森達也
『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい
――正義という共同幻想がもたらす本当の危機』
(ダイヤモンド社、2013年)
ほんの少し視点を変えるだけで、たぶんこの世界は相当に違って見えるはずだ。それほどに世界は多重で多面で多層的だ。 (p. 11)
とても刺激的な書名だが、著者の主題はおそらく「正義という共同幻想がもたらす本当の危機」というサブタイトルに集約されている。このテーマは、著者自身が常に問題意識として抱え、追求しつづけてきたものだ。
まとまった著作として、私が初めて読んだ森達也の本は、オウム真理教事件の裁判をめぐって書かれた『A3』 [1] である。「麻原法廷の顛末」を記したものだが、それを通じてオウム真理教事件がもたらした「私たちの側」の社会的実相をくっきりと描き出している。オウムを悪と認定することの裏返しとして、大衆やマスコミが「我々は正義の側にある」という協同的な幻想に落ち込んでしまった。そうした事態がもたらしたものは、社会の歪み、オウム事件でいえば司法の歪みであり、自治体や教育機関で公然となされた人権侵害の問題であった。
『A3』において著者が主張していたことは、オウム事件・裁判を通じて私が抱いていた社会の動きへの異和感を掬い取ってくれるものであった。例えば、次のような記述である。
三女が入学を拒絶されたのは和光大だけではない。同年には文教大学が、さらにこの前年には武蔵野大学が、入学を一方的に取り消している。
出自によって入学を取り消す。これは明確な差別だ。しかしあらゆる差別問題に取り組むはずの解放同盟を含め、ほとんどの人権団体はこの事態に抗議しない。異を唱えない。声をあげない。反応しない。まるですっぽりとエア・ポケットに入っているかのように、明らかな異例が明らかな常態になっている。
オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。
要するに問題はここだけにあるわけじゃない。そこにもあるし、あそこにもある。そこら中にある。 (p. 146)
当時、大学に勤めていた私は、大学が風評や情緒に流されない「理と知の場所」というイメージから遠ざかりつつあることをそれなりに実感していたとはいえ、明白な人権蹂躙に加担するまで頽落化しているとまでは思っていなかった。そしてまた、それは人権問題という視点を欠落させたまま報道され、社会もまたそのまま受容しているように見えた。
あるいはまた、犯罪者の家族に対する世間の目が厳しいことはよくあることだが、行政が犯罪者の家族の住民票受理を拒否するということは想定できないことだった。いわば一族郎党をすべて罰するという封建時代の処分に等しい行政の判断に驚くしかなかった。
「私たちは正義の側だ」という思い込みが、いかに自らの行動に無自覚になるか、恐ろしいばかりである。社会の歪み、暴走に対してジャーナリズムは本来的には「対自的」に矜恃を持って批評しうると信じたいのだが、実際には、マスコミ・ジャーナリズムはそうした事態にほとんど無反応であった。そのようなジャーナリズムに対する批判もまた『A3』の主要な主題であった。つまり、『A3』には、私たちの社会の種々の位相に顕在している問題がほとんど含まれていたと考えることが出来る。
『A3』に続いて、森達也の本としては『世界が完全に思考停止する前に』 [2]、『極私的メディア論』 [3]、『誰が誰に何を言ってるの?』 [4] などを読んだが、これらは雑誌などに掲載した時事批評、社会批評を集めたものだが、全体を貫く主題は『A3』から(それ以前からだと思うが、私が読んだ限りでは)一貫している。
だから、本書を読んでいると、ときどき、これは以前に読んだような既視感(既読感)に襲われることがある。粗っぽく分ければそれには三通りあって、一つは明らかに同じ話題の場合であり、あるいは社会自体が同じ事象を繰り返している場合であり、そしてもう一つは異なった事象にもかかわらず同じ「社会的感情」を持った人びとがそれをになっている場合である。
本書は、次のような章が立てられている。
第1章 「殺された被害者の人権はどうなる」このフレ—ズには決定的な錯誤がある
第2章 善意は否定しない、でも何かがおかしい
第3章 「奪われた想像力」がこの世界を変える
第4章 厳罰化では解決できないこの国を覆う「敵なき不安」
第5章 そして共同体は暴走する
エピローグ 九条の国、誇り高き痩せ我慢
犯罪被害者の人権、被害者家族(遺族)の人権、加害者の人権、加害者家族の人権、みな等しく人権である。その人権を前提にして加害者は裁かれる。これが近代刑法の根本的な考えであり、また保証しているはずのものだ。ごく単純なことなのだが、現実はそうなってはいない。
あるシンポジウムで、加害者、被告の人権に話題が及ぶと、次のようなことになる。
そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。
でもこの二つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと同義ではない。 (p. 24)
たとえば、こんなことがある(あった)。ある殺人事件で被告の無罪判決が出る。すると、マスコミが突き出すマイクの前で、被害者遺族は「納得できない。死刑にしてほしい。裁判官は私たち遺族の苦しみ、悲しみが分かっていない」と悲痛な面持ちで語る。このとき、私(たち)は遺族に同情するだろう。しかし、私は、同情はしても同意しない。被告が無罪(無実である蓋然性が極めて高い)であっても、極刑を求めるというのは、いわば己の悲しみを慰撫するために他者の命、生け贄が必要だという主張に等しい。そして、マスコミも上の引用の男性も、それがあたかも被害者(遺族)の人権であるかのように語る。
こうした感情的な法精神の無視は、「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」という愚劣な主張につながっていく。
ならば「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と断言する人たちに、僕はこの質問をしてみたい。
もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか。
死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艷福家や社交家の命より軽く吸われてよいということになる。 (p. 30)
被害者家族・遺族の人権を重んじるというのは、すべての人の人権を重んじるという意味で、とても大切だ。だが、それ以上に、特化された人権というものはないのだ。
領土問題でも、著者の発言は過激だと受け取られるだろう。領土を巡る殺戮の歴史を鳥瞰しながら、次のように主張する。
もう一度書く。領土とは利権だ。ならば交渉はできる。何かに置き換えることも可能なはずだ。ところが多くの人はこの問題になると硬直する。代替案を発想できなくなる。交渉を受け付けなくなる。ナショナリズムに容易くリンクする。互いに正当性を主張する。そもそもは歴史をいつから区切るかで変わってしまう程度の正当性だ。でも互いに前提となる。その意味では正義に似ている。しかも主語が複数となったときに述語は暴走する。威勢がよくなる。
こうして人は大地に縛りつけられながら、世界で最も悲しい声をあげることになる。
無用な諍いや争いを回避するためならば、少しばかり領土や領海が小さくなってもかまわない。弱腰と呼びたいのなら呼ぶがよい。でもこれだけは絶対に譲らない。私たちは自国と他国の人たちの命を何よりも大事にする。
もしもそんな判断をこの国が示せるならば、僕はそのとき本気で、この国に生まれたことを「誇り」に思う。 (p. 41-2)
著者が主張するこうした方策以外に残された選択肢は戦争しかない。もちろん、国際司法裁判所へ付託するという手段もある。だが、悲しむべきことに、たいてい軍事力に勝る国がこれを拒否する。悲惨な戦争の歴史から人間は学ぶことができるが、国家というパスを通すと、結局は、「領土問題については、まるで遺伝子レベルで刷り込まれているかのように」戦争で片をつけようとする。
憲法第9条を持つ日本こそが、著者が主張するような行動を取りうる最も近い位置にいる。世界で「誇り」ある国家になり得る確然とした法的根拠を持っているのは日本だけなのだ。
このような著者の主張がどのような反応を引き起こすかは、語るまでもないだろう。「非国民で売国奴の僕はこの国でますます居場所を失うだろう」というタイトルで一節を書いているほどだ。とくにネットを通じての悪口雑言の類は、いまや珍しくもない現象になっている。
その多くは、想田和弘がその著書 [5] の中で指摘しているように、「彼らは、「他人を罵る」という極めて個人的な作業にも、自ら言葉を紡ぐことなく」誰かの口移しの言葉を多用するのである。しかもず、思考の努力を要しない単なる悪口雑言に過ぎないので、あっという間に増殖する。
ネトウヨと呼ばれる人々の口汚い罵りは匿名で為されるが、口汚さは同じでも「思想や信条は欠片もない」 (p. 57) 在特会(「在日特権を許さない市民の会」の略称)のヘイトスピーチデモは、白昼に行なわれるのだ。
著者は、こうした人種差別への批判の最後に、マルティン・ニーメラーの詩を紹介する。ニーメラーの言葉は、ジグムント・バウマンの著書でも何度か紹介されていて、そこから私も数度引用している。とても深く示唆的な文なので、あえて森達也訳を引用しておく。
ナチス時代のドイツでルター派の牧師だったマルティン・ニーメラーは、ヒトラー登場時にはほとんどのドイツ国民と同様に、ナチスを強く支持していた。しかしナチスによる迫害が教会に及ぶに至り、これに強く抗議して最終的にはザクセンハウゼンのホロコースト強制収容所に送られている。
そのニーメラーが戦後に書いた詩を最後に引用する。読むたびにいろいろ思う。いろいろ考える。僕が書けることはここまで。あとはあなたが考えてほしい。
最初に彼らが共産主義者を弾圧したとき、私は抗議の声をあげなかった。
なぜなら私は、共産主義者ではなかったから。
次に彼らによって社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、
私は抗議の声をあげなかつた、
なぜなら私は、社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したときも、
私は抗議の声をあげなかつた、
なぜなら私は労働組合員ではなかつたから。
やがて彼らが、ユダヤ人たちをどこかへ連れて行ったとき、
やはり私は抗議の声をあげなかった、
なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして、彼らが私の目の前に来たとき、
私のために抗議の声をあげる者は、誰一人として残っていなかった。
(意訳 森達也) (p. 60-1)
日本ではオウム・サリン事件、アメリカでは〈9・11〉連続テロ事件、それから世界は急激に「安全」という妄想へのめり込んでゆく。世界は危険だと煽られた人びとは自主規制として、権力の周囲の人びとは過剰な忖度として、厳罰化、異物の排除へと雪崩れていった。
どちらが卵か鶏か判然としないまま、政治権力による厳罰化、マイノリティ(アンダークラス)排除のシステムができあがる。著者は、様々な事例から警告を発し、批判を重ねる。そして、そのとき著者の眼差しは、そうした情況に無自覚に踏み込んでいく人びとに向けられている。
無自覚な自主規制。このレトリックがすでに捩れている。本来なら自律的で主体的であることを意味する自主規制ではなく、他律規制という言葉を使うべきだろう。
自分たちが作り上げた規制を付与(ア•プリオリ)の存在と思い込む。つまりこれもまた(僕の定義においては)共同幻想だ。 (p. 69)
この「共同幻想」がもたらす人びとのありようこそがこの著者の主題であって、オウム事件、〈9・11〉からフクシマ(原発事故)、改憲問題まで取り上げられている。それぞれの事件・事象を取り上げるメディアもまた論究の対象で、「この世界を滅ぼすのは進化し続けたメディアかもしれない」という言葉に著者の思いの重さが見て取れる。
刑事罰の厳罰化については、ノルウェーの例について詳細な記述がなされている。2011年7月22日、ノルウェーの首都オスロで政府庁舎が爆破されて8人が殺され、続いて起きたオスロ近郊のウトヤ島で銃乱射事件では69人が死亡した。両事件は、極右思想を持つ32歳のアンネシュ・ブレイビクで、彼はキリスト教原理主義者だという。このテロ事件を受けて、ノルウェー政府の執った態度は、オウム事件後の日本政府とはまったく反対であった。
著者は、事件後のノルウェーの情況をノルウェー在住の知人のメールを紹介するという方法で伝えている。
ご無沙汰しております。森さんにとつて、今回のテロ事件はとても大きなショックだったのでは、と推察します。もちろんノルウェー人にとっても、自国で起こった事件とはとても思えないという反応がほとんどです。あまりにも大きな事件で、今はノルウェー全体が麻痺しているような状態ですが、暴力・テロ反対の運動は強化されています。オスロで森さんがお会いした(法務省の)パイクのパー卜ナー(ノルウェーでシェア一位のタブロイド紙VGの編集長)も、紙面で暴力反対キャンペーンを展開しています。つまり『テロに対しては暴力では立ち向かわない』という姿勢です。すでにおおぜいの人たちが賛同しつつあります。 (p. 270-1)
オスロは治安が悪いわけでもなく、犯罪が増加していたわけでもありません。今のところ私の周囲では、厳罰化や死刑復活などは、話題にも出ていません。『暴力やテロを絶対に許さない』と同時に、『暴力に対して暴力で立ち向かうべきではない』という世相は、まったく揺らいでいないと感じています。
事件から三日後のVG紙に、娘を失いかけた父親の手紙が掲載されました。その一部を以下に引用します。
『憎しみをばらまき混乱を力で世界に広めようとする人間が、勝利してはならない。亡くなった人々のためにできることは、ノルウェーの民主主義は暴力に決して屈さないことを示すことだ。不安や憎しみ、怒りに盲目になってはならない。それこそが彼らの望むことだからだ』 (p. 271)
彼我の差を嘆いてばかりもいられないが、もう一点、とても象徴的で印象的で(人によっては衝撃的な)なことがある。
同容疑者が犯行直前にインターネット上に掲載した約一五〇〇ページの文書「マニフェスト」の中で、学ぶべき国として日本を挙げていたことが二五日、わかった。同容疑者は、日本は多文化主義を取っておらずイスラム系移民が少ないなどと高く評価。会ってみたい人物の一人として、麻生太郎元首相(七〇)の名前も挙げていた。(サンケイスポーツ 七月二六日) (p. 276)
麻生太郎副総理大臣兼財務大臣は、ドイツのワイマール憲法が改憲されることに言及して、日本も「ナチスの手口に学んだらどうか」と発言した政治家である。2014年6月現在、阿倍信三首相のイニシャティブで、特定秘密保護法(装い新たな治安維持法)が制定され、自民党・公明党の与党間に解釈改憲によって集団的自衛権を閣議決定で認めようという了解が成立していることは、日本では「ナチスの手口に学ん」で憲法の無力化が進められていると言うしかない情況に至っている。
ヒットラー・ナチスからアンネシュ・ブレイビクを介して安陪信三(麻生太郎)・自民党へと黒い鎖がつながっているイメージが頭から去らない。明らかに、日本は困難な時代に足を踏み入れてしまっている。
話題が広汎に及ぶ本書を簡潔にまとめることはとても難しいので、著者が『A3』から一貫して述べている「過ちに至る組織」の組織論とでも言うべき文章を挙げて、まとめとする。
中枢の意志を過剰に忖度する周辺。そして周辺の意志を過剰に忖度する中枢。互いに忖度し合いながら集団は暴走する。一人称の主語を喪うからだ。特にオウムの場合は、教祖がほとんど失明状態でテレビや新聞を見たり読んだりすることができないため、弟子たちのメディア化が促進された。米軍が攻撃してくるとか,自衛隊が集結しているなどと、麻原の危機意識を煽り続けた。そうした情報をマーケット(麻原)が好んだからだ。
連合赤軍やオウムだけではない。ナチスやポルポトや大日本帝国など、すべての組織共同体が引き起こす壮大な失敗の背景には、この相互作用的な忖度が絶対に働いている。 (p. 282)
[1] 森達也『A3』(集英社インターナショナル、2010年)。
[2] 森達也『世界が完全に思考停止する前に』(角川書店、平成16年)。
[3] 森達也『極私的メディア論』(創出版、2010年)。
[4] 森達也『誰が誰に何を言ってるの?』(大和書房、2010年)。
[5] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。