【2016年12月2日】
新国立美術館でダリ展が開催されていることを知ったが、見に行こうかどうかいくぶんのためらいがあった。ダリだからということではない。世界的に名声を博した画家の展覧会ではよくそんな気分になる。有名な画家の場合、実物であれ、雑誌などの出版物であれ、多少なりともその作品を何らかの形で目にしている。それほど知られていない(私が知らない)画家の美術展のような新鮮な驚きを期待できないと思い込んでしまうのである。それに観客がとても多くて人酔いに悩まされた経験も災いしている。
さいわい、年齢を重ねるほど人酔いに苦しむことは少なくなった。有名な画家の美術展でも新しい発見の喜びがあることも経験した。しかし、もうひとつ重要な問題がある。サルバドール・ダリである。シュールレアリスムの大物である。私には超現実主義に強い苦手意識があるのだ。
若いころ『現代詩手帳』か『詩学』のような詩の雑誌でシュールレアリスムに関する評論に「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい!」 [1] という詩句のフレーズを引用して紹介されていたロートレアモンの『マルドロールの歌』を読んだのだが、感動どころか不可解という感慨ばかりであった。
これは詩のことだが、絵でも同じである。シュールレアリスムの絵には細部においては具象体が描かれていることが多く、それらの具象体で構成される全体が現実を超えているということである。それはあたかも「ミシン」と「洋傘」が「手術台」のうえで「出会う」というフレーズと似ている。それぞれの名辞(具象体)をよく知っているのだが、その連関が持つ全体の文脈(イメージ)を辿れないのである。いや、意味を辿ろう、全体の文脈を構成しようと思うから失敗するのだろう。
最初から具象体が描かれていない抽象画の場合は構図や色彩の美しさを楽しむことができるので、シュールレアリスムにおける「言葉」や「具象体」に惑わされているのだろう。具象体の組み合わせ(構成)がもたらすイメージの美しさを楽しめればいいのである。理屈ではそうだが、言葉や物に縛り付けられた凡庸な感性に期待できるものなのかどうか、見に行くしかないと新幹線に乗り込んだのである。
《縫い物をする祖母アナの肖像》1920年頃、油彩/カンヴァス、49.5×63.0cm、
ガラ=サルバドール・ダリ財団 (『図録』p. 52)。
《フィゲラスのジプシー》1923年、油彩、グワッシュ/厚紙、
104.0×75.0cm、国立ソフィア王妃芸術センター
(『図録』p. 62)。
ダリといえども初めからシュールレアリストであったわけではない。窓辺で手仕事をする女性、窓から遠景は望めるという構図の西洋絵画は多い。祖母アナという実在の人物の肖像画として描かれた《縫い物をする祖母アナの肖像》も同じ構図なのだが、窓から差し込む光と影だけで祖母アナが描かれているのである。
肖像画なのにその人物の顔立ちなどは判然としない。ここには常識的な「意味」を拒否するシュールレアリストの片鱗が現れているのかもしれないが、一方でそれは、部屋の静謐さ、落ち着いた安寧の人生を送っている老女の表象としてすぐれた表現であるようにも思える。
ダリの初期作品には《縫い物をする祖母アナの肖像》のような印象派風の絵や、強い点描の新印象派を思わせる作品、さらには《キュビズム風の自画像》まであって、さまざまなモダン流派の技法を試みていることが展示で示されている。
《フィゲラスのジプシー》はやや太めの線描で、フォービズムを試みた作品ではないかと思ったが、図録解説によれば、「ウルグアイ人画家ラファエル・バラダス(1890-1929年)の影響」ということである。私はバラダスという画家やその作品についてまったく知識を欠いているが、「いくらか線を省略したり、顔の造作を途切らせ描かなかったりすることで、逆に顔つきや態度の表現を豊かにするといった手法は、……(中略)……バラダスが「道化主義(クラウニズム)」と呼んだもの」(『図録』p. 62)と解説されている。この手の作品はこれだけだったので、会場では(少なくとも私にとっては)よく目立った作品だった。
《巻髪の少女》1926年、油彩/板、51.0×40.0cm、
サルバドール・ダリ美術館 (『図録』p. 74)。
《姿の見えない眠る人、馬、獅子》1930年、油彩/カンヴァス、60.6×70.4cm、
ポーラ美術館 (『図録』p. 92)。
《風景のなかの人物と掛け布》1935年、油彩/カンヴァス、55.5×46.0cm、
ガラ=サルバドール・ダリ財団 (『図録』p. 103)。
ダリには広大な風景、多くの場合砂漠などの荒漠とした風景を背景として用いることがとても多い。《巻髪の少女》に描かれた風景は遠くに低い山並みが見える田園地帯のようで、けっして荒蕪地ではないのだが、薄絹をまとったエロティックな少女立像との奇妙なアンバランスが魅力的な絵である。
少女の視線から見る風景として描かれる構図はロマン主義に由来すると解説にあったが、ドイツ・ロマンティクのフリードリッヒの絵とは印象が大いに異なる。一般に、ロマン主義の風景画は自然の偉大さ、崇高さを強調し、背中を見せてその風景を眺めている人物はあまり大きく強調しては描かれない。むしろ、この絵の主題は「少女のいる風景」ではなく「風景のなかの少女」という印象の方が強い。シュールレアリストとなるダリに即していえば、風景と少女が同じような重みをもつイメージの連関とでもいうべきかもしれない。
ダリはしばしば「見えない存在」としての人間を描いている。《姿の見えない眠る人、馬、獅子》もその一つかもしれないが、じっさいには馬の体と一体化することで人間としては消えていても、その肉体は可視化されている。「中央に横たわる裸婦、馬、獅子が一体化したモティーフ」で、「女性の髪は馬のたてがみとなり、その両腕は馬の頭部・前足として機能し、馬の尻尾は獅子の頭を示している」(『図録』p. 92)。
風景のなかにエロティックな女性の肢体を配するという点では《巻髪の少女》と共通しているが、風景が荒涼としたものとなっていて、ダリの特徴がよく表されている。
《風景のなかの人物と掛け布》もまた広大な風景のなかの人物という構図だが、枯れ木に掛けられた白布から上半身をのぞかせている人物の意味ありげな様子に捕らえられてしまう。たぶん、ここでこの意味を考え込んでしまうと、以前と同じように前に進めなくなってしまう。この辺りにシュールレアリスムのトラップがあるのだ。
【上】《ターバンを巻いたガラの肖像》1939年、油彩/カンヴァス、56.0×50.0cm、
国立ソフィア王妃芸術センター (『図録』p. 129)。
【下】《アン・ウッドワードの肖像》1953年、油彩/カンヴァス、85.7×61.0cm、
公益財団法人諸橋近代美術館 (『図録』p. 145)。
正直に言えば、この美術展における最大の感動は《ターバンを巻いたガラの肖像》を見たときである。ほぼ真っ暗な背景、画家が深く愛した女性はカンヴァスの右下に小さく描かれる。構図といい、色調といい、度肝を抜かれてしまった。この絵に超現実主義などという形容はいらない。対象に対する深い愛情がそれを乗り越えてしまった、などと思わせるに十分な作品である。
《ターバンを巻いたガラの肖像》と比べれば、《アン・ウッドワードの肖像》はいかにもダリらしい肖像画だと思ってあっさり通り過ぎてしまいそうになる。この肖像画に描かれる風景は、ダリでなければ描かれなかったものだが、多数のダリ作品の中に置かれてしまうとさほど目立たなくなってしまう。そういった意味では、《ターバンを巻いたガラの肖像》の印象はことさら際立っていたということある。
【上】《幻想的風景 英雄的正午(ヘレナ・ルビンスタインのための壁面装飾)》1942年、
テンペラ/カンヴァス、249.0×243.0cm、横浜美術館 (『図録』p. 138)。
【下】《幻想的風景 夕べ(ヘレナ・ルビンスタインのための壁面装飾)》1942年、
テンペラ/カンヴァス、247.5×247.0cm、横浜美術館 (『図録』p. 139)。
(ヘレナ・ルビンスタインのための壁面装飾)という説明のある暁、正午、夕べの3枚組の絵のうちの2枚を示す。ここでは見えない人物ではなく、消えていく人物が描かれている。正午には上半身が薄れてしまった人物は雲や鳥と一体化しており、夕べには右足だけが消え残っている。時とともに存在が薄れていく人物というモティーフに強い物語性を期待してしまうのが普通であろうが、やはりここでも、ギリシア彫刻風の女性像が強い正午の日差しの中で風景に溶け込む美しさや宵闇の中で姿を失う瞬間のイメージを楽しむだけにしておくことにする。
《ポルト・リガトの聖母》1950年、油彩/カンヴァス、275.3×209.8cm、福岡市美術館
(『図録』p. 201)。
ダリの絵に宗教性を感じることはほとんどないが、《ポルト・リガトの聖母》は宗教画と呼ばれるべきだろうか。マリアは愛妻ガラに置き換えられ、幼子イエスは現代風の髪型である。背景が海というのは、聖母子像としてはとても珍しいというのが私の最初の印象だった。ただ、意味を訪ねない、文脈を問いたださない、ましてや物語性などをけっして求めない、そんな気持ちでダリの絵を見続けてきて、その最後近くに見る聖母子像である。私がクリスチャンだったらどんな感想を持つのだろう、と思ったあたりで私の思考は止まったようだった。
この絵では、それぞれのパーツが空中に浮遊し、それは「分裂した粒子が浮遊して一定の距離を保つという原子物理学の理論を反映」(『図録』p. 200)しているのだという。これを「量子化した写実主義」(『図録』p. 215)と呼ぶらしい。原子核工学を専攻したのち、物理学を職業的専門として生きてきた私は、文学や美術についてのこのような物理学を粉飾したような主義や主張にいつも戸惑うのである。
アラン・ソーカルとジャック・ブリクモンの『「知」の欺瞞』 [3] で論じられたのは哲学が援用する物理学についてであったが、ジャック・ブーヴレスも『アナロジーの罠』 [4] で同様の問題を取り上げている。『アナロジーの罠』の読後感を書いた時に私の考えをいくぶんかは述べているので、ここではこれ以上言及はしない。
美術館帰りの新幹線の中でダリ展の図録を眺めていて、ダリの「まず優先すべきは、全白色人種国民の協議のもとに、全有色人種を奴隷におとしめるという策である」という発言をもとにシュールレアリスム運動を牽引してきたアンドレ・ブルトンはダリと訣別した、という趣旨の記述を見つけた(『図録』p. 121)。これもまた、優れた思想が優れた芸術を保証しない、また優れた芸術はその作家の優れた思想・人格を保証しない、ということの一例なのだ。思想と芸術の問題の闇は深い。
[1] ロートレアモン『マルドロールの歌』(栗田勇訳、現代思潮社、1963年) p. 292。
[2] 『Salvador DaliJí (ダリ展)』(以下、『図録』)(読売新聞東京本社、2016年)。
[3] アラン・ソーカル、ジャック・ブリクモン(田崎晴明、大野勝嗣、堀茂樹訳)『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(以下、『「知」の欺瞞』)(岩波書店、2000年)。
[4] ジャック・ブーヴレス(宮代康丈役)『アナロジーの罠』(新書館、2003年)。
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