野田英夫もジョージ・グロスと並んで松本竣介のモンタージュ手法を用いた時期の絵に影響を与えたと言われている画家である。グロスと同様に「野田英夫」も私にとっては初見の名であった。グロスの時もそうだったが、宮城県や仙台市の図書館にはその画集はなく、ネット上の「日本の古本屋」で図録を見つけた。
図録は、多毛津忠蔵の絵が半分を占めるが、ここでは当面の関心、松本竣介との関連という意味で「野田英夫」だけ取り上げ、多毛津忠蔵の絵には触れない。
野田英夫の画家としての生涯については、窪島誠一郎が1冊の本にしている [1] 。少し長くなるが、窪島の記述をいくつか紹介して、野田英夫の画業の要約としよう。〔 〕内は、私の注釈である。
……〔1908年(明治41年)〕アメリカに出生し中等教育までを祖国日本でうけた「帰米二世」の英夫には、アメリカの「属地主義」に対し「属人主義」をとる日本国籍法によって日本国籍をあたえられることになり、いわば「二重国籍的」な境涯をも余儀なくされたといえるのである。それはひとつ、国籍だけの問題ではなく、英夫が画家として立つための精神的な立脚点、つまりは自我のありようにも大きな意味をもつことがらであつたといえるだろう。 [2]
ゲオルゲ•グロッス〔ジョージ・グロス〕との出会いも大きな事件にかぞえられる。グロッスは、一八九三(明治二十六)年ドイツに生まれた卓抜なカリカチュア画家で、二十世紀初頭の社会的動乱や革命をきびしい画家の眼でみつめ、強烈な反戦、平和運動をモチィフにした作品を発表していた。……〔グロッスはアート・スチューデンツ・〕リーグの夏期学校を手伝うためにウッドストックをおとずれ、生徒として通ってきていた英夫と出会うことになるのだが、英夫がこのグロッスの画法や思想、また画家として社会とかかわりあう姿勢のありかたにつよい共感をおぼえたのはむろんであったろう。グロッスとの出会いは(リベラや国吉との出会いもそうであつたが)、後年英夫が自らの画作を通して社会主義思想や改革の運動に身を投じてゆく一つの精神的な下地となったともいえる。 [3]
……英夫の、都会の深部にうごめく貧しい労働者たちへのふかい同情と理解は、やがて「アメリカン・シーン派」あるいは「ソシアル・シーン派」といわれる在米画家の一人として、一九三四(昭和九)年の「都会」(第二回新制作派協会展出品)、そして翌一九三五年に発表された代表作「帰路」(第二十二回二科展出品)、一九三七(昭和十二)年の「都会の冬」(第二回新制作派協会展出品)などの成果となって結実してゆくのである。 [4]
英夫の「ストリート・シーン」(「アメリカン・シーン」)には、いつもどこかに神秘的な明るさをひめ、それでいてどこか寂しげな静けさをたたえた海の水平線が登場する。それはときとして、街の舗道のむこうにのぞく青い空や、麦畑や、パースぺクティヴな地平線としてもえがかれ(「帰路」や「都会の冬」がその例だろう)、何か英夫の心にさしこむ一条の光のような役割をはたしているのである。それは英夫自身にさしこむ光であると同時に、英夫が生きたその時代のアメリカぜんたいがうしなってはならない改革の夢というものを象徴していたのではなかろうか。 [5]
小熊秀雄は、アトリエ村にあった「セルパン」や「コティ」という茶房にも出入りしていて、そこで松本竣介、古沢岩美、靉光、田中佐一郎といった画家たちとも交流をもっていた。「コティ」ではときどき自分のデッサンの展覧会や、詩の朗読会などもやった。とくにその頃太平洋近代洋画研究所を結成し、NOVA展や北斗展といった小グループ展でも積極的に活動していた岩手県盛岡そだちの松本竣介(戦後まもなく三十六歳で病没した)は、自らも油彩画「建物」を出品していた第二十二回の二科展で英夫の「帰路」や「夢」をみてつよい衝擊をうけていた。これまでのヨーロッパ帰りの画家の仕事にはない、何か心の底からわきでてくるような英夫の作品の瑞々しい生命感と、そこに用いられている「アメリカン・シーン」という新しいモンタージュの画法に松本はひかれたのだった。松本は一度小熊に「ぜひ野田さんに会わせてほしい」とたのんだことがあつたが、英夫はめったに「コティ」に顔を出すことはなかったので、二人が直接出会う機会は生まれなかつたという。 [6]
野田英夫は、1939年(昭和14年)東京で30才5ヶ月の生涯を終える。彼もまた、松本竣介と同様、夭折の画家であった。
松本竣介のモンタージュ手法を用いた都市を題材にした一連の絵は、1937年あたりから1940年くらいまでの期間に描かれている。その松本が、野田英夫の絵に惹かれたのは、窪島が書いているように1935年の二科展に出品された《帰路》と《夢》の2点による。残念ながら《夢》は図録に収められていないが、《帰路》は次の絵である。
野田英夫《帰路》1935年、油彩、カンバス、97.0×146.0cm、東京国立近代美術館 [7]
この絵を見ると、直感的にはグロスよりはるかに松本竣介に近い。うまく言葉で表現するのは難しいが、モンタージュの各パーツ(画題)そのもの、その色彩ばかりでなく、構成全体にある種の共通の感性のようなものを感じる。パーツ間の境界はあるのだが、滑らかにごく自然に連続していて空間の閾の感じがしない。不透明ではあるが、パーツの重なりもある。
竣介との近さは、次の絵《追憶》にも見られる。たとえば、右上の二人の線描の人物は背景と別空間に存在するわけではないが、手法的には竣介となんら変わらない。たぶん、野田英夫は「時空の重畳」を手法として意識していないと思われるが、左下の人物や鉢植えの植物も含めて線描部分は竣介ときわめて近いものを感じる。
野田英夫《追憶》1935年、油彩、カンバス、38.1×45.7cm、横浜美術館 [8]
手法的には、松本竣介とジョージ・グロスとの中間的な位置に野田英夫はいるが、主題としてはずっとグロスに近い。グロスの激しく厳しい社会風刺の画業に接し、またみずからはアメリカ共産党員でもあった野田英夫は、みずからの絵に物語性を強く付与するのである。
代表作の《ムーヴィングマン》は物語性の典型である。ふたたび窪島の解説である。
「ムーヴィング・マン」には、もっとやるせない英夫の苦衷があらわされている。描きかけの肖像画、石膏像、蓄音機、椅子、枯れた花、木炭紙の束、無数の四角い箱、円筒形の箱……そんな家財道具の一切を背負い、片手には何か掃除器のパイプみたいなものまでさげた画家は、いったいどこへゆこうとしているのか。画家のまわりには、いちめん深い水色と褐色の色彩がぬりこまれ、そのなかにアメリカの古典建築を思わせるような白い建物と、窓から顔をのぞかせている少女、遠いブリッジ、頰づえをついて考えこんでいる裸身の男の塑像がえがきこまれている。そして、静まりかえった街なみと、ボートがうかぶ小さな湖面の一かくがあわい微光のなかにうっすらとうかびあがっているのである。 [10]
図録には習作が掲載されているので、これからでも《ムーヴィング・マン》の物語性は十分に窺うことができる。
野田英夫《ムーヴィングマンの習作》1937年、
グァッシュ、紙、25.5×35.8cm、熊本県立美術館 [9]
しかし、松本竣介の絵の良さは物語性の稀薄さにあると、私は思っている。その意味では、洲之内徹の竣介評 [11] には肯けるものがあることを否定しない。竣介が文章にしたような観念的なことがらを絵画に具象化しようとする一時期の試みを、私もまた、それほど評価できないのである。生真面目な竣介が時代状況に一言ありたいと思ったであろうことは、心情的にはよく理解できる。しかし、それは彼の感性が主導する絵画表現としっくりしなかった(と鑑賞者が受けとるであろう)ことは明らかだ。
そういうことなしに彼の絵は素晴らしいのだ、ということに芸術家本人が自覚的であるということは、私が想像する以上に難しいことかも知れないのだが。優れた絵画には優れた思想が必要だという論理的必然はどこにもないのである、と私は考えている。
[1] 窪島誠一郎『漂泊――日系画家野田英夫の生涯』(新潮社、1990年)。
[2] 同上、p. 40。
[3] 同上、p. 92。
[4] 同上、p. 106。
[5] 同上、p. 110。
[6] 同上、p. 192。
[7] 『壁画帰郷記念展 野田英夫そして多毛津忠蔵』(熊本県立美術館、平成4年)p. 30。
[8] 同上、p. 28。
[9] 同上、p. 38。
[10] 窪島誠一郎『漂泊――日系画家野田英夫の生涯』(新潮社、1990年)p. 122。
[11] 洲之内徹『帰りたい風景――気まぐれ美術館』(新潮社、昭和55年) pp. 139-140。