かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『オルセー美術館展 印象派の誕生―描くことの自由―』 国立新美術館

2014年09月29日 | 展覧会

【2014年9月29日】

 時間が逆だが、『オルセー美術館展』を見終えて、帰りの新幹線の中で図録 [1] を眺めていたら奇妙な興奮がぶり返してきた。「新しい絵画の立役者たちがパリに揃った1855年から1859年頃以降、パリは猛烈な熱気に包まれていった!」という書き出しで始まるカロリーヌ・マチューの一文 [2] を読んだときのことである。次のような文章が続く(以下カッコ書きのページはすべて図録のページである)。

生まれはパリだがノルマンディーのル・アーヴルに育ったモネ、南仏エクス=アン=プロヴァンス出身のセザンヌ、モンペリエ出身のバジール、イギリス出身のシスレー、ヴァージン諸島(当時はデンマーク領アンティル諸島)出身のピサロ、パリ生活が長いルノワール(リモージュで生まれたが4歳で上京)、マネ、そしてイタリア滞在時にギュスターヴ・モローと親交を結んだのち帰国したドガがいた。彼らはみな独自の絵画表現を追い求めてパリへやって来た。 (p. 18)

 次々に書き出される画家の名前を読みながら感じるちょっとした興奮は、ちょうど美術展で歩を進めるたびに次々登場してくる絵を見ているときの興奮に似ている。150年以上隔てたパリの時間が、空間として展示会場に拡がっていたのだ。
 しかし、それは優れた画家たちがパリに集うという壮観のことばかりではない。芸術の歴史の変換点を画する時代であったことを概観しているマチュウの次のような文章もまた刺激的である。

……1850年以降「今を描きたいという熱望」が一陣の新風を立ち上げ、古い型にはまった絵画に徐々に反撃していった! マネやクールベらの画家たちは、何を描くべきか、現代にふさわしい主題の選択に頭を悩ませた。マネは「目に見えるものを描かねばならない」と声を上げたが、シャルル・ボードレールはこの宣言を早くから先取りしていた。1846年にボードレールは、現代人が実際に生きている時代の精神を表現する芸術を創造し、「優雅な生活や、大都市の地下を動きまわる無数の浮動的な人間たち」の眺めを直視せよと芸術家たちに呼びかけた。エミール・ゾラを筆頭にエドモン•デユランティ、マキシム・デュ・カン、テオフィール・ゴーティエら多くの批評家や作家も、絵画に劇的な変化と革新を求めた。 (p.18)

 ボードレールやゾラ、文学に呼応する絵画。芸術の歴史における大変革の至福の時間。少し大げさに過ぎるようだが、カロリーヌ・マチューの文章によって惹起された私の感情はそのようなものだった。それは、この美術展でマネの絵をまとめて見ることができたということとも関連している。

エドゥアール・マネ《笛を吹く少年》1866年、油彩/カンヴァス、
160.5×97cm、画面右下に二つの署名 (p. 45)。

 ミシェル・フーコーの『マネの絵画』 [3] という本を読んだ時から、マネの絵が気にかかっていた。『マネの絵画』では、ミシェル・フーコーの短い講演録に9人の論者が応答した形で、マネの絵画について、とくにその歴史的意味について論じている。

 この美術展では、「I章 マネ、新しい絵画」として最初の展示コーナーを設けてそのマネの絵をまとめて展示しているばかりではなく、「IX章 円熟期のマネ」という最後のコーナーで終るという特別扱いになっている。

エドゥアール・マネ《読書》1865年(1873-75年に加筆)、油彩/カンヴァス、61×73.2cm (p. 49)。

 マネが、19世紀の絵画の変革にとってきわめて決定的だとフーコーは『マネの絵画』で語っているのである。期せずして、横山由紀子がそのフーコーの言葉を図録の一文  [4] で引用している。 

「マネが印象派をも超えて可能にしたのは、印象派以後の全ての絵画、20世紀絵画の全てであり、今もなお現代美術がその内部で発展し続けているような絵画だったのではないか、と思われるのです」 (p. 30(『マネの絵画』p. 4))

 もちろん、フーコーのマネ評と異なる考えもある。ダヴイッド・マリーは『マネの絵画』のなかで、次のように記している。

 ミシェル・フーコーによれば、マネは現代絵画の歴史を開いた。「マネが印象派をも越えて可能にしたのは、〔……〕二十世紀絵画のすベて〔……〕だったと思われます」。マイケル・フリードによれば、逆に、マネはひとつの歴史的な時期を完成させた。つまり、マネは過去の諸作品との関連に基づいて自分の作品を構成するが、印象派の画家たち、そして近代の画家の多くは、絵画の伝統との関係を絶っているように思われる、というのだ。フーコーにとっては、マネはその「エピステーメー」の最初に位置している。フリードにとっては、マネはその最後に位置しているのだ。 [5]

 いずれにせよ、マネは絵画の大変革による歴史断絶の境界に位置していることは間違いない。そして、ミシェル・フーコーが語り、マイケル・フリードが論じ、さらにはジョルジュ・バタイユも評したというマネによる絵画の変革、歴史的断絶という意味を、「私がマネの絵を見ることで」理解することができるのか、ということをずっと考えていたのだ。
 この「オルセー美術館展」がマネの絵をまとめて展示していたことは私としてはとても嬉しかった。とはいえ、もちろん、ことはそんなに簡単には進まない。展示されたマネの絵を見ながら、絵画の歴史的変革をその絵の中に見る、などというのはそうとうに難しい。

エドゥアール・マネ《アスパラガス》1880年、油彩/カンヴァス、16.9×21.9cm (p. 243)。

 マネが絵画に歴史的変革をもたらしたことに関しては、横山由紀子の次のような説明が私にはとても理解しやすい。

それまでは、世界は全体として把握されるものであり、絵画として描かれたイメージは、その背後にある連続した時間と空間の秩序によって支えられていた。言い換えれば、そこに何が描かれているのかを理解するための文脈がそれを見る人のなかに共有されていたのである。したがって人々は、絵画に描かれた神話や歴史や風景を、普遍的な真実として受け取ることができた。ところが、印象派の風景画になると、もはや文脈などは霧散して、もし頼るべきものがあるとすれば、それは画家の知覚だけということになる。カンヴァスに置かれたタッチは、画家がそこにその色を見たという以外には何の意味ももっていない。それまではカンヴァスの、現実の向こう側にあった世界が、こちら側に、画家が立つ場所にやってきたとでも言えるだろうか。私たちは自分の知覚を信じるというものの見方に長い間身を浸してきたので、もはや前者の人々が見ていた世界を想像することすら困難になってしまった。逆もまた然りである。マネはいわば両方の世界の間で宙吊りになったような存在であり、それゆえにこそ、いまだ謎多き画家として、夥しい紙とインクが彼についての研究に費やされているに違いない。 (p. 30)

 日本の社会・政治的情況において、1960~70年代に人びとは「大きな物語」を失ってバラバラの政治言語を語りはじめた、そんなふうに語られる思想状況の変容と、絵画におけるマネの時代の変革との間にアナロジカルな関係が見えて面白い。日本の戦後では、「大きな物語」の喪失が、優れた思想を生み出す原動力にはなっていないという点では決定的に違うけれども。

エドゥアール・マネ《ロシュフォールの逃亡》1881年頃、油彩/カンヴァス、79×72cm (p. 247)。

 もう、マネの絵について語るべきことはないような気分だ。《アスパラガス》は、横に掲示されたエピソードに感動した。《アスパラガスの束》という絵を購入した美術史家が約束より多くを支払ったことに対して、マネが「あなたのアスパラガスの束から1本抜け落ちていました」と添えて贈った絵だという。絵を見るだけの人間が画家の気性や性格を知る由もないのだが、このエピソードには絵と同じくらいの魅力がある。

 《ロシュフォールの逃亡》は、圧倒的な絵だ。荒い筆致の波の様子が、クールベの波立ちのリアリティに匹敵する。クールベの写実性を、このような筆致で超えてしまうことに驚いた。しばし、眺めこんでしまった。そんな絵だった。

 クールベ、コロー、ミレー、モネ、シスレー、ルノワール、モローなど魅力的な画家の絵が並ぶこの美術展で、マネの他に私が注目してしまった(つまり、期せずしてということなのだが)画家がいた。セザンヌである。なにか、今さらのようだが、セザンヌはとくに好きな画家というわけではなかったのだ。ところが、こうした画家たちのなかにセザンヌを配すると、彼の際立った特徴が目から離れなくなったのである。

ポール・セザンヌ《草上の昼食》1876-77年、油彩/カンヴァス、21×27cm (p. 145)。

 たとえば、《草上の昼食》だ。マネの《草上の昼食》、モネの《草上の昼食》と並べるには、あまりにも小品なのだが、セザンヌらしさは際立っている。図録解説には、モネの大作に匹敵するような《草上の昼食》を構想していたが実現しなかったとあるが、マネやモネに対して、この主題をこの小品で応えたというところに、私はセザンヌを見たいという気持ちになった絵だ。


【上】アルフレッド・シスレー《ルーヴシェンヌの道》1876年頃、油彩/カンヴァス、55.5×46cm、
画面右下に署名 (p. 143)。
【下】ポール・セザンヌ《ポプラ》1879-80年、油彩/カンヴァス、65×81.5cm (p. 147)。

 印象派の風景画の中ではシスレーがお気に入りなのだが、そのシスレーとセザンヌの風景画がごく近くに展示されていた。《ルーヴシェンヌの道》と《ポプラ》である。ポプラという樹種の特質もあるだろうが、セザンヌの筆遣いと色彩の特徴がよく出ている。いままで、私は個性が強調された風景画をそんなに好まなかった。たぶん、セザンヌにあまり惹かれることがなかったのはそのせいだろうと思う。いまは、シスレーとは違う「勁い風景画」というものがあることを知ったという気分なのだ。

ポール・セザンヌ《レスタックから望むマルセイユ湾》1878-79年、油彩/カンヴァス、59.5×73cm (p. 159)。

 そうすると、かつてセザンヌの風景画そのものと思っていたような《レスタックから望むマルセイユ湾》もなにごともなく受容できるのだ。たぶん、以前の私なら、手前の木々や畑の色彩をうるさく思ってしまっただろう。

ポール・セザンヌ《バラ色の背景の自画像》1875年頃、油彩/カンヴァス、
66×55.2cm (p. 207)。

 《バラ色の背景の自画像》も驚くような思いで眺めた絵である。一瞬、「意志力に溢れたゴッホだ」と思ったのだが、なぜだろう。ゴッホも多くの自画像を描いているので、家に帰ってから、セザンヌの自画像と比べてみた。強いて挙げれば、1986年にパリで描いた《パイプをくわえた自画像》なのだが、アルルへ移ってからのゴッホの筆致で《パイプをくわえた自画像》を描けばもう少し近くなるように思う。
 ゴッホはこの自画像を見ていたのだろうか。見ていてもいなくても、ゴッホの自画像はセザンヌの自画像を超えて描かれたと言っていいだろうが、同時に、セザンヌの自画像は「すでに」ゴッホの自画像を超えていたと言ってもいいだろう。優れた絵の関係はそういうものだろうと思う。

ジャン=フランソワ・ミレー《横たわる裸婦》1844-45年、油彩/カンヴァス、33×41cm (p. 115)。

 マネとセザンヌでもう十分に満足したと言っていいのだが、この美術展ではミレーの《晩鐘》も展示されていて、混雑する会場でひときわ絵に近寄れないほどの人だかりであった。そのミレーの《横たわる裸婦》は小品ながらとても魅惑的だった。農村と農民のミレーというお決まりのイメージを驚かせるに十分な裸婦像である。豊満で魅惑的な肉体をこのように控えめに秘めやかに描くミレーに魅力的な別人を見る思いなのだ。もちろん、これは私がミレーの全体像を知らないせいなのだろうとは思うのだが。

エドゥアール・マネ《笛を吹く少年(右下部分)》、左:図録、右:ファブリ画集[6]、図版VII。

 最後に、これはまったくの余談に過ぎないのだが、《笛を吹く少年》という画題に「画面右下に二つの署名」という文が添えられていた。それを珍しく思って、古い画集 [6] の《笛を吹く少年》を開いてみたら、署名は一つだけだった。その画集では、ルーブル美術館所蔵となっていた。印刷技術のせいか色調が異なるものの、図版を見比べる限りにおいて、署名以外の違いを私はみつけられなかった。
 図録ではこのことについては何も記載されていない。その点から考えて、誰でも知っている事実で、あえて記載するに値しないということなのかもしれない。私だけが知らないということだろう、たぶん。

 

[1] 『オルセー美術館展 印象派の誕生―描くことの自由―』図録(以下、『図録』)(読売新聞東京本社、2014年)。
[2] カロリーヌ・マチュー「印象派の誕生――描くことの自由」『図録』p. 18。
[3] ミシェル・フーコー『マネの絵画』 (以下、『マネの絵画』)(阿部崇訳) (筑摩書房、2006年)
[4] 横山由紀子「落選者たち」『図録』p. 30。
[5] ダヴイッド・マリー「表/裏、あるいは運動状態の鑑賞者」『マネの絵画』 p. 92。
[6]『ファブリ世界名画集26 マネ』(以下、ファブリ画集)(平凡社、1970年)。