かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』 世田谷美術館

2014年06月29日 | 展覧会

2014年6月29日


 外国人の日本趣味に興味があるかと問われれば、ないと答える。片言の日本語を話す外国人に、国語としての日本語を学ぶ愚は冒さない。それでは、この美術展は回避するか、となると悩みは多い。
 ポスターに大きく載っているモネの《ラ・ジャポネーズ》のような絵ばかりの展示なら、わざわざ仙台から出て行かない。しかし、そんなことはないだろう。《ラ・ジャポネーズ》は、モネにとっても、ボストン美術館にとっても例外中の例外だろう。そう、思いたい。結局は、新幹線に乗ったのである。

 いかにモネといえども、私にとって《ラ・ジャポネーズ》は受け入れがたい。俗っぽいこと、夥しい。たとえ、日本人の婦人が描かれたにしても、この打ち掛けの品のなさはきつい。「粋な」心意気も「侘び」も「寂び」もまったく理解できない日本人は確かにいて、そんな人間がこんなものを着る。千利休を殺す秀吉の美学である。日本では、これを俗っぽさの最たるものとして「成金趣味」という。

 この美術展を見た後で知ったことだが、図録 [1] にモネ自身が、この絵は、「ガラクタさ。あれはただの思い付きさ」と語ったことが紹介されている [2] 。ほっとした。金に困ったモネが苦肉の策として描いたらしいのである。この絵は嫌いだが、モネの所業は是である。なぜなら、この絵を例外として、私はモネのほとんどの絵がすごく好きだし、そうした絵を描く画家に敬意を抱いているからである。モネほどの才能が貧苦に喘ぐのは、理不尽だと思うのだ。

 「期待しないけど、行ってくる」と言って家を出て、「とてもいい展覧会だったよ」と言いながら帰った、そういう美術展だった。

ジェームズ・ジャック・ジョゼフ・ティソ(フランス、1836-1902)《新聞》1883年、
エッチング、ドライポイント、37.8×29.2(55×35.5)cm (図録、p. 72)。

 西洋絵画におけるジャポニズムとしては、19世紀後半から20世紀初頭に印象派や後期印象派などの画家が浮世絵に注目したことがよく知られている。ある意味で、ジャポニズムにおける日本絵画は、よかれあしかれ、浮世絵によって代表されてしまったとも言える。
 この美術展においても、日本絵画として参照されているのはほとんど浮世絵である。ジェームズ・ジャック・ジョゼフ・ティソの《新聞》は、文机に頬杖をついて物思いにふける遊女(菊川英山《風流近江八景石山》)や文机に片肘をついて文の言葉を考えあぐねている遊女(鳥橋斎栄里《(近江八景 石山秋月)丁子屋内 雛鶴 つるし つるの》)等との近縁性を持つとされるいくつかの絵画の中の一点である。
 この新聞に見入る婦人の絵が、上の浮世絵とどのような類似性、近縁性、影響関係があるのか、私には定かではない。強いて言えば、目が隠されている点で、部分で全体を連想させるという日本的な技法に近いということだろうか。少なくとも私は、参照の浮世絵からもっとも遠いと思われるこの作品に一番惹かれたのである。

【左】メアリー・スティーヴンソン・カサット(アメリカ、1844-1926)《湯浴み》1891年頃、ドライポイント、
ソフトグランド・エッチング、カラーアクアチント、31.8×24.6(43.6×27.9)cm (図録、p. 91)。

【右】喜多川歌麿(生年未詳-文化3(1806)年)《(母子図 たらい遊)》享和3(1803)年頃、
大判錦絵、35.3×24cm (図録、p. 90)。

 カサットの《湯浴み》は、喜多川歌麿の絵と主題、構図、線描など、その類似性は明白だが、喜多川歌麿の絵を参照しなくても、独立した絵画の良さがある。人物に和服を着せたり、扇や団扇を配したりするつまらないジャポニズムはここにはない。

【左】フェリックス・エドゥアール・ヴァロットン(スイス、1865-1925)《(版画集『息づく街、パリ』より)
にわか雨》1894年、亜鉛版リトグラフ、22.7×31.2(32.1×44.2)cm (図録、p. 113)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《名所江戸百景大はしあたけの夕立》
安政4(1857)年9月、大判錦絵、36.3×24.2cm (図録、p. 40)。

 ヴァロットンと広重の絵については、絵画的な影響関係と言うよりも、どちらかと言えば技術的な共通性に興味がわいたのである。主題の類似性もさることながら、版画とリトグラフでは雨の表現方法が似てしまうのは必然ではないか、と思ったのだ。近縁性、影響関係は必然的であったのではないか。
 異文化の摂取が、意識的な進取性に基づくのか、当該芸術分野の進展における必然性であるのかは、おそらく結果としての作品の芸術性に質的な差異を産みだすだろうと想像するが、テーマが大きすぎて手に負えそうにない。

ハーマン・ダドリー・マーフィー(アメリカ、1867-1945)《アドリア海》1908年頃、
油彩、カンヴァス、50.8×68.9cm (図録、p. 163)。

 《アドリア海》は一目で気に入った。こういう絵が好きなのである。ジャポニズム性は、おそらく、浮世絵の大胆な空白の使い方が、ほとんど何もない海、わずかな雲だけで変化のすくない広大な空、空と海に茫洋とした境などを大胆に描くことをインスパイアしていることだろう。
 非対称性の美というのも日本的なはずだが、それとはまったく無縁の構図である。このような浮世絵の存在を想定しなくても、そして近縁性や影響関係を想定しなくても、まったく問題がない作品であることは、絵画にとってとても大切なことだと思う。

【左】ジョン・ラファージ(アメリカ、1835-1910)《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》1862年、
油彩、カンヴァス、61×32.7cm (図録、p. 187)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《名所江戸百景神田明神曙之景》
安政4(1857)年9月、大判錦絵、36.5×25cm (図録、p. 186)。

 広重のきわめて大胆な構図の《名所江戸百景神田明神曙之景》がエンカレッジしたような絵もある。広重の絵は、縦長の画面を真ん中で分断するような樹幹、両脇にも部分だけが描かれた垂直な幹。加えて縁台と棚組が水平な線で描かれ、幾何学的な格子を形成するという大胆さである。
 しかし、垂直に延びる樹幹というのはごく自然であって、《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》のように描かれると、とくに大胆な構図だとは言い難い自然なリアリズムが生まれている。地面も広重のように単色化されている点、背景の空と雲の構成が比較的シンプルだという点も、広重的な構成に近いとも言える。

エドヴァルド・ムンク(ノルウェー、1863-1944)《夏の夜の夢(声)》1893年、
油彩、カンヴァス、87.9×108cm (図録、p. 189)。

 ムンクの《夏の夜の夢(声)》も画面を垂直に切断する樹々が重要な構成要素である。水辺の裸地を示す二本の横のラインも広重の上の絵を想起させる。しかし、この絵も《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》も、その主題は人間であって、一方の広重の絵の主題は風景である。構図を借りて、異なった主題を描いているのである。

 明らかに浮世絵の構図を参考にして描いたと思われる作品は、クロード・モネにもいくつかある。

【上】クロード・モネ(フランス、1840-1926)《トルーヴィルの海岸》1881年、
油彩、カンヴァス、60.7×81.3cm (図録、p. 195)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《東海道五拾三次之内四日市
三重川》天保4(1833)年頃、横大判錦絵、22×34.6cm (図録、p. 194)。

 「モネはしばしば、その膨大な浮世絵コレクションの中から特定の作品を参照して制作」したのだ、図録解説にある。《トルーヴィルの海岸》は、広重の《東海道五拾三次之内四日市 三重川》の構図と色彩を取り入れた作品である。同じ図録解説につぎのようなとても重要な指摘があった。「《トルーヴィルの海岸》では、合理的な空間構成を実現するため確立された西洋に手法、すなわち遠近法と陰影法の使用を遠ざけた。」(図録、p. 195)
 西洋絵画史の詳細は分からないが、古典的な遠近法と陰影法からの脱却、現代美術への展開の初期的な契機の一つに浮世絵があったというなら、それはとても重要なことだろうし、興味深いことだ。

【上】クロード・モネ(フランス、1840-1926)《積みわら(日没)》1891年、
油彩、カンヴァス、73.3×92.7cm (図録、p. 197)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《東海道五拾三次之内鞠子
名物茶店》天保4(1833)年頃、横大判錦絵、22×34.2cm (図録、p. 196)。

 《積みわら(日没)》は、《東海道五拾三次之内鞠子 名物茶店》の構図による作品だという。構図ばかりではなく、色彩によって遠近を表現している点も似ているという。
 しかし、そうした類似点にもかかわらず、印象は、まったく別種の絵だということに尽きる。《積みわら(日没)》はほんとうにモネらしい作品で、《東海道五拾三次之内鞠子 名物茶店》もまた、これこそ広重という作品だ。

 モネの《ラ・ジャポネーズ》への嫌悪の予感から始まった美術展体験だったが、最後は、その当のモネの《トルーヴィルの海岸》と《積みわら(日没)》という二つのいい絵で締めくくることになった。

 実際の最後の締めくくりは、モネの《睡蓮の庭》、《睡蓮》の展示であった。

 

[1]『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展――印象派を魅了した日本の美』(以下、図録)(NHK、NHKプロモーション、2014年)。
[2] エミリー・A・ピーニー「日本人の姿をしたパリジェンヌ」図録、p. 29。


『ジャン・フォートリエ展』 東京ステーションギャラリー

2014年06月29日 | 展覧会

2014年6月28日

 これを成長というのか、成熟というのか確信はないけれども、画家の想像もできない変容を、その画業を通じて眺めるのは、人間存在の不思議に打たれるような感動がある。
 リジッドな具象からアンフォルメルな抽象へ変容を遂げた画家は、図録 [1] の中で山梨俊夫が引用しているように、「絶対的〈アンフォルメル(不定形)〉の非現実性は何ももたらさない。無償の遊技だ。どんな形の芸術であろうと、現実(レエル)の一部を含んでいなければ感動を与えることはできない」 [2] と語っている。

 ジャン・フォートリエ:1898年、パリ生れ。ロンドンで育ち、絵を学び、第一次世界大戦にフランス兵として従軍。1921年の除隊後、画業に専念。1964年没。

《管理人の肖像》1922年頃、油彩、カンヴァス、81×60cm、
ウジェーヌ・ルロワ美術館、トゥルコワン (図録、p. 29)。

 画家24歳頃の作品、《管理人の肖像》のリアリズムに圧倒される。表層的な美に惑わされることなく、冷徹なリアリズムが見出すのは、人間存在そのもの、〈実存〉の形態と色彩、だと断言しているような作品である。
 とても印象深い絵だが、心が安まるなどという鑑賞からほど遠い。小柄な老婆の体躯には不釣り合いに大きい掌、組まれたその手指に目を奪われて立ちつくしてしまう。そんな作品である。

【左】《左を向いて立つ裸婦》1924年頃、サンギーヌ、紙、102.2×66cm、
個人蔵 (図録、p. 49)。
【右】《後ろ姿の裸婦》1924年頃、サンギーヌ、紙、70×46.5cm、
個人蔵 (図録、p. 50)。

 同じ時期の裸婦像が何枚も展示されていたが、この2枚は飛び抜けて目を惹く。他の裸婦像からうかがうかぎり、画家は、けっして人間の肉体の持つ美しさ、醸し出す人間臭さ、そうしたことを無視しているわけではない。しかし、まずは、肉体が在ること、在るがままのことに専念しているように見える。《管理人の肖像》と同じように、そのような強い意志に貫かれて、この2枚は描かれたようだ。

《森の中の男》1925年頃、油彩、カンヴァス、92×73cm、
パスカル・ランスベルク画廊、パリ (図録、p. 40)。

 そして、《森の中の男》を見て、わたしはやっと安堵する。男の右腕と平行にやや斜めに立ち上がる木の幹、その傾きと対称をなすような背景の木の幹。その安定した絵画的構図は平静な感情を促すし、健康そうな壮年の男の表情は神経を安定に支えてくれる。
 リアリズムは、真実へのガイドではあっても、私たちの感情や精神の味方であるとは限らない。フォートリエの絵はそう教えてくれるようだ。

【左】《美しい娘(灰色の裸婦)》1926-27年、油彩、カンヴァス、92×60cm、
パリ市立近代美術館 (図録、p. 57)。
【右】《青灰色の裸婦》1927年頃、油彩、カンヴァス、116×73cm、
ミヒャエル・ハース画廊、ベルリン (図録、p. 58)。

 フォートリエの画業が「黒の時代」と呼ばれる28~30歳頃の一連の裸婦像では、リアリズムから遠ざかっていく様子がうかがえる。たとえば、《美しい娘(灰色の裸婦)》は、《青灰色の裸婦》などのような一連の裸婦像の中で、なぜ「美しい」と形容されねばならないのか。ここにはすでに、画家の表象過程に潜む美意識の謎が示されている。しかし、謎は謎であって、私にはたぶんずっと謎のままであろう。

《花》1928年頃、油彩、カンヴァス、65×54cm、個人蔵 (図録、p. 70)。

 黒の時代のいくつか静物画の中で、花と葉をほとんど黒一色で描いた(花の下地に赤色が配されているが)《花》が目を惹いた。何よりも器の白さの対照が印象的な絵だ。背景も器も黒で描かれた静物画よりかなり明るく感じるのである。


《醸造用の林檎》1943年頃、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、65×92cm、
ガンデュール美術財団、ジュネーブ (図録、p. 91)。

 《醸造用の林檎》には、かなりの比重で具象が残されている。厚い白のマチエールの上に重ねられたワインレッドがとてもいい。林檎ってこんな色だったか、と思ったりもしたが、美しさがそれを一瞬で打ち消す。そんなふうにこの絵を見ていた。

【左】《人質No.3》1943-45年、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、35×27cm、
ソー美術館、オー=ド=セーヌ県 (図録、p. 97)。

【右】《人質》1943年頃、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、27×22.5cm、
ソー美術館、オー=ド=セーヌ県 (図録、p. 98)。

 第二次世界大戦後、フォートリエは《人質》という連作を発表する。第一次大戦の従軍体験、第二次大戦のゲシュタポによる拘留体験などに裏打ちされた作品群は、すべて人間の頭部だけを描くことによって表現されている。
 エティエンヌ・ダヴィドは、次のように解説している。「40余点の「人質」連作では、片方あるいは両方の目が、鼻が、口の一部が、さらには顔面の半分が欠けた、傷ついた頭部が公然と晒されている。戦争の悲劇的な苦痛の中で、顔によって象徴化された人間は匿名の存在となっている」 [3]

 《人質No.3》は、鼻だけを含む輪郭だけの顔で、目や耳や口は描かれていない。《人質》は顔の半分が毀損されている。

【左】《人質(人質の頭部No.9)》1944年、グワッシュ他、石膏、紙(カンヴァスで裏打ち)、
73×60cm、大原美術館 (図録、p. 100)。

【右】《人質の頭部》1944年、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、64×54cm、
国立国際美術館 (図録、p. 103)。

 全連作で確認することはできないが、展示されているかぎりにおいて、「人質」連作は、背景に描かれた顔の輪郭の中に白いマチエールの厚塗りで描かれるという共通点がある。《人質(人質の頭部No.9)》もまたその例に洩れないが、白い絵の具の上に薄く異なった輪郭線が描かれている。地の輪郭線の近くには複数の線で、離れている輪郭ははっきりとした線で描かれている。厚塗り部分の実在の一人の顔は、それに連なる同じ運命を辿って死んだ無数の顔たちを代表しているかのようだ。
 《人質の頭部》の複数性は、《人質(人質の頭部No.9)》のそれとは異なっている。地の輪郭線の中に厚塗りの顔が描かれるが、さらにその内側に二段の厚塗りで異なった顔が描かれるという構造になっていて、最上部の顔の目は失われている。

 フォートリエの頭部だけの「人質」像は、あたかもエマニュエル・レヴィナスの倫理哲学が〈顔〉から出発し、〈顔〉によって語られたことと呼応しているような気がしてならない。
 レヴィナスによれば、他者の「顔」は一挙に全面的に〈私〉に関わってくる。〈私〉を見つめる他者の〈顔〉によって、私は直ちに他者に対して責務を負う立場となり、他者に対して有責となるというのだ。責務を負い、罪あるものとして〈私〉は他者に対して振る舞わなければならない。ジャック・デリダは、「レヴィナスの倫理はすでに宗教なのだ」 [4] と述べたほど、レヴィナスの倫理は徹底している。
 《人質》の〈顔〉と対面して、あるいはその〈顔〉に連なる無数の他者(あるいは死者)に対して、私(たち)は有責である。世界大戦を生き残った私(たち)は有責である。この世界が新しい人質を生み出し続けていることにおいて、私(たち)は有責である。そう語っているのではあるまいか。倫理が試されているかのように……。

《永遠の幸福》1958年、油彩、紙(カンヴァスで裏打ち)、89.4×146cm、
大阪新美術館建設準備室 (図録、p. 135)。


《小さな心臓》1962年、油彩、紙(カンヴァスで裏打ち)、81×116cm、個人蔵 (図録、p. 153)。

 《永遠の幸福》は、「アンフォルメル(不定形)」と称されるフォートリエ絵画のひとつの典型である。薄く塗られた紙(カンヴァス)の中心に厚塗りでマチエールが置かれる。《永遠の幸福》という観念的なタイトルが珍しくてここに挙げたが、普通はごく具体的な主題をアンフォルメルに表現するというスタイルである。
 《小さな心臓》も青い薄地の上に不定形化した心臓(たぶん)が描かれる。ただ、観者としての私には、それが「小さな心臓」や「永遠の幸福」でなくても絵画として十分に楽しめるのである。《無題》と命名された抽象画を楽しめるように楽しめるというのは、フォートリエが語る「現実の一部を含んでいなければ感動を与えることはできない」ということと矛盾するのだろうか。あるいは、抽象というのは人間が生きる現実や人間が想像しうる世界からの抽象化としてあるがゆえに、優れた抽象は現実を内包しているということであろうか。判然とした答えを私はまだ持たないが、答えが出なくても、単なる観者の楽しみは変わらない。けれども、それはそれなりに気になるのだ。


[1]『ジャン・フォートリエ展』(以下、図録)(東京新聞、20144年)。
[2] 山梨俊夫「絵画の現実性(レアリテ)を求めて――フォートリエの軌跡」図録、p. 19。
[3] エティエンヌ・ダヴィド「厚塗りから「人質」へ(1938-1945年)」図録、p. 83。
[4] ジャック・デリダ(広瀬浩司、林好雄訳)『死を与える』(筑摩書房、2004年) p. 173。