と呼んだもの」(『図録』p. 62)と解説されている。この手の作品はこれだけだったので、会場では(少なくとも私にとっては)よく目立った作品だった。


《巻髪の少女》1926年、油彩/板、51.0×40.0cm、
サルバドール・ダリ美術館 (『図録』p. 74)。


《姿の見えない眠る人、馬、獅子》1930年、油彩/カンヴァス、60.6×70.4cm、
ポーラ美術館 (『図録』p. 92)。


《風景のなかの人物と掛け布》1935年、油彩/カンヴァス、55.5×46.0cm、
ガラ=サルバドール・ダリ財団 (『図録』p. 103)。

 ダリには広大な風景、多くの場合砂漠などの荒漠とした風景を背景として用いることがとても多い。《巻髪の少女》に描かれた風景は遠くに低い山並みが見える田園地帯のようで、けっして荒蕪地ではないのだが、薄絹をまとったエロティックな少女立像との奇妙なアンバランスが魅力的な絵である。
 少女の視線から見る風景として描かれる構図はロマン主義に由来すると解説にあったが、ドイツ・ロマンティクのフリードリッヒの絵とは印象が大いに異なる。一般に、ロマン主義の風景画は自然の偉大さ、崇高さを強調し、背中を見せてその風景を眺めている人物はあまり大きく強調しては描かれない。むしろ、この絵の主題は「少女のいる風景」ではなく「風景のなかの少女」という印象の方が強い。シュールレアリストとなるダリに即していえば、風景と少女が同じような重みをもつイメージの連関とでもいうべきかもしれない。
 ダリはしばしば「見えない存在」としての人間を描いている。《姿の見えない眠る人、馬、獅子》もその一つかもしれないが、じっさいには馬の体と一体化することで人間としては消えていても、その肉体は可視化されている。「中央に横たわる裸婦、馬、獅子が一体化したモティーフ」で、「女性の髪は馬のたてがみとなり、その両腕は馬の頭部・前足として機能し、馬の尻尾は獅子の頭を示している」(『図録』p. 92)
 風景のなかにエロティックな女性の肢体を配するという点では《巻髪の少女》と共通しているが、風景が荒涼としたものとなっていて、ダリの特徴がよく表されている。
 《風景のなかの人物と掛け布》もまた広大な風景のなかの人物という構図だが、枯れ木に掛けられた白布から上半身をのぞかせている人物の意味ありげな様子に捕らえられてしまう。たぶん、ここでこの意味を考え込んでしまうと、以前と同じように前に進めなくなってしまう。この辺りにシュールレアリスムのトラップがあるのだ。


【上】《ターバンを巻いたガラの肖像》1939年、油彩/カンヴァス、56.0×50.0cm、
国立ソフィア王妃芸術センター (『図録』p. 129)。

【下】《アン・ウッドワードの肖像》1953年、油彩/カンヴァス、85.7×61.0cm、
公益財団法人諸橋近代美術館 (『図録』p. 145)。

 正直に言えば、この美術展における最大の感動は《ターバンを巻いたガラの肖像》を見たときである。ほぼ真っ暗な背景、画家が深く愛した女性はカンヴァスの右下に小さく描かれる。構図といい、色調といい、度肝を抜かれてしまった。この絵に超現実主義などという形容はいらない。対象に対する深い愛情がそれを乗り越えてしまった、などと思わせるに十分な作品である。
 《ターバンを巻いたガラの肖像》と比べれば、《アン・ウッドワードの肖像》はいかにもダリらしい肖像画だと思ってあっさり通り過ぎてしまいそうになる。この肖像画に描かれる風景は、ダリでなければ描かれなかったものだが、多数のダリ作品の中に置かれてしまうとさほど目立たなくなってしまう。そういった意味では、《ターバンを巻いたガラの肖像》の印象はことさら際立っていたということある。


【上】《幻想的風景 英雄的正午(ヘレナ・ルビンスタインのための壁面装飾)》1942年、
テンペラ/カンヴァス、249.0×243.0cm、横浜美術館 (『図録』p. 138)。

【下】《幻想的風景 夕べ(ヘレナ・ルビンスタインのための壁面装飾)》1942年、
テンペラ/カンヴァス、247.5×247.0cm、横浜美術館 (『図録』p. 139)。

 (ヘレナ・ルビンスタインのための壁面装飾)という説明のある暁、正午、夕べの3枚組の絵のうちの2枚を示す。ここでは見えない人物ではなく、消えていく人物が描かれている。正午には上半身が薄れてしまった人物は雲や鳥と一体化しており、夕べには右足だけが消え残っている。時とともに存在が薄れていく人物というモティーフに強い物語性を期待してしまうのが普通であろうが、やはりここでも、ギリシア彫刻風の女性像が強い正午の日差しの中で風景に溶け込む美しさや宵闇の中で姿を失う瞬間のイメージを楽しむだけにしておくことにする。


《ポルト・リガトの聖母》1950年、油彩/カンヴァス、275.3×209.8cm、福岡市美術館
 (『図録』p. 201)。

 ダリの絵に宗教性を感じることはほとんどないが、《ポルト・リガトの聖母》は宗教画と呼ばれるべきだろうか。マリアは愛妻ガラに置き換えられ、幼子イエスは現代風の髪型である。背景が海というのは、聖母子像としてはとても珍しいというのが私の最初の印象だった。ただ、意味を訪ねない、文脈を問いたださない、ましてや物語性などをけっして求めない、そんな気持ちでダリの絵を見続けてきて、その最後近くに見る聖母子像である。私がクリスチャンだったらどんな感想を持つのだろう、と思ったあたりで私の思考は止まったようだった。
 この絵では、それぞれのパーツが空中に浮遊し、それは「分裂した粒子が浮遊して一定の距離を保つという原子物理学の理論を反映」(『図録』p. 200)しているのだという。これを「量子化した写実主義」(『図録』p. 215)と呼ぶらしい。原子核工学を専攻したのち、物理学を職業的専門として生きてきた私は、文学や美術についてのこのような物理学を粉飾したような主義や主張にいつも戸惑うのである。
 アラン・ソーカルとジャック・ブリクモンの『「知」の欺瞞』 [3] で論じられたのは哲学が援用する物理学についてであったが、ジャック・ブーヴレスも『アナロジーの罠』 [4] で同様の問題を取り上げている。『アナロジーの罠』の読後感を書いた時に私の考えをいくぶんかは述べているので、ここではこれ以上言及はしない。

 美術館帰りの新幹線の中でダリ展の図録を眺めていて、ダリの「まず優先すべきは、全白色人種国民の協議のもとに、全有色人種を奴隷におとしめるという策である」という発言をもとにシュールレアリスム運動を牽引してきたアンドレ・ブルトンはダリと訣別した、という趣旨の記述を見つけた(『図録』p. 121)。これもまた、優れた思想が優れた芸術を保証しない、また優れた芸術はその作家の優れた思想・人格を保証しない、ということの一例なのだ。思想と芸術の問題の闇は深い。

[1] ロートレアモン『マルドロールの歌』(栗田勇訳、現代思潮社、1963年) p. 292。
[2] 『Salvador DaliJí (ダリ展)』(以下、『図録』)(読売新聞東京本社、2016年)。
[3] アラン・ソーカル、ジャック・ブリクモン(田崎晴明、大野勝嗣、堀茂樹訳)『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(以下、『「知」の欺瞞』)(岩波書店、2000年)。
[4] ジャック・ブーヴレス(宮代康丈役)『アナロジーの罠』(新書館、2003年)。



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『「松本俊介と野田英夫」展』 大川美術館

2016年12月23日 | 展覧会

【2016年11月29日】

 仙台市立図書館は仙台メディアテークの3階にあって、エスカレーターを使って登っていく途中の2階の通路にたくさんのポスターが懸けられている。その中に「松本俊介と野田英夫」の一枚があった。大川美術館のある桐生市には一度も足を踏み入れたことはなかったことも、迷うことなく見に行こうと決めた理由の一つである。そう決めたら気分がそぞろになって、その日は一冊の本も借りずに帰って来た。
 松本俊介の絵が気に入って、とても気になるという時期があった。生誕100年の記念展が岩手県立美術館で開かれたときに盛岡まで出かけた。巡回展で、その後宮城県美術館でも開かれたので、もう一度見に行った。洲之内徹や窪島誠一郎の本ばかりではなく、俊介自身が書いた『人間風景』や坂井忠康や村上善男など俊介について書かれた本も読んでみた。
 いくつかの本に、松本俊介の絵と野田英夫ジョージ・グロスの絵の共通点を指摘する記述があり、それぞれ画集を手に入れて眺めたりもした。その共通点というのが、松本俊介の絵の中でも私がとくに気に入っていた都会を描いたシリーズのモンタージュ手法なのだった。同じモンタージュ手法でもグロスのものとはかなり異なっていると思ったが、野田英夫のそれとの比較は興味深いものだった。色彩感覚はかなり異なっているものの、空間(イメージ)の重ね合わせ方がよく似ているのである。 
 ジョージ・グロスの作品を実際に見たことはない。野田英夫の絵は、横浜美術館で見た一点だけである。私が美術展だけを目的として出かけられるのはせいぜい関東近辺までなので、松本俊介と野田英夫の二人展が開かれるのが桐生市だったのは都合が良かった。何よりも美術展のポスターを見かけた偶然が幸いだったということだろう。
 いま、手許に「松本俊介と野田英夫」展の図録 [1] の他に、松本俊介 [2] と野田英夫 [3] のそれぞれの図録がある。以下に引用する図版は、そのいずれかからのものである。

 
野田英夫《初冬》1932年、油彩/カンヴァス、40.5×51.2cm、信濃デッサン館 (『野田&多毛津』 p. 21)。

 仙台駅で乗ったのは小山では止まらない「やまびこ」だったので、宇都宮で新幹線を降りて東北本線に乗り継ぎ、小山で両毛線に乗り換えて桐生駅に向かった。
 桐生駅から北に歩き、上毛電鉄の西桐生駅を過ぎて道が右へ曲がっていくあたりで左の案内板に従って細道に入る。車の通れない住宅地の急な坂道を上り切ると水道山公園の下の道に出る。その道沿いに大川美術館の玄関があり、建物は下方の斜面に沿って何階かの層を重ねている。入館した階には所蔵作品の展示があり、一段下ると野田英夫の作品から展示が始まっていた。

 最初に見た作品が《初冬》で、図録で見ていた作品だが、それとは奇妙に異なる強い印象を受けた。坂道に沿って並ぶ家並の向こうに湾らしい光景が広がり、空には白雲が浮かぶ。言葉でそう書くと明るい光景のようで、比較的暗い色調の絵にもかかわらず図録ではあまり暗いという印象はなかった。
 実物の絵の方が図録より明るい色調のように感じるのだが、「このくっきりとした暗さはどうしたことだろう」というのが最初の感想だった。それは、強いコントラストで描かれた姉妹らしい二人の女性の効果に違いない。前傾姿勢で先を急ぐらしい姉、林檎を手に持つ幼い妹の眼は強いまなざしで画家を見つめている。本来は明るいはずの風景を暗い色調で描くことと二人の女性が画面にもたらしている物語性が、この絵の(私にとっての)強い印象の理由だろうと思ったのだった。


野田英夫《汽車のある風景》1937年、油彩/カンヴァス、33.8×24.0cm、
信濃デッサン館 (『野田&多毛津』 p. 34)。

 《汽車のある風景》は、松本俊介の都会シリーズのモンタージュ手法との比較で眺めていた作品の一つである。ジョージ・グロスのモンタージュはパーツの境界がはっきりしていて、松本俊介のそれは空間が重層するように描かれている。
 野田英夫の絵ではパーツの重なりぐあいは松本俊介ほど多くはない。とくにこの《汽車のある風景》では重層化はほとんど見られないが、グロスほど境界がはっきりしているわけでもない。
 野田英夫の《汽車のある風景》などの絵や松本俊介の都会シリーズがもつ時間軸と空間軸における多重断面の重なりに惹かれる理由をずっと考えてきた。おそらく、それは「近代」の表象ではないか。とくに松本俊介は「近代」に強く固執していたように思える。
 松本俊介が盛岡から上京して東京の中でイメージ化されていった「近代」は、仙台近郊の片田舎で膨らましていた私の「近代」といくぶん重なっているのではないか。野田英夫の「近代」にはアメリカがあって、「近代」がいっそう具象性を帯びるのだが、松本俊介の「近代」には憧れや空想の要素があって、私にはそれが「切なさ」のような思いとして伝わってくるのである。


野田英夫《ポキプシー》1937年頃、油彩/カンヴァス、33.8×24.0cm、大川美術館 (『松本&野田』 p. 8)。

 モンタージュ手法で描かれた作品は、ある時代の画家の心象風景として興味深い(かといってそのパーツごとの細部の意味や連関を読み解くことは難しいのだが)。ただ、図録作品を眺めている限りでは、野田英夫自身はモンタージュ手法にこだわっているという印象はあまり強くない。代表作と言われる《ムーヴィングマン》の習作を見てもそういう印象が強い。
 《ポキプシー》もモンタージュ手法で描かれた作品と色調がよく似ていて、この絵の前に立った時には同系列の作品ではないかと思ったのだが、描かれない余白を利用した美しい風景画である。工場や運河という近代的風物は松本俊介もよく描いたが、煙や排ガスで薄汚れた建物と工場排水で濁った運河という常識的なイメージを超えて、美しい風景として描かれていることに凡庸な精神は驚くのである。


【左】野田英夫《男》1937年頃、鉛筆/紙、18.7×12.1cm、大川美術館 (『松本&野田』、p. 27)。
【右】野田英夫《リトルガール》1932年、リトグラフ/紙、32.8×20.5cm、個人像 (『松本&野田』 p. 16)。

 野田作品には人物画も多いが、展示作品の中の人物画のなかで最も強い印象を受けたのが《男》と題された素描画だった。眼の描き方に惹かれたのである。この人物の実存を顕わすものはこの両眼しかないかのような描き方である。
 同じような伏し目の少女を描いたのが《リトルガール》で、素描の《男》とは違って、存在というよりは少女の気性の顕われのようだ。
 私の手許にある図録に含まれていた多くの人物画を眺めていた限りでは、このような印象の人物はほとんどないといってよい。少しばかり大げさだが、私のなかではもう一つの野田英夫の発見と言ってよい。


松本俊介《街》1938年、油彩/合板、131.0×163.0cm、大川美術館 (『松本』p. 53)。

 松本俊介作品は、《街》で始まっていた。私のお気に入りの都会シリーズに含まれる作品である。モンタージュ手法で描かれているが、松本作品としては比較的構成がシンプルである。
 都会シリーズの松本作品は青を基調とした色彩で描かれているが、《汽車のある風景》もそうだがモンタージュ手法の野田作品は褐色-黄色系の色彩で描かれることが多い。その色彩感覚から(大胆に言ってしまえば)松本俊介の繊細さ、傷つきやすさのような精神を感じる。野田英夫の場合は、松本より線は太いが近代的合理性と否応なく向き合っている不安のようなものを感じてしまう。


松本俊介《運河風景a》1941年、鉛筆、コンテ/紙、38.0×45.70cm、
大川美術館 (『松本』 p. 162)。

 松本作品には、運河やそれに架かる橋などを描いた一連の作品があり、《運河風景a》もその一つである。aは、まったく同じ主題、手法で描かれた《運河風景》と区別するための記号だろう。
 青を基調とする都会シリーズは1938~40年頃に描かれているが、運河や橋、「Y市の橋」シリーズなどの作品はそれ以降の時代に描かれている。松本俊介の絵には、そのような時代的変遷を見る楽しみもある。


松本俊介《ニコライ堂の横の道》1941年頃、油彩/板、38.0×45.5cm、
大川美術館 (『松本』 p. 197)。

 松本俊介にはニコライ堂を描いた作品も多い。神田川に架かる聖橋、聖橋からニコライ堂の東を上る坂道と一緒に描かれることが多いが、《ニコライ堂の横の道》に描かれている塔は大聖堂ではなく現在はなくなった小聖堂と思われる。
 ニコライ堂というのは、私にとっても奇妙な感じで惹かれる対象だが、明らかに「近代」以前を喚起させる建物である。知識としての東欧の中世のイメージが、ヨーロッパ全体そのものを近代的表象として受け止めてしまっていることが、私の奇妙な(いびつな)「近代」を形成しているのかもしれない。
 しかし、松本俊介にとってのニコライ堂は造形的な魅力を持つ建築物として描かれたとされている。ニコライ堂と一緒に描かれる聖橋などの全景が実景とは異なり、ある種のモンタージュ的合成として描かれていることがある。それが戦後の抽象的な松本作品の理解につながるのではないかという指摘である(『松本』 p. 194)


【上】野田英夫《野尻の花》1938年、油彩/ボード、33.0×24.0cm、
信濃デッサン館 (『松本&野田』 p. 8)。

【下】松本俊介《建物(青)》1948年、油彩/カンヴァス、24.0×33.0cm、
大川美術館 (『松本』 p. 232)。

 松本俊介は1948年に36歳で亡くなり、野田英夫は1939年に30歳で亡くなった。ともに夭逝の画家である。この美術展には、奇しくもこの夭折の画家二人の遺作がそろって展示されていた。野田英夫の《野尻の花》と松本俊介の《建物(青)》である。
 野田英夫も《野尻の花》は初めて見る作品だが、窪島誠一郎の『漂泊――日系画家野田英夫の生涯』という本に紹介されていたのを見たことがある。ほんとうに若くして亡くなった画家の遺作として強い印象が残っている。西欧近代に向き合い続けた眼差しの先に日本の野辺の花々があったというのはどこか象徴的だと感じながら、いったいどんな精神を象徴しているのか、今の私には判然としない。
 松本俊介の《建物(青)》は都会シリーズと同じような色彩で描かれているが、褐色系の色で描かれた同じ主題の《建物》という作品があって、都会シリーズへの単純な回帰などではないことがはっきりしている。ここでもやはり造形的な美への関心が強いということだろう。
 同じ時期に描かれて、やはり遺作に近いと言われている「彫刻と女」も新しい松本俊介を予感させる作品なのだが、松本にせよ、野田にせよ、夭逝した芸術家の失われた未来というのはとても気にかかるものだ(言っても詮無いことだが)。

[1] 『松本俊介と野田英夫――大川美術館収蔵作品を中心として』(以下、『松本&野田』)(大川美術館、2016年)。
[2] 『松本俊介展』(以下、『松本』) (NHKプラネット東北、NHKプロモーション、2012年)。
[3] 『壁画帰郷記念展 野田英夫そして多毛津忠蔵』(以下、『野田&多毛津』)(熊本県立美術館、平成4年)。



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『藤田嗣治展――東と西を結ぶ絵画』 府中市美術館

2016年11月30日 | 展覧会

【2016年11月30日】

 もちろん藤田嗣治の名前を知らないわけはないし、いくつか作品も見ている。ただ、その名前が比較的強く意識の底に残るようになったのは、松本俊介の絵に興味を持っていた時期からだ。
 松本俊介の絵を見、彼自身が書いた文章や彼の絵について書かれた著作などを読んでいて、松本俊介が「抵抗の画家」だと言う人たちがいることを知った。私自身は彼が抵抗の画家だということを否定したいわけではないが、そう断言するほどの根拠を見出せなかったし、そのような評価が彼の画業に加える価値も見出せなかった。そんな流れの話の中に、藤田嗣治は代表的な「戦争画家」の一人として登場してきたのである。
 『画家と写真家の見た戦争』(世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館)を見たときに、戦争画ないしは戦争画家について私なりの考えをブログにまとめてみた。そこでは、戦争画家と呼ばれる画家であれ、虚心坦懐にその作品をそのまま見ることに意味があるだろう、などということを書いた。藤田嗣治を戦争画家として強く意識していたときがあったが、そういう点では戦争画家という予見をある程度まで排除して作品を眺めることができるかもしれない、そうであってほしい。そんなことが東京に向かう新幹線の中で考えていたことだった。


《バラ》1922年、油彩/布、81.0×65.0cm、ユニマットグループ (『図録』p. 55)。

 静物画は数点しか展示されていなかったし、花に関しては《バラ》一点だけだ。美しい絵だが、不思議な絵でもある。多くの場合、バラはバラの花そのものの美しさがあって、それが画家の美意識を通過することでいっそう美しく描かれる。花々を描く絵についてなんとなくそんなふうに思っていたが、この絵は明らかに違う。
 園芸的な観点で言えば、描かれているバラは徒長気味で、葉と葉、葉と花の間が間延びしている。しかも、花や下葉の様子から言えば、枯れかけているか、水切れのように見える。
 実感としては、花瓶に無造作に投げ込まれたまま日がたって、もうそろそろ捨てなければと思う頃の様子が描かれていると思えるのだ。しかし、この絵を見た瞬間に美しい絵だと思ったのである。野の花を無造作に投げ入れて、企まざる美しさを表現する生け花の手法があるが、それに通ずるような企まざる構図の美しさがある。直線的な枝に、花の重みに耐えかねて半円を描いてしだれて交差する姿が美しい。
 《バラ》を見た一瞬の感動をこのように後付けてみたが、おそらくはモノトーンの背景もまた重要な役割を果たしているだろう。しばしば裸婦像に描かれる乳白色の背景に通ずるような花瓶の背後の白布(紙?)がもたらす効果がとても大切だと思いながら、どうにも言葉にできないのである。


【上】《パリ風景》1918年、油彩/布、84.0×103.5cm、東京国立近代美術館 (『図録』p. 47)。
【中】《マザリ-ヌ通り》1940年、油彩/布、24.3×31.2cm、個人像 (『図録』p. 128)。
【下】《パリ、カスタニャリ通り》1958年、油彩/布、53.8×81.3cm、個人像 (『図録』p. 170)。

 藤田の初期の風景画である《パリ風景》をとても興味深く眺めた理由は、ひとえにこの絵が松本俊介の描く市街風景(もちろん東京のだが)によく似た雰囲気を持っていると感じたためである。とくに松本の《議事堂のある風景》や《ごみ捨て場付近》(まったく同じ構図の《風景》もある)がもたらす情感に近いものがある。とくに後者の《風景》は、松本の代表作と見なされることが多い《立てる像》の背景にも用いられている絵だ。
 しかし、その後の藤田嗣治の風景画には似たような雰囲気の絵は少なく、《マザリ-ヌ通り》や《パリ、カスタニャリ通り》のような明るい感じの絵が多い。色調による情感よりも、構図の美しさに力点がおかれているように思える。


【上】《裸婦像 長い髪のユキ》1923年、油彩/布、84.0×103.5cm、ユニマットグループ
 (『図録』p. 63)。

【中】《横たわる裸婦》1927年、油彩/布、81.0×100.0cm、茨城県近代美術館 
(『図録』p. 74)。

【下】《夢》1954年、油彩/布、50.8×61.3cm、個人像 (『図録』p. 162)。

 藤田嗣治特有の乳白色の裸婦像だが、《横たわる裸婦》のような筋肉質の裸婦の肢体を見たことがない。描かれている女性は、《裸婦像 長い髪のユキ》と同じ人物で、雪のように白い肌を持つことから画家自身が「ユキ」というあだ名をつけたという三番目の夫人、リュシー・バドゥーだという。
 ふっくらと描かれた肢体から筋骨隆々たる女性像への変化は、当時藤田が男性の筋肉質の裸体を描く壁画に取り組んでいたためではないかと推測されている(『図録』p. 224)。画家は人間の肉体についての解剖学的知見が必要とされているが、裸婦像でそれが顕著に示されるのは珍しいのではないかと思う。
 しかし、《裸婦像 長い髪のユキ》と《横たわる裸婦》といういわば二つの極端を経た画家は、《夢》のような美しい裸婦像を描く。たんにふくよかな肉体でもなく、解剖学的な肉体の描写でもないが、均整の取れた美しい肉体が描かれている。真っ暗な背景からのぞいている動物たちの顔が女性の肢体の美しさを際立たせているようで、印象的な作品だった。


【左】《ベルギーの婦人》1908年、水彩、パステル/紙、61.0×44.5cm、個人像 (『図録』p. 110)。
【右】《小さな主婦》1956年、油彩/布、55.0×33.0cm、いづみ画廊 (『図録』p. 164)。

 人物画も多数展示されていたが、《ベルギーの婦人》は描かれた女性の品のよさそうな美しさに惹かれた。女性の繊細な描き方と、背景となっているタペストリーらしきものに描かれている文様の描き方はやや異なっている。描かれている文様は中国風の様々な吉祥文で、一見くどくどしいのだが、いわく言い難い雰囲気を醸し出している。
 背景が藤田特有の乳白色だったり、その逆に暗い背景だったとすれば、夫人の美しさはどんな風に変化するのだろう。そんな想像を楽しむことができる絵である。
 《小さな主婦》を見たとき、この少女は童話、ファンタジーの主人公のように見えた。手に持つのはパンとミルクで、タイトル通りに家庭の使いを果たしている姿である。しかし、背景の壁や石畳なども含めて画家が主眼としているのは「ノスタルジーとシックさ」(『図録』p. 164)と図録解説にある。
 藤田嗣治がパリの路上の少女に見たノスタルジーは、私にとってはファンタジーなのだというのが面白い。20年ほど前、ドイツの田舎道を歩いた時、村の家並が幼いころ童話の挿絵で見ていたような景色に思えて感動したことがある。遠い世界の景色が私の意識の奥底の何かに通底しているらしいという発見は楽しい。


《アッツ島玉砕》1943年、油彩/布、193.5×259.5cm、東京国立近代美術館 (『図録』p. 133)

 戦争画としては、《アッツ島玉砕》、《ソロモン海域に於ける米兵の末路》、《サイパン島同胞臣節を全うす》の三点が展示されていた。日本兵、米兵、日本の民間人と描かれる人間たちは異なっているが、いずれも戦争の悲惨さが描かれている。
 これらの絵は、タイトルを見なければ、戦争賛美か戦争反対か、必ずしも明確ではない。《アッツ島玉砕》は、戦いに敗れて無残な死をさらしている日本軍の姿である。「陸軍は当初、この作品を公開することを躊躇していたという話」(『図録』p. 133)が信じられるほど、無残で残酷なまでに玉砕した日本兵の累々たる屍が描かれている。
 いま、《アッツ島玉砕》を眺めていると、この絵が軍事体制翼賛、戦争賛美の絵というのは信じがたいほどである。しかし、この絵が1943年9月1日からの「決戦美術展」に展示されると、展示作品の前に賽銭箱が置かれ、手を合わせる人が後を絶たなかったという。それは死者を悼む哀切が、絵ないしは絵に描かれた兵士たちの「靖国化」へと変化したということだろう。
 この絵が国民大衆のなかに靖国化の感情を生み出した以上、これは明確に戦争翼賛画に違いないが、しかし、藤田嗣治が戦争翼賛画家であろうとも、現代の私たちはこの《アッツ島玉砕》を反戦平和のモニュメントとして現代によみがえらせる契機を持つこともできる。芸術作品は作者の意図を超えた意味を持つことはあるのだ。そう思うのである。

[1] 『生誕130年記念 藤田嗣治展――東と西を結ぶ絵画』図録(以下、『図録』)(中日新聞社、2016年)。



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『クラーナハ展 ――500年後の誘惑』 国立西洋美術館

2016年10月19日 | 展覧会

【2016年10月18日】


『クラーナハ展 ―500年後の誘惑』(図録
(TBSテレビ、2016年)

 東京で午後からの会議があって、午前中に展覧会を一つ見るとしたらどれにするか、じつはそれほど選択肢はない。上野恩賜公園内のどれかの美術館から汐留のパナソニックミュージアムくらいまでの東京駅近辺ということになってしまう。新幹線から降りてJRや地下鉄を乗り継いで行く美術館では時間の余裕がなくなってしまう。
 とはいえ、国立西洋美術館で開催されているからクラーナハ展を選んだというわけでは必ずしもない。数はたいしたことはないが、あちこちでクラーナハの絵を見ていて馴染みがあるということもあったが、何よりもクラーナハの絵の印象がずっと強く残っていたということが大きい。例えば、ウィーン美術史美術館での感動の大きさで言えばクラーナハの絵はけっして高くはなかったのだが、無表情で硬質な感じの人物の顔が忘れられないのである。そのタイプの人物像は決して好きではないのだが、気になって仕方がないというのが正直な感想である。


ルカス・クラーナハ(父)《ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公》1515年頃、
テンペラ/板(針葉樹材)、64×48cm、コーブル城美術コレクション
inv. no. M. 166 (図録、p. 41)。


【左】ルカス・クラーナハ(子)《ザクセン選帝侯アウグスト》1565年以降(1575年頃?)、
油彩/カンヴァス、214.5×103cm、ウィーン美術史美術館 inv. no. 3252
 (図録、p. 102)。

【右】ルカス・クラーナハ(子)《アンナ・フォン・デーネマルク》1565年以降(1575年頃?)、
油彩/カンヴァス、214.5×103.5cm、ウィーン美術史美術館
inv. no. 3141 
(図録、p. 103)。

 会場で最初に見るクラーナハの絵は《ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公》である。クラーナハはザクセン選帝侯の宮廷画家だったので、この絵が描かれたことに不思議はないのだが、表情豊かとはいえないまでも無表情で硬質な顔という印象からほど遠い絵である。
 フリードリヒ選帝侯を前にして描いたとされていることから、忠実な写実ということが私が持っていたクラーナハらしさという印象を超えてしまう理由なのかもしれない。最初の一枚で自分の印象を修正しなくてはと思っただけでもこの展覧会は私にとっては大きな意味がある。
 クラーナハ(子)も選帝侯の肖像画を描いていて、《ザクセン選帝侯アウグスト》とその妻《アンナ・フォン・デーネマルク》の全身像が並べて展示してあった。大きな作品ではあったが、肖像画としては凡庸に思えてあまり感動することはなかった。いつものことだが、ある作品に言うべきほどの感動を受けなかった時、私の感受能力に欠損があるのではないかと疑いを持たざるをえない。それで、図録解説を読んでみたのだが、解説はこの絵が描かれた事情の説明がほとんどで、感受すべき美のありようについての評言を見つけられなかった。

 肖像画というのは難しい。ありていに言えば、肖像画で感銘を受けることは多くない。たとえば、ルーベンスには多くの自画像を含め人物画が多い。それでも感動が深いのは、無名の人物を描いた絵である。優れた自画像とほとんど変わらない表現なのに、無名の人物像に心惹かれるのは、無名であるがゆえに獲得される普遍化された人間像がもつ共有性のゆえではないかと思っている。〈象徴〉を通じて人々が共感しあえることと同じように、実在の個人に人間像を限定する肖像画より、無名の人物像において象徴化が高いということだと思う。


【左】ルカス・クラーナハ(父)《聖母子》1515年頃、テンペラ/板(菩提樹材)、81.6×54cm、
ブダペスト国立西洋美術館 inv. no. 4328 (図録、p. 51)。

【右】ルカス・クラーナハ(父)《幼児キリストを礼拝する幼き洗礼者ヨハネ》1515/20年頃、
油彩/板、29×18.9cm、個人像 (図録、p. 55)。

 《聖母子》も私のクラーナハ観を変えるような作品である。聖マリアの柔らかさ、豊かさに打たれる。いくつかの聖母子像が展示されていたが、この作品に眼をひかれて多くの時間を割いて眺め入った。
 母子像を眺めていて気が付いたのは、幼子の描き方に特徴があることだった。顔の器官が前方によっているのである。母子像のどれもに共通に見られたが、《幼児キリストを礼拝する幼き洗礼者ヨハネ》の二人の幼子にその特徴がよく顕わされている。西洋絵画には、当然のことながら数多くの(無数の、と言ってもよい)聖母子像があるが、このような幼子の描き方をした絵は記憶にない。きわめて、クラーナハ的なのではないかと思ったのだが、図録解説にこれについての指摘はなかった。記憶にはないが、私が見ることができた聖母子像はたかが知れているので、時代的なあるいは図像学的な意味があるのかもしれない。


ルカス・クラーナハ(父)《ゲッセマネの祈り》1515/20年頃、油彩・板、
54×32cm、国立西洋美術館 inv. no. P.1968-0001 (図録、p. 77)。

 《ゲッセマネの祈り》も印象の強い作品である。ゲッセマネの逸話はキリスト教におけるきわめて重要な場面には違いないが、目を惹いたのは捕吏たちがやってくる背後の夜明けの空の色彩である。光り輝く天使の色彩の明るさに血の色を加えたような空の明るさ、画面のほんの一部分に描かれた空が暗示するこれからの受難、そんな強い物語性に欠かせない夜明けの空である。「黄とオレンジに染まった夜明けの空、および接近する捕吏の群れの描写」(図録、p. 76)は、この時代の他の画家にも共通する描き方だと解説されている。
 下部に三人の使徒が描かれているが、その肢体はどことなく幼子のそれのように見える。屈みこんでいるので正確性を欠くが、身長に対して頭部が大きく描かれているのである。イノセントな幼子の聖性につながるような意図でもあるのだろうか。肖像画ではそのような印象をまったく受けないが、《サムソンとデリラ》のサムソン、《ロトとその娘たち》のロトなども同じような印象を受けて、物語(説話)の一シーンを描いた絵に共通する特徴のようにも思える。


【左】マルティン・ショーンガウアー《聖アントニウスの誘惑》1470/75年頃、エングレーヴィング、
29.4×20.9cm、アムステルダム国立美術館 inv. no. OB 1038 (図録、p. 113)。

【右】ルカス・クラーナハ(父)《聖アントニウスの誘惑》1506年、木版(第2ステート)、
40.7×27.8cm、国立西洋美術館 inv. no. G.2000-1759 (図録、p. 114)。

 版画作品の《聖アントニウスの誘惑》という二作品に強く吸い寄せられるように眺めたのは、じつは、そこに描かれた悪魔たちの姿のせいであった。ショーンガウアーとクラーナハの絵を悪魔の描き方で区別することはできない。じつによく似ている。悪魔の姿を一つ一つ(悪魔をどんなふうに数えたらよいかわからないが)分離して眺めたい気分になる。
 描かれる悪魔の姿が二人の画家でほとんど違いがないということは、同時代の画家たちが共有する悪魔のイメージという理解でいいと思えるのだが、もしかして、もっと長い歴史スパンでキリスト教文化の中で広く培われたイメージである可能性もある。これらの一つ一つの悪魔は、どこか他の絵画の中でも見たような感じがするのだが、今はその時代を確かめるすべはない。西洋絵画における悪魔図像辞典が手許にあってもいいなと思う。ただ。この版画の二作品において一つ一つの独立した悪魔が意味を持っているわけではない。身も蓋もない言い方になるが、悪魔という概念が図像化されていればいいのである。


【左】ルカス・クラーナハ(父)《ヴィーナス》1532年、混合技法/板(ブナ材)、37.7×24.5cm、
国立西洋美術館 inv. no. G.2000-1759 (図録、p. 131)。
【右】ルカス・クラーナハ(父)《ルクレティア》1532年、油彩/板(ブナ材)、37.7×24.5cm、
ウィーン造形芸術アカデミー inv. no. 3678 (図録、p. 169)。

 《ヴィーナス》と《ルクレティア》は、ベースとなる物語を異なるが絵画の主題や構図はほぼ同じだと私には思えたのだが、エルケ・アンナ・ヴェルナーが図録に寄せた「肉欲の誘惑と道徳の戒め――クラーナハの裸体像」という論考の中で、この二作品の主題の違いを次のように指摘している。

 この《ルクレティア》とフランクフルトの《ヴィーナス》というふたつの裸体像は、ふたつの愛のかたちを示している。つまり、ヴィーナスの罠が示す悪徳、姦通の愛と、ルクレティアによって表わされる死にいたるまで純潔な、婚姻による貞淑の愛である。犠牲となるルクレティアの運命はその感動的な表情に見てとれよう。本来の歴史的・神話的な物語の関連性が省かれたことで高められた彼女たちの官能的なありさまが、両作のイメージを結びつけている。純粋な裸体像として、必要最低限のものだけを備え、彼女たちは概念的な擬人像となった。ルクレティアは純潔(Castitas)の具現として、そしてヴィーナスは性欲、性的な官能の悦びの悪徳の具現として、立ち現れているのである。 (図録、p. 29)

 この美術展のタイトルの「500年後の誘惑」という言葉が示すように、この二作品がクラーナハ絵画の最も重要で代表的な作品群に含まれている。これらの女性たちが私たちを誘惑するということだろう。この二つの裸身立像はともに極めて薄い布をまとっているのだが、そのヴェールの意味について、ジャック・デリダの言を引用して、新藤淳が次のように記している(「クラーナハ、その誘惑のアナクロニー」)。

 デリダが着目したのは、何よりも、クラ一ナハの裸体像のほとんどがまとう、あの極薄のヴェールだった。その過剰な透過性をもった薄布は、わたしたちを彼女らの身体からそっと隔てながら、と同時にそちらへ誘い込む。皮膜のように薄く、微細な襞を刻んで流れるその布は、女性たちの素肌を覆いながらも隠さず、恥部を遮りつつも閉ざさない。彼女らは「裸」であって、またそうではない。ここには「内」も「外」もない。そのヴェールは、それらを分割していて、またしていない。“veil”というのが「覆い隠す」という意味の動詞でもあるとすれば、わたしたちがいま「ヴェール」と呼んでいるものは、はなはだ語義矛盾な何かである。はたしてこんなにも、絵と見る者との距離を惑わせる画家が、クラーナハ以外にいるだろうか。
 クラ一ナハの絵はこうして、クラークが考えたような「芸術作品」や「芸術形式」の内/外、本質/非本質、純粋性/不純性といった境界画定そのものを惑わせる (図録、p. 249)


ルカス・クラーナハ(父)《ルクレティア》1510/13年、テンペラ、油彩/板(菩提樹材)、
60×47cm、個人像 (図録、p. 165)。

 ヴェルナーや新藤淳の言葉を引用してしまうと、私が付けくわえられることなどほとんどない。彼らの指摘がきわめて適切であることもあるが、もう一つ、これらの裸体画の作品に私自身が「誘惑された」自覚があまりないからということもある。裸体画の典型のような《泉のニンフ》のように寝そべった女性を描いた作品もあるが受ける感じはほとんど変わらない。
 誘惑されるか、されないかはきわめて私的なことにすぎないが、クラーナハ作品から選ぶとすれば、上の《ルクレティア》のような作品の方がよい。もちろん、ルクレティアが純潔の象徴のような女性だなどという理由ではない。どこかふくよかで豊かな感じに惹かれるのである。


【左】ルカス・クラーナハ(父)《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》1530年代、
油彩/板(菩提樹材)、73.5×54cm、個人像 (図録、p. 203)。
【右】ルカス・クラーナハ(父)《ホロフェルネスの首を持つユディト》1525/30年頃、
油彩/板(菩提樹材)、87×56cm、ウィーン美術史美術館 inv. no. 145
 (図録、p. 205)。

 クラーナハの描く人物の表情はとても薄い。上の《ルクレティア》も無表情と言えるが、それは自死を遂行しようとする人間の絶望の果ての表情と理解できないこともない。
 しかし、《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》と《ホロフェルネスの首を持つユディト》の二人の無表情は驚くべきものである。二人の女性の表情に比べれば、首だけの聖ヨハネやホロフェルネスの死者の方に苦悶や絶望の表情が強く現れているようにすら見えてしまう。
 しかし、二人の女性の無表情には差がある。変な言い方だが、無表情の強度に違いがあるのだ。ユディトの完璧に近い無表情に比べれば、(強いて言えばだが)サロメは微笑んでいるのではないかと思えてくる。いわば、無表情を超えてしまったかのようだ。それはサロメの悪魔性を示しているのかもしれない。それをクラーナハが意図したのかどうかまったくわからないが、人間の感情を負の方へ(悪の方へ)突き詰めていった先に頬笑み(時に哄笑)があるというのは大いにありうることなので、サロメの物語性と相俟ってそう感じてしまったらしいのである。
 ユディトの完璧に近い無表情を眺めていると、人間の顔の造形のイデアの存在が強く信じられていて、人間の顔の造形と感情は切り離せないというような人間主義(ヒューマニズム)的な立場はまだ育っていなかったのではなかろうかと思えてくる(西洋美術史的な解釈は私の能力を超えているが)。


ルカス・クラーナハ(父、ないし子?)《子どもたちを祝福するキリスト》1540年頃、油彩/板(オーク材)、
81×121cm、奇美美術館、台湾 inv. no. 0011119 (図録、p. 233)。

 最後に、《子どもたちを祝福するキリスト》を挙げておく。あまり信頼できない記憶をたどってみたが、このような主題の宗教画を見るのは初めてだとおもう。キリスト教における子どもたちへ向ける慈愛は聖マリアが象徴的にすべてを引き受けていると思い込んでいたので、この絵をとても珍しいものとして受け止めたのである。
 神が子どもに慈愛を示し、祝福し、ときに奇蹟を行うのは宗教として特段に珍しいことではないが、そうした宗教画がキリスト教にあまり見られない。それは、キリストがすべての人間の救いを、マリアが子どもや病人や弱者への慈愛を、そして神が過てる人間への苛烈な罰を与えるものというようにキリスト教そのものが論理構造を持つためではないかと思われる。この絵は、キリストを身近なものとして描いているため、一方ではある俗っぽさを伴っているとも言える。上でヒューマニズムまだ育っていなかったと述べたことと矛盾するようだが、マルティン・ルターと同時代を生きたクラーナハに芽生えた人間主義的な意識を反映しているのかもしれない。
 そんなふうな勝手な想像をめぐらすのだが、現代日本から見るヨーロッパの500年前は私にはじつに遠いのである。いや、それなのに500年前の絵画が目の前にあるということを現代の僥倖として素直に喜ぶべきなのだろう。



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『ポンピドゥー・センター傑作展』 東京都美術館

2016年07月13日 | 展覧会

【2016年6月29日】

 「ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで」という副題があって、総花的で主題が見えない美術展の可能性もないではない、などと思いながら新幹線に乗って出かけた。「二十世紀芸術全体が主題」などと言われようものなら、私のような人間は困惑するだけである。
 しかし、臆病者の心配はどこへやら、とても面白い展示の美術展だった。1906年のラウル・デュフィの《旗で飾られた通り》から1977年のレンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースの《パリ、ポンピドゥー・センターのスタディ模型》まで、1年に1作品だけを当てて選んだ作品が展示されていた。図録 [1] の目次に相当する「年表/Chronology」には作品発表年の重要な歴史的事象が3~6項目ずつ書き添えられていて、おのずとこの展示手法が目論む主題を暗示する仕掛けになっている。

 展示はいきなり(私にはそう感じられた)デュフィ《旗で飾られた通り》から始まり、ブラック《レック湾》と続く。美術展を見て、印象深い作品をいくつか取り上げ、感想をブログに書き留めておく。そんな作業を行っている身には印象深い作品が多くなりすぎる予感がして、先行き不安になるような感じでこの美術展は始まったのである。
 例えば、デュフィは一昨年開催された『デュフィ展』(2014年2月、Bunkamuraザ・ミュージアム) [2] を見る機会があったので取り上げないことにする。このように「取り上げない作品」を選ぶというネガティヴな作業は美術展鑑賞としては本末転倒だが、それだけ興味深い作品が続くということで気分は十分に楽しいのである。


モーリス・ド・ヴラマンク《川岸》1909-1910年頃、油彩/カンヴァス、81×100cm (図録、p. 33)。

 ヴラマンクの《川岸》はフォーヴィスムらしい大胆な筆致で暗い川岸が描かれているが、なによりも私が惹かれたのは、川面の青白い輝きだった。夕暮れ時の風景を描いた作品らしいが、全体を暗い色彩で描いているせいか、暮れ残る空の一部の明るさや水面の輝きが際立って見える作品である。


マルク・シャガール《ワイングラスを掲げる二人の肖像》1817-1718年、
油彩/カンヴァス、235×137cm (図録、p. 51)。

 デュフィのように個人展を見た画家作品は取り上げないようにしようという決意をあっさりと反故にしたのは、シャガールの《ワイングラスを掲げる二人の肖像》である。三年前だが『シャガール展』(2013年9月、宮城県美術館)[3] を見ているのだ。もうこの後は選びたいものを選ぶといういつものスタイルに復帰するしかないのだった。
 男女二人に花や馬、家々のある背景という構図はシャガールには珍しくないのだが、自らの結婚を喜ぶ画家の有頂天のありようがまざまざと表現されていて顔がほころんでしまうような作品である。いかにうれしいとはいえ、花嫁の肩に男性である花婿が乗ってしまう(かつがれる)というのはやりすぎだろうと茶化して見たくなるような作品で、こんな作品の味わい方は珍しく、そして楽しい。


ヴィクトール・ブラウネル《無題》1938年、油彩/厚紙、
16×22.1cm (図録、p. 97)。

 小品だが、ブラウネルの《無題》に惹きつけられた。近眼で老眼の身には、まだ細部がよくわからないうちに思い浮かべたのは、ルオーの《エクソドゥス》[4] や《避難する人たち(エクソドゥス)》[5] という作品であった。
 大きく描かれた人物から受ける印象は「不安定」ないしは「不安」感である。背景には何がしかの建築物も描かれているが、全体は荒野のようにものさびれた雰囲気がする。小さくえがかれた背景の人物は歩いているのか走っているのか判然としないが、手を振りながら去ろうとしている。
 ルオーは現代のエクソドゥスを描こうとしたのだと私は思っているのだが、ブラウネルもまた、現代人の不安と異世界への逃亡、脱出への望みを描いているというのは、私の勝手な解釈にすぎないのだろうか……


アンリ・ヴァランシ《ピンクの交響曲》1946年、油彩/カンヴァス、97×130.5cm (図録、p.113)。

 1945年、ヨーロッパでもアジアでも大戦が終わった。この年の展示は「空白」である。1945年はどの年代に属しているのか、という問いかけかもしれない。なにも展示されていない空間にエディット・ピアフの「バラ色の人生」が耳の衰えた私には聞き取りにくいほどの静かな音で流れていた。
 何もない1945年展示から移動するとアンリ・ヴァランシの《ピンクの交響曲》が目の前に現れる。「バラ色の人生」から戦後平和の「バラ色の時代」への変化なのかと思ってしまうような色彩である。バラ色に光り輝く世界はリズムに満ち溢れ、躍動している。これを戦後平和に結びつけるのは強引だと思うが、1945年、1946年となにかとても象徴的な展示(あるいは非展示)である。


ジル・キャロン《サン=ジャック通りで舗石を投げる人、
1968年5月6日》1968年、ヴィンテージ・ゼラチン・シルバー・プリント、
30×20cm (図録、p. 163)。

 1968年はカルチェ・ラタンの一シーンの写真である。日本の1968年は日本の識者にはあまり評価されていないが、ヨーロッパの1968年はヨーロッパの多くの思想家たちが重要な政治的かつ思想的「事件」(ジジェク風に表現すれば)として取り上げている。
 あの時代、友人たちと生きた時代を思い出していくぶん感傷的になってしまうが、あれから会うこともなくなった友人たちへのオマージュ代わりに取り上げておく気になった写真作品である。
 あの空中を飛んでいる敷石の破片はいったいどこに落ちたのだろう。パリと東京では石の落ちる先ははっきりと異なってはいた。それは知っている。


オーレリ-・ヌムール《白い騎士》1972年、油彩/カンヴァス、
150×150cm (図録、p. 171)。

 三つの矩形と三色だけである。マーク・ロスコの「マルチフォーム」[6] を思わせて、さらにいっそうシンプルである。造形芸術は想世界ばかりではなく表象技術においても高度化しながら複雑な表現を獲得していくだろうが、それとまったく同じように高度化された表象思念が表現の単純化の方向にも働いていくことをロスコ作品やこの《白い騎士》などが明瞭に示している。
 いかにシンプルな表象世界といえども、発見され尽くし、拓かれ尽くすということはない。芸術の表現世界は無辺だということを、このような単純極まりない構図の作品によって思い知らされるのである。


【上】セラフィーヌ・ルイ《楽園の樹》1929年、油彩/カンヴァス、195×130cm (図録、p. 75)。
【中】フルリ=ジョセフ・クレパン《寺院》1941年、油彩/カンヴァス、54×71cm (図録、p. 103)。
【下】ジャン・デュビュッフェ《騒がしい風景》1973年、塗料/樹脂積層板、241×372×3.2cm 
(図録、p. 173)。

 芸術の世界が広大無辺だということを圧倒的な事実で私が知ることになったのはアール・ブリュットの作品群に出合った時であった。
 セラフィーヌ・ルイの《楽園の樹》をひとめ見たとき、これはアール・ブリュット作品だと思ったのはあながち間違いではなかった。セラフィーヌ・ルイは、羊飼い、修道院の住み込み、家政婦などとして働き、絵は完全に独学で、この作品を描いた三年後に精神に異常をきたし入院した(図録、p. 195)という。
 厳密に言えば、アール・ブリュットというよりアンリ・ルソーに連なる「素朴派」[7] と呼ぶべきかもしれない。しかし、極小な具象細部へのこだわり、その極小細部の気の遠くなるような繰り返しや緻密な配列で一度は脱構造化された全体を構成するという画法は、アール・ブリュットと共通する。
 《寺院》を描いたフルリ=ジョセフ・クレパンは、《無題》という作品が小出由紀子の『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』[8] に紹介されていた画家である。《寺院》とほとんど同じ構図で、華麗で荘厳な教会建築物が描かれ、その上空には複数の「浮遊する魂」(図録、 p.200)が並んでいる。先の《無題》という作品に接したとき、私は天空に描かれた顔を「浮遊する魂」としてではなく世界を見下ろしている神々として受け取り、アルビノ・ブラスの《無題》という作品と合わせて次のように書いたことがある。

 人間の原初的な感覚から始まる宗教感情というものがあるだろう、神話を生みだす感情と精神が。アルビノ・ブラスの絵も、フルリ=ジョセフ・クレパンの絵も、原初的な感覚をはるかに越えて、世界を包みこむ神話空間を構成しているようにさえ感じる。
 象徴化された世界と、花も蝶も鳥も生みだす女神としての女性、あるいは、人間たちの生活空間を高みから見下ろしている視線たち。世界はそんなふうに構成されているのだ、と言わんばかりである。

 最後に、「アール・ブリュット」の発見者、名付け親として多くの作品を世界に紹介したジャン・デュビュッフェの功績に多大な敬意を表しつつ、彼の《騒がしい風景》を挙げておく。デュビュッフェらしくアウトサイダーズをインサイダーズの世界に重ね合わせるかのような作品である。
 この三作品は、1929年、41年、73年と1945年をまたいで製作されている。人間は時代を越えて生きることはできないが、時代を越えて通底する原初的な想世界を精神の奥底に抱えていることを示していて考えさせられる。


[1] 『ポンピドゥー・センター傑作展 ―ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで―』図録(以下、『図録』)(朝日新聞社、2016年)。
[2] 『デュフィ展』(中日新聞社、2014年)
[3] 『シャガール展』(北海道新聞社、2013年)
[4] 『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』(出光美術館、昭和27年)p. 21。
[5] 『モローとルオー――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年) p. 175。
[6] 川村記念美術館監修『マーク・ロスコ』(みすず書房、2009年)
[7] 遠藤望、加藤絢編著『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』世田谷美術館、2013年)
[8] 小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』(求龍堂、2008年)



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『メアリー・カサット展』 横浜美術館

2016年07月08日 | 展覧会

【2016年6月28日】

 メアリー・カサット、どこかで聞いたような画家の名前だが判然としない。アメリカ生まれの印象派の画家ということに惹かれて横浜まで出かけた。
 仙台から出ていくと東京を越えるというのは心理的に微妙なバリアがある。上野で乗り換え、東京で乗り換えるというずっと若いころの記憶が身に染みているらしい。それでも、二度目の横浜美術館である。一度目はJRを桜木町で降りて美術館まで歩いたが、今回は横浜でみなとみらい線の乗り換えるとずっと便利だという知恵もついた。


《バルコニーにて》1873年、油彩/カンヴァス、101.0×54.6cm、
フィラデルフィア美術館 (図録 [1]、p. 27)。

 会場に入って最初に眼に映ったのが《バルコニーにて》という作品で少し驚いた。印象派だというのに、半年ほど前の『プラド美術館展』 [2] の会場に入ったような印象だ。
 作品解説には、カサットは6ヶ月間スペイン、セビーリャに滞在し、プラド美術館を訪れた際にムリーリョの絵画に魅了されたと記されている(図録、p. 26)。『プラド美術館展』ではムリーリョ作品は宗教画ばかりで、風俗画に近い《バルコニーにて》とは主題が大きく異なっているが、人物も描法もスペイン画の息吹を強く感じる。
 画家が初期から盛期、晩期へと大きく変容を遂げるのは個展ではしばしば見られることだがが、《バルコニーにて》を見て、印象派の画家、メアリー・カサットへの期待感の質が微妙に変化したのは確かだ。


《桟敷席にて》1878年、油彩/カンヴァス、81.3×66.0cm、
ボストン美術館 (p. 43)。

 《桟敷席にて》は、「印象派との出会い」と題されたコーナーに展示されていた作品である。この絵を見た瞬間に感じたのは、ここにはえエドゥアール・マネがいるということだった。その場ではどこがどんな風にマネなのかまったく思い浮かばなかったのだが、帰宅してマネの画集を引っ張り出して頁を繰ったら、《黒い帽子のベルト・モリゾ》に描かれた肖像画の婦人(モリゾ)とオペラグラスを持つ婦人が似ているのだった。あるいは、《フォリ・ベルジェールの酒場の女》の黒い帽子を被った女性にも似ている。
 解説には《桟敷席にて》は《オペラ座の黒衣の婦人》と題されることもあったと記されている(図録、p. 42)が、決して服装が似ているというだけではない。女性の描き方が似ていると思うのである。ミシェル・フーコーがエドゥアール・マネを「クヮトロチェント以来の西洋絵画において基礎をなしていたもののすべてをひっくり返し」、「二十世紀絵画の始まりの一人」 [3] と評した際に取り上げた《給仕する女》や《フォリ・ベルジェールのバー》に描かれた女性(けっして黒い帽子は被っていない)にも共通した印象がある。


《髪を結う若い娘(No. 2)》1889年頃、ドライポイント(3/3ステート)、
25.8×18.3cm、アメリカ議会図書館 (p. 55)。

 カサット作品には圧倒的に女性像が多いが、《髪を結う若い娘(No. 2)》は素描に近い小品のドライポイントの作品である。あらゆる装飾を外して純粋に髪を結う仕草、上半身の姿態のみを描いていて、とても好もしい作品になっている(素描好きの私にとってという意味だが)。
 髪を結うという動きをする肉体の美しさという一点のみを抜き出して描かれ、それ以外は空白として残されている。その何もない空白こそがその作品が生み出すものの余剰と思われ、私のような受け手の情感を豊かにしてくれるような気がするのである。


【左】《化粧台の前のデニス》1908-09年頃、油彩/カンヴァス、83.5×68.9cm、
メトロポリタン美術館 (p. 87)。

【右】喜多川歌麿《高嶋おひさ 合わせ鏡》1795年頃、木版、34.9×25.1cm、
メトロポリタン美術館 (p. 101)。

 「新しい表現、新しい女性」というコーナーに「ジャポニズム」という小コーナーが含まれていて、そこに展示されていた《湯あみ(たらい)》という作品を見て、メアリー・カサット作品を見たことがあったという事実をやっと思い出した。『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』(2014年6月、世田谷美術館)で《湯あみ》として展示され、喜多川歌麿の錦絵《(母子図 たらい遊)》から主題や構図をとっていると紹介されていた作品 [4] だった。
 《化粧台の前のデニス》もまた、喜多川歌麿の《高嶋おひさ 合わせ鏡》と同じ主題、似た構図の作品であるが、扇子や和服を配してジャポニズムだと称する作品に比べれば、主題も構図もとても好もしいカサット作品そのものになりえている。


【左】ベルト・モリゾ《バラ色の服の少女》1888年、パステル/カンヴァス、81.5×51.3cm、
東京富士美術館 (p. 81)。

【右】マリー・ブラックモン《お茶の時間》1880年、油彩/カンヴァス、81.5×61.5cm、
プティ・パレ美術館 (p. 82)。

 上に挙げた《桟敷席にて》に描かれた婦人がマネの描いたベルト・モリゾ像に似ていると書いたが、そのモリゾ作品が同時代の女性画家に一人として《バラ色の服の少女》など数点展示されていた。
 《バラ色の服の少女》は、モリゾ作品らしくとても柔らかで淡々しい印象の作品だが、ブラックモンの作品は点描ながら主題がくっきりと描かれている。暗い木々を背景とした女性の淡いピンク色の顔が印象的な作品である。東洋人である私にはいくぶんドキッとするような印象である。


《果実をとろうとする子ども》1893年、油彩/カンヴァス、100.3×65.4cm、
ヴァージニア美術館 (p. 107)。

 モリゾやブラックモンの女性像と対比させる作品として多くの母子像の中から《果実をとろうとする子ども》を選んでみた(母親の衣服がモリゾ作品を思わせ、濃色でしっかりと描かれた背景がブラックモン作品を思わせるという理由だけだが)。
 西洋絵画では無数の聖母子像、聖マリアと幼子イエスが描かれてきた。例えば、最近開催された『ボッティチェリ展』(2016年1月) [5] では、あたかもフィリッポ・リッピ、サンドロ・ボッティチェリ、フィリピーノ・リッピの聖母子像の競作展の趣ですらあった。カサットの母子像は、そのような聖母子を描いた絵画の系譜につながるものだろう。聖母子像が多く描かれ、受容されてきたのは、その聖性、宗教性によるばかりではなく、宗教性を離れてもそこに明確に描かれている母親と子の深い情愛や堅固な結びつきへの強いシンパシーが生まれるために違いない。
 《果実をとろうとする子ども》は、たとえばグエルチーノの《聖母子と雀》 [6] のように母子そろってある対象を見つめるというしばしば見られる構図がとられている。この構図は、世界に目覚め、成長していく子とそれに寄り添う母親の姿が象徴されているだろう。


《母の愛撫》1896年頃、油彩/カンヴァス、38.1×54.0cm、
フィラデルフィア美術館 (p. 119)。

 カサットの母子像作品群の中で、私にとってもっとも印象的だったのは《母の愛撫》だった。子を抱く母の左手や子の腕をつかむ右手の力強さも印象的だが、頬に触って母親の実在を確かめようとしているかのような子の左手、少し反身になって母親の顔全体をしっかりと見定めようとしているかのような子の表情もまた強い印象を与える。
 頬に触れる幼子の柔らかな掌の感触、それに加えて、掌に伝わってくる母親の頬の暖かい感触も同時に見る者に喚起させるような絵である。私の感情は、母親の頬の皮膚感覚と、子の掌の温感とで多元的に構造化されているような美しい錯覚を与えてくれる絵である。

[1] 『メアリー・カサット展』図録(以下、『図録』)(NHK、NHKプロモーション、2016年)。
[2] 『プラド美術館展――スペイン宮廷 美への情熱』(読売新聞東京本社、2015年)
[3] ミシェル・フーコー『マネの絵画』(阿部崇訳)(筑摩書房、2006年)
[4] 『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展――印象派を魅了した日本の美』(NHK、NHKプロモーション、2014年)

[5] 『ボッティチェリ展』(朝日新聞社、2016年)
[6] 『グエルチーノ展 ―よみがえるバロックの画家』(TBSテレビ、2015年)



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『オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展』 国立新美術館

2016年07月07日 | 展覧会

【2016年6月27日】

  ルノワールである。東京に出る機会があれば、ルノワール展の美術館に出かけるのは当然である。が、いつもの美術展のようなドキドキするような期待感はあまりない。ルノワールが好きとか嫌いとかの問題ではない。モネやゴッホでも似たような気分だったことを思い出す。
 優れた画家はいつでも圧倒的に私の想世界を凌駕する。その想像できない圧倒され方を期待してワクワクした気分で美術展に出かけるのだ。しかし、圧倒されることは間違いなくても、その圧倒され方に慣れることもあるのではないか。
 私はけっしてたくさんの画家の絵を見てきたわけではないが、私の西洋画に接する機会のことを考えれば、相対的には印象派の画家がと多かったはずだ。中でもモネやルノワールの絵がとても多い。美術展もまた印象派としてはモネやルノワールを中心に構成されることが多い。ルノワールもモネも見るたびにすごいなとは思うのだが、そのすごさに慣れてもしまうのである。
 ゴッホや日本でブームになったフェルメールでも同じような気分になることがある。不思議なことだが、そんなに多くの作品を見たわけでもないミレーでも同じ気分を味わったことがある。おそらく、日本の社会での西洋画の取り上げ方がそのまま私の気分の中に反映されているのかもしれない。取り上げられる回数の多い画家ほどその絵を「見慣れた気分」になるのだろう。東北の小さな農村で生まれ育った身にとって、西洋絵画には本や雑誌、新聞を通じてのみ接していたのだからなおさらである。


【左】《ウィリアム・シスレー》1864年、油彩/カンヴァス、81.5×65.5cm、オルセー美術館 (図録 [1]、p. 47)。
【中】《クロード・モネ》1876年、油彩/カンヴァス、84×60.5cm、オルセー美術館 (p. 53)。
【右】《自画像》1879年、油彩/カンヴァス、18.8×14.2cm、オルセー美術館 (p. 204)。

 ピエール・オーギュスト・ルノワール、画家自身が「私は人物画家だ」とモネ宛の手紙に書き記した(図録、p. 44)というほどだが、私自身のルノワールの印象をあえて名付けるとすれば「女性像の画家」とでもするのがいいと思えるほどである。
 当然ながら多くの婦人像作品が展示されていたが、ここではあえて男性の肖像画、それも三人の偉大な印象派の画家の肖像を並べてみた。シスレーとモネとルノワール自身である。自画像が本当に小さな作品だったのが残念だが、シスレーの風景画 [2] も大好きな私としては、この三画家の肖像を並べて見ると際立ってくる自己満足が嬉しいのである。


【上】《イギリス種の梨の木》1873年頃、油彩/カンヴァス、66.5×81.5cm、オルセー美術館 (p. 73)。
【下】 カミーユ・コロー《ニンフたちのダンス》1860年頃、油彩/カンヴァス、48.1×77.2cm、オルセー美術館 (p. 53)。

 「人物画家」のルノワールだが風景画も多い。2年ほど前に『モネ、風景をみる眼』と題した美術展が国立西洋美術館で開催されて、ルノワールの風景画とモネの風景画を比べてみたことがある [3]。
 ルノワールの人物画における厚みのある存在感が風景画でも顕われているようだ。葉の茂った樹木の膨張するような厚み、存在感が独特だ。逆に言えば、シスレーやコローの風景画のような空気の清浄感、透明感はそれほど感じられず、風景の奥行という点では一歩譲る。モネの風景画は、ルノワールとコローやシスレーとの中間に位置しているように思う。


【左】 《田舎のダンス》1883年、油彩/カンヴァス、180.3×90cm、オルセー美術館 (p. 120)。
【右】 《都会のダンス》1883年、油彩/カンヴァス、179.7×90cm、オルセー美術館 (p. 121)。


【左】ジェームズ・ティソ《夜会あるいは舞踏会》1878年、油彩/カンヴァス、91×51cm、オルセー美術館 (p. 115)。
【右】ベルト・モリゾ《舞踏会の装いをした若い女性》1879年、油彩/カンヴァス、71.5×54cm、オルセー美術館 (p. 121)。

 大作の《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の展示の前は人だかりで、近くで見るのはなかなか難しいことだった。ルノワールらしい「華やかさ」にあふれた作品だが、《田舎のダンス》と《都会のダンス》はその細部の拡大図のようにも見える。
 ルノワールの風景画は、シスレーやコロー、ピサロさらにはモネ(晩年は除く)と比べてもリアリズムからずっと離れている。《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》も印象派の典型のように人物群が描かれているが、上の二つの作品はあたかもその人物群の細部を描いたかのようにリアリティが高い。それは、同時代画家の作品としてベルト・モリゾの《舞踏会の装いをした若い女性》と比べればより明確だ。
 しかし、リアリズムという点ではジェームズ・ティソの《夜会あるいは舞踏会》の方がはるかに高い。この作品を見た瞬間、ラファエル前派の絵と思ったほどだ。ジェームズ・ティソという画家は初見だが、ロンドンに移り住んで成功した画家だという。ラファエル前派が活躍したイギリスと相性が良かっただろうというのは、この作品を見れば納得できる。


【上】《後ろ姿の横たわる裸婦あるいは浴後の休息》1815-1917年、
油彩/カンヴァス、40.5×50.3cm、オルセー美術館 (p. 193)。

【中】アンリ・マティス《布をかけて横たわる裸婦》1923-1924年、
油彩/カンヴァス、38×61cm、オルセー美術館 (p. 195)。

【下】《浴女(左向きに座り腕を拭く裸婦)》1900-1902年頃、ペンと黒インク、黒色鉛筆、
サンギーヌの跡/ヴェラム紙、31.5×25cm、オルセー美術館 (p. 129)。

 ルノワールの婦人像、裸婦像を眺めながら会場を進んでいると、妙にエッジのたった、シャープな印象の裸婦像が目についた。《布をかけて横たわる裸婦》である。ルノワールのはずがないと思いながら近づいてアンリ・マティスという画家名を見つけて納得した。
 あらためてルノワールとマティスの裸婦像を並べて眺めるというのはとても興味深い。ルノワールは女性の肉体の美しさそのものを主題にしているが、マティスには裸婦像に仮託した異なった主題があるようだ。ルノワールと比べれば、もうすこし抽象的な「美」そのものへ主題を偏らせているのではないかと思うのである。
 たくさんの婦人像、裸婦像の展示作品の中で、私の一番のお気に入りになったのは《浴女(左向きに座り腕を拭く裸婦)》という小品だった。これは最近になってわかったことだが、どうも私は素描のような作品が好きなのである。画家にとっては本格的な作品のために描く素描の目的は明確に違いないが、素描に描かれなかった部分をその作品の「余剰」として受け取ることができる。そして、その余剰がどんなものかは私だけの想世界の中にある。描かれない余剰が私の自由な感受を許してくれるのである。その余剰がどんなものかを具体的に想像するわけではないが、素描から始まる情感の広がり、その豊かさが味わえるような気がするのである。 
 しかし、そういう感受のためには《浴女(左向きに座り腕を拭く裸婦)》のような見事な素描力が必要なのは言うまでもないことだ。

[1] 『オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展』図録(以下、『図録』)(日本経済新聞社、2016年)。
[2] 『アルフレッド・シスレー展――印象派、空と水辺の風景画家』(練馬区立美術館、2015年)
[3] 『モネ、風景をみる眼 ―19世紀フランス風景画の革新』(TBSテレビ、2013年)



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『カラヴァッジョ展』 国立西洋美術館

2016年04月13日 | 展覧会

【2016年3月19日】

 まだ職業人であったころ、仕事で立ち寄る街では時間を作って美術館に行くというのが習いのようになっていた。そのほかに行くべき場所を思いつかなったという事情もあったのだが、そのようにして一度に大勢の画家の絵を見る機会があっても、記憶に残っている画家や絵というのは多くない。そんな中で、あちらで一点、こちらで二点というふうに見ていたカラヴァッジョの名前とその絵は、記憶に残っている数少ない例である。
 強い印象の画家ということもあって、書店や図書館でもカラヴァッジョについての本が目について、何冊か読む機会があった。美術展で絵を見る機会の前に、ささやかながら知識が先行する珍しい例になっている。現物を見る前に、かなり好悪の感情が生まれてしまっているのはあまりいいことではないのだが。
 3月1日から『カラヴァッジョ展』が始まると知ったのはずいぶん前だったが、何とか3月中に東京での仕事の機会に恵まれたので、そのついでという気楽な形で国立西洋美術館に出かけることができた。仙台から上野は新幹線ではあっという間だが、心理的にはけっこう遠いのである。たまに出る東京は、少しの仕事と美術館、それに首相官邸前での原発再稼働抗議行動などとけっこう忙しく時間を過ごすのである。


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《トカゲに噛まれる少年》1596-97年頃、
油彩/カンヴァス、65.8×52.3cm、フィレンツェ、ロベルト・ロンギ美術史財団 
(図録 [1]、p. 75)。


【左】ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《果物籠を持つ少年》1593-94年頃、油彩/カンヴァス、
70×67cm、ローマ、ボルゲーゼ美術館 (図録、p. 95)。

【右】ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《バッカス》1597-98年頃、油彩/カンヴァス、
95×85cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館 (図録、p. 99)。

 1571年に生まれ、1610年に38歳で死んだカラヴァッジョの画業の初期をどのあたりと見積もればいいのか難しいが、私の中では上に掲げた《トカゲに噛まれる少年》、《果物籠を持つ少年》、《バッカス》の三作品や、今回の展示から漏れていた《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(ボルゲーゼ美術館蔵)、《リュート弾き》(エルミタージュ美術館蔵)など、ヘテロともホモともいわく言い難い中性的な少年像を描いた一連の作品群をカラヴァッジョの初期のものだと受け止めていた(図録解説にもそう記されていることを確認したが)。
 正直に言えば、カラヴァッジョ絵画の中でこのような少年像をどう眺めていいのか、私には戸惑いがあった。たしかに同性愛的な趣もあるのだが、ホモかヘテロかということよりも、モデルである少年に向けた他者愛なのか、それともモデルに仮託した自己愛なのかということで悩むのである。少年愛と自己愛とが混然と表現されているという解もありそうだが、それではこれらの作品から受ける私の印象(感情)を納得させることが難しい。
 《トカゲに噛まれる少年》は、トカゲに噛まれた瞬間の驚愕を切り取って見せた作品と評されているが、一方、少年の姿態は鏡に映した自身の姿をモデルとしたとも言われている。だからこそ、トカゲに噛まれて驚いた瞬間にもかかわらず少年は噛まれた指や噛んでいるトカゲを見ることなく画家(観者)の方を見ているのである。人間の行動としては不自然ではあるが、いわば、少年の驚愕の表情を見るトカゲの目と、少年とトカゲを同時に見ている第三者(画家または観者)の目をシンクロさせた表現であると考えることもできる。
 「イタリア美術史上のもっとも優れた静物画」 [2] と評される《果物籠》(アンブロジアーナ絵画館蔵)が唯一現存するカラヴァッジョの静物画であるが、《果物籠を持つ少年》の果物籠や《バッカス》の前に置かれた果物籠にその驚くべき描写力を見ることができる。その徹底したリアリズムは、《トカゲに噛まれる少年》の水の入ったカラフェに映る室内の描写にもみられる。


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《ナルキッソス》1599年頃、油彩/カンヴァス、
113.3×94cm、ローマ、バルベリーニ宮国立古典美術館 (図録、p. 79)。

 異性愛か同性愛か、自己愛か他者愛か(私には)判然としない作品とほぼ同時期に《ナルキッソス》が描かれていて、いくぶん不思議な気分に陥ってしまう。《ナルキッソス》こそ自己愛を前面に押し出して描かれるだろうと思ったのだったが、ここには上述の《バッカス》などの作品が喚起する性的な要素はほとんど見られない。
 《ナルキッソス》がもっぱら訴えるのは、絵画の構図がもたらす新鮮な驚きのようなものである。水面をのぞき込むナルキッソスの体と両手が描く半円と水面に映るくらい半円とがなす鏡面対象の構図がきわめて大胆な描写となっている。
 強いて言えば、自分自身の肉体と水面に映った影とが融合して完全円に向けて一体となってしまうこと、実体と影という不即不離の存在のありようを越えて一体化する姿に徹底した(完全な)自己愛を込めて描いたということかもしれない。


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《エマオの晩餐》1606年、油彩/カンヴァス、
141×175cm、ミラノ、ブレラ絵画館 (図録、p. 141)。

 カラヴァッジョは20世紀初頭にロベルト・ロンギによって「再発見」されたという。ロンギは、カラヴァッジョ絵画を「ルミニスム」、「地上のリアリズム」、「完璧なリアリティにおける視覚の具現化」としてとらえ、〈「フォトグラム」の創始者〉と名付けた [3]。ロンギの評はカラヴァッジョの画業全体に及ぶとはいえ、私にはとくに宗教画にその特質が顕われているように思える。
 反宗教改革運動によって強力なエネルギーを与えられたバロキスムの画家たちはじつに多くの宗教画を描いた。神の偶像化を否定するプロテスタントに対して、説諭のために聖書をことごとく絵画化させようとすることは、いわば聖性の俗化そのものに違いないが、バロックの画家たちはいかに聖性を描くかに苦心したはずだ。
 しかし、そうした画家たちの中で、カラヴァッジョの宗教画は極めて特異な位置を占めているように思える。「地上のリアリズム」、「完璧なリアリティにおける視覚の具現化」であることは、安易な聖性化を許さないということをも意味しているだろう。私は、カラヴァッジョの宗教画を「聖性なき聖性」として受け止めている。
 カラヴァッジョの宗教画に描かれる人々は、市井の人々が普通に身に付けている世俗の醜悪さそのものをも併せ持つリアルな実在性を付与されている。当たり前のことだが、信仰篤き人々がすべて美しい容貌を持つわけではないのだ。
 ロンギのカラヴァッジョ絵画評をもっとも典型的に顕わしている代表的な絵は《聖マタイの召命》(ローマ、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂蔵)だと思う。それを知った頃にはローマに行く機会がなくなってしまったので、いまだにその実物を見る機会がないのだが、図版によっても《聖マタイの召命》が「ルミニスム」、「地上のリアリズム」を表現し、「完璧なリアリティにおける視覚の具現化」に成功していて、「フォトグラム」の絵画そのものであることを理解することができる。
 《聖マタイの召命》ほど「ルミニスム」性は顕著ではないが、《エマオの晩餐》におけるカラヴァッジョ特有のリアリズムは《聖マタイの召命》に匹敵する。場面は、食事をしている人物がこの直後に消えてしまい、二人の弟子はそのときになって初めてその人が復活後のキリストであったことを知るというルカ書による。半ば幻視のシーンのリアリズムである。
 幻視のシーンといえば、これも今回の展示に含まれていない《ロレートの聖母》(ローマ、サンタゴスティーノ聖堂蔵)とグエルチーノの《ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナルディーノと聖フランチェスコ》の比較は面白い。彫刻像であるロレートの聖母を礼拝する二人がグエルチーノでは聖者であり、カラヴァッジョでは貧しい身なりの巡礼の男女である。聖母もまた、グエルチーノでは天幕の下の立像の姿のままの母子像であるのに対し、カラヴァッジョではどこかの戸口に顕われたかのような聖母子というリアリティがある。


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《エッケ・ホモ》1605年頃、油彩/カンヴァス、
128×103cm、ジェノヴァ、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮 (図録、p. 229)。

 「地上のリアリズム」、「完璧なリアリティにおける視覚の具現化」とロベルト・ロンギによって評され、私は「聖性なき聖性」として受け止めたカラヴァッジョのいくつかの作品の中にある共通する特徴が存在する。
 俗っぽさも醜さもリアルに描かれるカラヴァッジョの人物たちの中で、キリストだけは温和で美しい顔立ちで描かれているのだ。キリストだけを切り取ってしまえば「聖性なき聖性」と言えないのである。
 《エッケ・ホモ》は、荊冠で傷つけられ、鞭打たれたキリストを指してローマ総督ピラトが「この人を見よ」と言う場面である。この絵と並べられて展示されているチゴリの《エッケ・ホモ》には鞭打たれ傷ついたキリストの裸身が描かれているが、カラヴァッジョのキリストには鞭打たれた跡は描かれていない。キリストには「地上のリアリズム」、「完璧なリアリティにおける視覚の具現化」としての肉体の傷が描かれていない。不思議に思ってもいいのかもしれないが、しかし、なぜかすんなりと納得してしまう自分がいることのほうが不思議である。


【左】ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《煙草を吸う男》1646年、油彩/カンヴァス、70.8×61.5cm、
東京富士美術館 (図録、p. 161)。
【右】グエルチーノ(本名 ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ)《ゴリアテの首を持つダヴィデ》
1650年頃、油彩/カンヴァス、120.5×102cm、東京、国立西洋美術館 (図録、p. 179)。

 今回の展示には、カラヴァッジョ作品を核に多くのカラヴァジェスキの作品が含まれている。多くのカラヴァジェスキの作品の中からラ・トゥールの《煙草を吸う男》とグエルチーノの《ゴリアテの首を持つダヴィデ》を挙げておく。
 「ルミニスム」の画家、光と影の画家としてカラヴァッジョに対抗しうる一人がジョルジュ・ド・ラ・トゥールであろう。ラ・トゥールの代表的な作品としては《大工の聖ヨセフ》が挙げられるが、それは一本の蝋燭だけを光源として描かれた絵である。《煙草を吸う男》も同じ意匠の作品で、煙草の火だけを光源としている。遠目からみてラ・トゥールに違いないと確信できるきわめて特徴的な作品である。


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《David with the Head of Goriath》1606年頃、
油彩/カンヴァス、90.5×116cm、ウィーン美術史美術館 [4]。

 これも今回の展示から漏れているが、カラヴァッジョには《ゴリアテの首を持つダヴィデ》と題する作品があって、私が以前に実物を見ることができた数少ないカラヴァッジョ作品の一つである。それとの対比でグエルチーノの《ゴリアテの首を持つダヴィデ》を興味深く眺めたのである。《ロレートの聖母》でもグエルチーノを引き合いに出したが、それは私がカラヴァッジョとグイド・レーニとグエルチーノをバロックを代表する三人と考えているということもあるが、実際の作品を『グエルチーノ展』でまとめて見ることができたというだけで、ほかに比較しうる画家をよく知らないということにもよる。
 カラヴァッジョの《ゴリアテの首を持つダヴィデ》には次のような評がある。

一六〇九-一〇年頃制作の《ダヴイデとゴリアテの首》は、宗教画に自画像を忍び込ませることに長けたカラヴァッジョのなかでも際立った一枚である。巨人ゴリアテの首をもつダヴィデが若き日のカラヴァッジョの肖像であれば、力無くどこかを見ているゴリアテの首は制作当時のカラヴァッジョの肖像である。自分で自分の首を搔き斬る斬首は、パスティーシュによる実験の末、作中人物は分裂しなければならないとのテーゼにまで至ったパゾリーニを彷佛させる。 [5] 

 殺す人間も殺される人間も自分であること、凄惨な神話に仮託する自己像という点において強烈な印象を残す作品である。そしてそこには、殺される自分の悲惨も殺した自分の勝利感も描かれていない。
 グエルチーノのダヴィデは胸に手を当て、天を仰いで、勝利を神に感謝している(あるいは報告している)姿で描かれ、ゴリアテはすでに死者の顔である。グエルチーノの表現は、神話を再現するという点において至極まともであって、じつのところ、印象が強烈であっても、カラヴァッジョが《David with the Head of Goriath》という主題の裏に隠したものは私にはまったく見えないのである。
 グエルチーノにはダヴィデに天の神に連なる聖性を込めようとする意図が見えるが、カラヴァッジョのダヴィデには「地上のリアリズム」だけがあって、作品は「リアリズムの神」に連なっていく「聖性なき聖性」を顕わしている、と私は受け取っておくのである。

 

[1] 『カラヴァッジョ展』図録(以下、『図録』)(国立西洋美術館、NHK、NHKプロモーション、読売新聞社、2016年)。
[2] 宮下規久朗『もっと知りたい カラヴァッジョ 生涯と作品』(東京美術、2009年)p. 16。
[3] 岡田温司「カラヴァッジョ復活」、岡田温司編『カラヴァッジョ鑑』(人文書院、2001年)p. 12、p. 27。
[4] 『THE KUNSTHISTORISCHES MUSEUM IN VIENNA』(BONECHI VERLAG STYRIA, 1996)p. 66。 
[5] 石田美紀、土肥秀行「交差するふたつの眼差し」、岡田温司編『カラヴァッジョ鑑』(人文書院、2001年)p. 337。



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